No.7 平成18年1月15日




 テーマは、「トルーマンは何故原爆投下を決断したか?」である。このテーマに取りかかるにあたって、インディアナ大学の歴史学者、ロバート・ファレルの編集した、「トルーマンと原爆、文書から見た歴史」と題する文書を出発点とした。ファレルは歴史学者であると同時にトルーマン研究家である。私はファレルをトルーマンの代弁者と見なして、まずトルーマンの云うことを聞こうと思った。
(ロバート・ファレルの編集した原文は次のURL。http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/index.php?action=documentary

 序章から見る限り、またその他のトルーマン日記から見る限り、この時、トルーマンの決断に決定的要素となったのは、日本侵攻に伴うアメリカ将兵の損害である。
 「原爆投下はアメリカ将兵の命を100万人救った」とする議論があるが、トルーマンに関する限りこの「100万人」に意味があるわけではない。対外宣伝用の数字と思えば間違いない。この数字にまともに反論するのはバカである。日本に対する原爆投下は、1945年7月25日に軍部の最終決定が出るのだが、この時までに「日本侵攻で一体何人の損害」が出るのか、トルーマン政権内部でも諸説紛々で、誰にもはっきりしたことが云えなかった。
http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_intro.htm 訳は次を参照。)
 
 はっきりしていることは、「相当の犠牲」が出ると言うことだった。根拠は硫黄島と沖縄本島への侵攻による米軍の損害だった。
 「相当の損害が出る」と言うこと自体が、善人トルーマンに取っては耐え難いことだった。しかもこの相当の損害は、相手が狂信的な日本軍部だけに、予測のつかない結果になる・・・。


 話は違うが、アメリカ支配層の日本武士道に対する理解は相当深いものがあったようだ。武士道をアメリカにはじめて体系だって紹介したのは新渡戸稲造である。新渡戸稲造は戦前日本が生んだ最大の国際人でもある。札幌農学校の第2回目の卒業生でジョン・ホプキンス大学に学び、国際連盟事務局次長を務めた。
(詳細はURL:(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0

  この新渡戸稲造が書いた武士道(Bushido: The Soul of Japan もともと英語で書かれている。後に日本語訳)については、大宅壮一がポイントを突いた紹介記事を書いているので、少々長くなるが引用しよう。
 「・・・新渡戸博士が、ベルギーの学者ド・ラペレーの家に招かれて客となっていたとき、宗教から切りはなされている日本の学校で、何を基準にして“人つくり”がなされているのかときかれ、日本には古くからブシドーというものがあって、これが欧米にかわる役目を果たしていることを、欧米人にもよくわかるように書いたものである。これまでにも小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)、アーネスト・サトウ、チェンバレンなど、日本の美点もしくは欠点を欧米に紹介したものは少なくなかったが、彼らは弁護士または検事の立場でものを云っているのに反し、新渡戸博士は日本人として抗告者の地位に立って発言していると序文で述べている。新渡戸夫人はフィラデルフィアの名望家の娘(メリー・エルキントン)で、教養も高かったから、おそらく本書は夫妻の合作であろう。
 本書は明治32年(1899年)に英文で書かれて、アメリカで出版され、後に日本語訳が出たのであるが、日露戦争(Russo-Japanese War 1904−1905 明治37年から明治38年)で日本が奇跡的勝利を博するとともに、そのヒミツをとくカギとして、たちまち各国語に訳され、世界的名声を博した。ときのアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、本書を大量に買い入れて各方面にくばったという」(大宅壮一全集 第24巻 P82-P83 蒼洋社初版)

 セオドア・ルーズベルトがくばった、というくだりはサービス精神旺盛な大宅壮一のことだから眉につばしておいた方がいいのかも知れないが、この本がルーズベルト家の応援で出版されたといういきさつを考えるとあながちホラともいえない。


 アメリカ支配層の武士道理解は、この時新渡戸が書いた「武士道」が基本になっている。また米軍部の日本理解も相当深いところまで進んでいたようで、「菊と刀」(ルース・ベネディクト)なども米軍部の日本研究から生まれた本だった。

 こうした見地に立って、1945年当時のトルーマン政権は、一般日本国民や皇室はともかく、軍部は降参しないと見ていた。また沖縄本島侵攻もこうした見方を裏付けている。

 しかも、日本の軍部のやり方を見ると、南京事件、パールハーバー、バターン死の行進など、彼らが理解している武士道や旅順陥落のときの乃木将軍のスッテセル将軍に対する態度とは違って、相当凶暴性を帯びている。各文書で使われて言葉を引用すれば、「beast」(獣)である。ファレル(トルーマン)に云わせれば、彼らの非人道性はナチスドイツにも匹敵する。

 トルーマン政権の日本軍部と日本軍に対する見解は全くその通りで、当時の日本軍はまれに見る、非人道的、劣悪で、卑劣な軍隊だった。このことは戦後出ている研究・報告・証言・文学・映画などで、われわれは十分知ることができる。知ろうと思えばの話だが。
 (ついでに云えば、戦後われわれはドイツがナチスに対しておこなったような、戦前軍国主義に対する徹底的な追及と断罪を行っていない。)

 トルーマン政権の、ある意味正しい日本軍国主義観が、日本に原爆投下を決断する大きな伏線になる。

 善人大統領トルーマンにとって、彼の言葉を借りれば、「nice young boys」の命が無駄に失われることは耐え難かったであろうことは想像に難くない。



 スティーブン・スピルバーグの映画に「Saving Private Ryan」という作品がある。日本風にいえば「ライアン二等兵救出物語」といったところか。(http://www.imdb.com/title/tt0120815/)または(http://homepage2.nifty.com/flipflopflap/gamers/database/spr.htm

 ライアン4兄弟の上の3人の兄たちの戦死公報が、全く同時に兄弟の母親の手元に届くことを知ったジョージ・C・マーシャル参謀総長は、末弟の戦死公報だけは母親の元に届いてはならない、として現地司令官に、4兄弟の末弟であるジェームズ・ライアン二等兵の本国送還を命ずる。ところが、ジェームズはノルマンディー作戦に伴うパラシュート降下部隊に属しており、すでに飛び降りた後だった。兵の損害(旧日本軍は損耗といった)は通常四分の一から三分の一が死亡だが、ノルマンディー上陸作戦の時は、パラシュート降下部隊の損害率は70%と予想され、パラシュート降下部隊の場合、損害の100%が死亡と予想されていた。(実際の損害率は20%だった)

 こういう状況の中、前線でライアン二等兵を捜すことは、大海で針を見つけるのに等しい。しかもパラシュート降下部隊なら、もう死亡している可能性の方が大きい。しかし特別捜索中隊が編成され、ジェームズを捜しに出かけ、無事にジェームズ・ライアンは本国送還になる。捜索中隊は隊長の大尉をはじめ、ほとんどがライアン二等兵を守るために死んでいく、というストーリーである。当時のノルマンディー上陸作戦の資料を検討し、忠実にその惨状を再現した映画としても有名である。
 
 映画ではあるが、これが当時のアメリカのヤング・ナイス・ボーイズ戦死に対する政治的見解だった、と考えてもいい。

 しかも、アメリカの将兵全員が生命保険に入っていたことを考えれば、「日本帝国の軍隊と戦い、戦争を終結できる手段であれば、どのような手段であろうと喜んで採用しただろう。」(ロバート・ファレル 「トルーマンと原爆、文書から見た歴史」序章)は、トルーマンの本音だったし、善人トルーマンの頭にあったのは、ヤング・ナイス・ボーイズの命の犠牲をいかに少なくするか、という問題だけだったに違いない。


 日本に原爆を投下するトルーマンの決断は、要するにこういうことだった。それでこのテーマは終わりかというとそうではない。これは全ての問題のほんの表面でしかない。
 「原爆投下決断」の本当の問題は「トルーマンが考えたこと」の中にあるのではなく「トルーマンが考えなかったこと」の中にあるのだから。

 以下進めていこう。

 第5章は、1945年7月17日・18日・25日のトルーマンの日記より、となっている。すでにトルーマンは会談出席のため、ベルリン郊外のポツダムにいた。

 ポツダム会談は7月17日に始まって8月2日に終了している。そして、その間、7月26日に運命のポツダム宣言が出されている。
 当時どんなところで会談が行われたのか、ファレルの記事に依ってみよう。
 「トルーマンは彼らとツェツィーリエンホーフ宮殿の大広間で会った。ツェツィーリエンホーフ宮殿は当時のドイツ皇帝の最後の皇太子のための宮殿であった。ドイツ皇帝は1918年に廃位されている。」(全訳は第5章 7月17日、18日そして25日の日記より。また原文は以下のURL。http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap5.htm
 「宮殿は空爆の被害を全く受けていなかったが、廊下と部屋が入り組んだ大きな兎小屋という感じだった。地上はあんまり身なりの良くないロシア兵によって綺麗に整えられていた。玄関には赤い星の形にかたどられたカンナの花壇ができていたが、その花壇に向かって正対していた。護衛兵は、もちろん至る所にあふれていた。ソビエト兵はロシアの諜報機関の直接の命令下に置かれていた。この地域の近くバベルスベルグにほど近い何軒かの家にトルーマンの「ベルリン・ホワイト・ハウス」が置かれており、首脳部や代表団が陣取った。」

 ポツダム会談の会場だけが、別天地のように平和な様子で、完全にソビエト軍の統制下にあったことが分かる。

 7月17日の日記には、はじめてスターリンと会った時の様子が、フランクに語られている。
    「昨晩ジョー・デイヴィーズがマイスキーを訪問して、今日の午後のアポイントメントを決めた。かっきり12時2−3分前に、デスクから顔を上げると廊下にスターリンが立っていた。私は立ち上がってスターリンに近寄った。彼は大きく両手を拡げ、私に笑いかけた。私も同じようにし、お互い握手した。私はモロトフと通訳に会釈し、それからみんなで腰を下ろした。」
 ジョー・デイヴィーズはジョセフ・F・デイヴィーズで元の駐ソ米国大使。ソビエトの承認が遅れたアメリカにとっては2代目の駐ソ大使。マイスキーは前駐英ソビエト大使でソビエト副首相の一人。モロトフは当時ソビエトの外相だ。興味のある方は次へ。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%A3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%95

 つまり大使級が連絡を取り合って、スターリンがトルーマンの宿舎を訪ねるという形で二人がはじめて顔を合わせた。再び17日の日記を引用しよう。
 「・・・私はスターリンに、自分は外交官ではない、しかし一通り議論をしあい十分話を聞いた後なら問題に対してイエス・ノーをはっきりするタイプだ、と云った。彼は気に入ったようだ。それから私はスターリンに何か特別な議題があるかと尋ねた。スターリンはあると答え、それから質問してみたいこともあると云った。私は何でもいいから聞いてくれと云った。彼は質問をした。その内容は爆弾みたいなものだ。しかし爆弾なら私も持っている。今は爆発させないが・・・。」


 トルーマンの実務型大統領の片鱗がよく見える。スターリンはこの時、トルーマンに8月15日に対日参戦することを明かしている。(実際の対日参戦は8月8日)これがスターリンの持っていた「爆弾」だ。一方トルーマンの持っていた「爆弾」は云うまでもなく、「最初の原爆実験成功」である。「今は爆発させないが・・・」とトルーマンは書いているが、7月24日に立ち話でスターリンに、核兵器とは云わずに、「新兵器」を開発したことを告げた。この時、トルーマンは、新兵器のことをスターリンが全く理解できてない、と日記に書いているが、実際には、スターリンは“アメリカが原子爆弾を開発”していることをそのスパイ網を通じて知っており、この時のトルーマンの「新兵器開発に成功」という言葉から、「原子爆弾開発」を悟ったのだと思われる。ファレルの解説とトルーマン日記を併せて考えるとそういう結論になる。

 ソビエトの対日参戦前に、トルーマンが急いで広島に原爆を投下した、と言う説もあるが、これで見るとソビエト対日参戦を早めたのは、スターリンがアメリカの原子爆弾実験成功を知ったからだ、と言うことになる。        

 それと17日には興味深い記述もある。

    「スターリンはフランコを攻撃したがった。私に異議はない。それからイタリアの植民地や委任統治領の分割についても異議はない。ただしそれらのいくつかはイギリスも欲しがっていることは疑いようがない。それからスターリンは中国との情勢について話してくれた。何が合意に達し、何が保留中であるかに関して。」

 ここで「フランコ」と言っているのは、スペインのファシスト、フランシスコ・フランコ将軍のことだ。
 面白いのは、ここにポツダム会談の性格の一端が垣間見えていることだ。
 第二次世界大戦が、民主主義国家とファシズム国家との戦争だった、と言う構図を信じているものは、今時、誰もいまい。実態は、早々と帝国主義化した強国と遅れてやってきた帝国主義国家(ドイツ・イタリア・日本)との間の、極めて暴力的な利害調整だったわけだ。問題は当時のソビエトが帝国主義だったのか、どうかだ。
 一時「ソ連帝国主義」という言葉がはやったことがある。こういう云い方をすると反ソ的、反社会主義的プロパガンダに乗せられた、あるいはそのお先棒担ぎのイデオローグみたいな云い方がされたものだが、ポツダム会談でのスターリンは紛れもない帝国主義者だし、ソ連は帝国主義国だった。
 しかし今考えてみると、これは不思議でも何でもない。当時のソ連を社会主義国の見本のように考えるから、こんな分かり切ったことが不思議に見えるだけなのだ。
 当時資本主義の未発達だったロシアが、農奴制の前近代的国家から一挙に次の段階に進むためには、政治的には社会主義の外観を取らざるを得なかったのだ。先に社会主義の外観をかぶって、内部で資本主義的蓄積を進めたわけだ。だからポツダム会談の時のソ連は、社会主義の体裁をとったロシア帝国主義だった、従ってソ連は唯一の、戦勝国側に立つ、遅れてやってきた帝国主義国だったわけだ。

 戦後15年くらい経過して、早くも東ヨーロッパを旅行した大宅壮一は、当時ゴムルカ政権下にあったポーランドでこんな小話を拾っている。
    「資本主義とは?」
    「段々と共産主義化するもの」
    「それなら、共産主義とは?」
    「段々と資本主義化するもの」
(大宅壮一全集 第22巻 P15-P16 蒼洋社発行初版)

 ポーランドの民衆はソビエト社会主義連邦共和国の本質をよく見抜いていたわけだ。

 ポツダム会談は、暴力的に勝利した帝国主義国家同士の利害調整の場でもあったわけだ。このことがあからさまにこの日記に見えている。


 7月18日の日記 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap5.htm 訳文:トルーマン日記 7月18日)では、日本から和平交渉の連絡があったことを、スターリンがトルーマンに伝えていて、興味深い。

 引用しよう。
「スターリンはこれに先立って日本の天皇から和平を求める電報を受け取ったことをP.M.に伝えていた。またスターリンはこれに対する回答を私に読んでくれた。満足のいくものだった。ロシアが来る前に日本が音を上げるだろうと確信する。マンハッタンが日本本土を覆えば日本は音を上げることは間違いない。」

 P.M.はPrime Minister(首相)の頭文字で、もちろんチャーチルのことだ。またマンハッタンとはマンハッタン計画で、原爆のことであるのはいうまでもない。日本から和平交渉の打診があったことは先にスターリンからチャーチルに情報が行ったようだ。その記述の前に、トルーマンはチャーチルと二人切りで昼食を摂っている。この昼食の場でスターリンからの話をチャーチルはトルーマンに伝えたのかも知れない。しかしどちらにせよトルーマンはこういう打診があったことは、通信傍受ですでに知っている。ただし文字通りには、日記の記述は正しくない。ファレルは次のように訂正している。
「日本の天皇から「平和を求める」電報というのは正しくない。正しくは、日本元首相近衛文麿皇子(筆者のファレルはPrince Fumimaro Konoye と書いているのでこうした)から個人的特使を送りたいがその承認がとれるかどうか打診の電報だった。要件は、ソ連が対日参戦せず対ソ関係を維持したいという交渉か、それでなければ多分、アメリカとの交渉においてソ連が善意の斡旋をしてくれるかどうかということだろう。」

 スターリンは近衛に対する返事もトルーマンに対して読み上げたようだ。それで、トルーマンは原爆さえ落とせば、日本が対ソ参戦前に音を上げる、と確信したようだ。どちらにせよこの時点で、見栄っ張りで腰の定まらない近衛文麿個人の打診など、誰も本気で相手にしなかったろう。

 ソ連側はミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカ以降、秘密にしてきた文書を全て公開したから、私に情報収集能力さえあれば、インターネットでソ連側資料を入手できるだろう。ところが日本側からは何も資料が手に入らない。
ちなみに国立公文書館のURLを上げて置くので一度見て欲しい。http://www.archives.go.jp/
皇室関係の記録に至っては全くお手上げだ。宮内庁のホームページを見て欲しい。http://www.kunaicho.go.jp/

 かれらは戦後60年経って、まだ何か勘違いしている。こうした歴史的資料は日本国民全員の知的財産だ。日本政府や宮内庁の所有物ではない。宮内庁に至っては、「汝ら臣民に情報公開してやったぞ。」と云わんばかりだ。(以下を参照のことhttp://www.kunaicho.go.jp/johokoukai/johokoukai01.html
こうなればもう1回マッカーサーに来てもらうしかない。

  私はこのテーマを追いかけるにあたって、情報源をほとんど全てインターネットに依存している。アメリカ側の資料は、どこから手を付けていいか分からないほど大量に一次資料が手に入る。日本で云えば御前会議に相当するような、暫定委員会の議事録まで手に入る。独立戦争を戦ったアメリカは、公文書に対するとらえ方が違っている。このとらえ方自体が、民主主義成立の過程でわれわれが得た貴重な知的財産なのだ。「情報公開」の前に公文書は誰のものかを考えて欲しい。


 話を元に戻そう。

 7月25日の日記(原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ferrell_book/ferrell_book_chap5.htm 訳文:トルーマン日記 7月25日)をファレルが何故編入したのかよくわからない。
トルーマンの人道主義的思想を読者に印象付けようとしたのか、それともおめでたさ加減をそれとなく仄めかそうとしたのか。ともかく引用してみよう。
「この兵器は今から8月10日の間に日本に対して使う予定になっている。私は陸軍省長官のスティムソン氏に、使用に際しては軍事目標物、兵隊や水兵などを目標とし、女性や子どもを目標としないようにと言っておいた。いかに日本が野蛮、冷酷、無慈悲かつ狂信的とはいえ、世界の人々の幸福を推進するリーダーたるわれわれが、この恐るべき爆弾を日本の古都や新都に対して落とすわけにはいかないのだ。この点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は純粋に軍事物に限られる。
その上、警告宣言を発行し、降伏を勧め、生命を無駄にしないようにと呼びかけるつもりだ。彼らがそれでも降伏しないことは分かっている。しかしチャンスは与えるつもりだ。ヒトラーの連中やスターリンの連中がこの原子爆弾を発見しなかったことは世界にとって間違いなくいいことだ。原子爆弾はかつて発見された最も恐ろしいものとも見える。しかし、最も有効に使うこともできるのだ。」

 一読して、トルーマンには何も分かっていない、と言うことが分かる。「使用に際しては軍事目標物、兵隊や水兵などを目標とし、女性や子どもを目標としないよう」とトルーマンは書いているが、アラモゴードの実験結果を入手の上のことなら、とても本気とは思えない。原爆は無差別攻撃にしか使えない兵器なのだ。しかも、「最も有効に使うこともできるのだ」とも云っている。原爆を最も効果的に使用するとは、一体どういうことか・・・。トルーマンには、原爆の実戦使用が核拡散時代の幕開けとなることが分かっていなかったのだ。核兵器実戦使用の人類史的意味が全く分かっていなかったのだ・・・。


 この日記で「新都・古都」に使用するわけにはいかない、と書いているが、もちろんポイントは古都、すなわち京都にある。

 1945年5月12付けのマンハッタン計画総責任者、陸軍少将レスリー・グローヴズ宛のメモがある。(原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/documents/fulltext.php?fulltextid=4

 J.A Darryという人間がグローヴズのために作ったメモだ。1945年5月10日と11日、ロス・アラモスのオッペンハイマーのオフィスで、第2回目の投下目標委員会(Target Committee)が開かれた。この重要な会議にグローヴズは出席できなかったのだと思われる。というのは出席者の中にグローヴズの名前が見えないからだ。だから、ダリーはこの会議のメモをグローヴズにために作り、5月12日にまとめたのだ。

 原爆投下に関する意志決定は、投下そのものは政治判断として暫定委員会が大統領に勧告し、投下目標は軍事案件として米軍部が大統領に勧告を出すことになっていた。ここの区別をしっかりしておかないと、日本に対する原爆投下意志決定のメカニズムが分からなくなる。従って次のようなちょっと誤解を生みやすい記述も出てくる。
 「ルーズベルトは原子爆弾投下実行部隊の第509混成部隊の編成を指示した。混成部隊とは陸海空軍から集めて編成されたためである。1944年9月1日に隊長を任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、12月に編成を完了し(B-29計14機及び部隊総員1767人)、ユタ州ウェンドバー基地で原爆投下の秘密訓練を開始した。1945年2月には原爆投下機の基地はテニアン島に決定され、部隊は1945年5月18日にテニアン島に移動した。(Wikipediaより。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B#.E3.83.AB.E3.83.BC.E3.82.BA.E3.83.99.E3.83.AB.E3.83.88.E3.81.AE.E6.B1.BA.E6.96.AD

 うっかり読むと、原爆投下の決断をしたのは、前任大統領ルーズベルトのように読めるが、それはこの記述に政治問題と軍事問題が混在しているからだ。日本に対して原爆投下を決定したのはあくまでトルーマンである。また、広島に対して投下の決定をしたのは(もちろん大統領は承認した。)、米軍部とその日の天候である。

 さて、グローヴズあてのメモランダムの内容に移ろう。

 第2回目投下目標委員会の議題はまずオッペンハイマーから次の項目が示された。
    A.爆発高度
    B. 天候による作戦報告
    C. ガジット(プルトニウム原爆)の空中投棄と着地
    D. 目標都市の資格
    E. 目標都市選別における心理的要因
    F. 軍事目標に対する使用
    G. 放射線の影響
    H. 航空作戦の調整

 次の大きな議題が次の3つである。
    A. リハーサル
    B. 航空機安全確保のための作戦上要求事項
    C. 第21計画との調整

 そして一つ一つ議論が進んでいった。この時はリトル・ボーイ(ウラン爆弾)とファット・マン(プルトニウム爆弾)の双方で爆発高度が議論された。天候の状態から見て、2週間以上原爆投下を待たなければならない確率は2%であることが確認されている。
 肝心なのは目標都市の資格である。もう少し詳しく議論の内容を見てみよう。まず、第一目標に上げられたのが京都である。「100万人の人口を持つ産業都市。日本の前の首都で他地域の破壊のため人口と産業が流入中」とし心理面での効果も大きい、として「AA」に分類されている。
 次が広島。「陸軍の重要な兵站基地であり、都市産業地帯の中枢の積出港でもある」「地形からレーダーも機能しやすいし、大きな損壊が期待できる。川が多いところから焼夷弾攻撃には不向き」とし、広島も京都と並んで「AA」に分類されている。
 次が横浜。このメモではKOKOHAMA、と記載されているがこれは明らかにメモ作成者の誤植。「ヨコハマ」を「ココハマ」と聞き間違えたものと思われる。分類はA。天候が悪かったりした時の代替え地として扱われている。
 次が小倉兵器廠。これも分類A。次が新潟。本州北西部の積出港として候補にあがった、分類A。この時、皇居爆撃の可能性も議論されている。
 すなわち、第一候補が京都、広島でAA(ダブルA)。
 小倉兵器廠と新潟が第二候補でA(シングルA)。
 後に、スティムソンが京都原爆投下に強硬に反対意見を出し、京都は候補から外された。どちらにせよ、天候次第だが、ヒロシマの運命は定まっていた。

 もう一つこの章でファレルはわざわざ興味深い記述を書いている。
 7月24日、前述のように、トルーマンはチャーチルと相談の上、スターリンに「原子爆弾」という言葉を使わずに、「新兵器開発成功」のニュースを知らせた。
 それに対してスターリンは全く反応を示さなかった。実際には、そのトルーマンの言葉で、アメリカが原爆開発に成功したことを悟のだが、トルーマンはスターリンが無反応(ポーカーフェース)だったのを見て、スターリンは全く事態を理解していないと解釈した。
 その日24日、会議散会後、裏庭で主要出席者が記念写真を撮影して、トルーマンにも届けられた。その写真にトルーマンは手書きのメモを残しているそうだ。ファレルによればそのメモは次のようだった、という。

「ここが、私がスターリンに、ニューメキシコ州で1945年7月6日(実際は7月16日)に炸裂した原爆のことを伝えた場所だ。スターリンは私が何の話をしているのか分からなかった。」

 善人トルーマンは、またお人好しトルーマンでもあった・・・。


(以下次回)