No.22-5 平成20年5月15日

拝啓、河野衆議院議長殿 21世紀を、歴史的和解の世紀としませんか?
その5 「ヒロシマ・ノート」批判T−原爆の人間的悲惨を絶対化するもの


原爆投下正当化キャンペーン

 前回までは、1945年トルーマン政権中枢の、日本への「警告なし」の原爆の使用は、ソ連を核兵器競争に引きずり込むことが直接の目的だったこと、それは「冷戦」という準戦時体制を創り出すことで、核兵器産業(後には原子力の平和利用産業も含んで)分野に対して、戦時中同様、ほとんどノーチェックで連邦予算を使うことが究極の目的だったことを見てきました。

 そして、こうした勢力のことを、「原爆投下推進勢力」と呼ぶことにしました。

 原爆投下推進勢力は、その実、アイゼンハワーが大統領引退演説の中でその危険性を指摘した、「軍産複合体制」なのだ、<それもバニーバー・ブッシュ、ジェームズ・コナント、カール・コンプトンを念頭に置いてみると、『軍産学複合体制』なのですが>、と私は考えていますが、それは、今立ち入らないことにします。

 ですから、ここでは「原爆投下推進勢力」と呼びつづけることにしますが、その原爆投下推進勢力が、もっとも恐れたことは、原爆(すなわち核兵器)が「都市絶滅の手段」(レオ・シラード)であり、また「従来兵器とは全く違った残虐で非人道的兵器」(フランクレポート)であって、「革命的に過ぎ、また危険過ぎる」(ヘンリー・スティムソン)である実態を、アメリカの一般市民に知られることでした。

 それは、「もしアメリカの国民が核爆発物の影響を正しく知らされていたなら、一般市民の生命を完全に壊滅するような、そういう無差別な方法を講ずる最初の国がアメリカであることを決して支持しないであろう。」(フランクレポート)からでありました。

 こうして原爆投下推進勢力による、「原爆使用正当化」大キャンペーンがはじまります。

 それは極めて周到に準備されたキャンペーンで、広島への原爆投下の次の瞬間からはじまりました。「われわれの次なる目標」(原爆投下直後にオッペンハイマーと電話で話した時のレスリー・グローヴズの言葉)とはこの「原爆使用正当化運動でした。

 コンプトン論文、スティムソン論文、トルーマンの度重なる主張の繰り返し、アメリカの学者、「一流ジャーナリズム」を動員してのこのキャンペーンは、詭弁、誇張、時にはあからさまなデマやウソまでついて行われました。

 このキャンペーンは、一面アメリカ社会では「常識」「歴史的事実」となりました。アメリカでも一般市民は権威に弱いのです。当代の一流の政治家、学者、ニューヨークタイムズの看板を背負った一流ジャーナリストにそうだと言われれば、そう信ずる他はなかったのです。それに一般市民は、食うのに精一般で、自分たちの税金や保険金が何に使われているかなど、深く考えたり、調べたりする余裕はありませんでした。

 そしてこの「キャンペーン」は予想外の効果をあげました。

第一の効果は、「原爆投下不必要論」まで創り出し、永遠の水掛け論の中で、「日本への原爆使用」の真の目的を長い間隠蔽することができたことです。この隠蔽の陰で、ほんのよちよち歩きだった原爆が、地球を食い尽くすモンスターに大化けすることができました。

 実際、「原爆投下不必要論」の学者や研究者の指摘する事実は、多くの場合「原爆投下が不必要」だった事実ではなく、よくよく見てみると「原爆投下」と「対日戦争終結」が関係のなかった証拠でした。

 第二の効果は、前の手紙で詳しく見たように、世界中で「心情的原爆投下肯定論」を、幅広くまた奥深く獲得したことでした。

おおよそここまでが、前回までに見てきたことです。


「心情的原爆投下肯定論」の定義

 「意図的原爆投下肯定論」と区別して、私がここで「心情的原爆投下肯定論」という意味は、『その肯定論は誤った歴史認識に基づく、誤った支持だけれども、その心情は良く理解できるし、時には共鳴すら覚える』ということです。それほど、私は、この「心情的原爆投下肯定論」に共感を覚えます。しかし、これを徹底的に批判し、葬り去らなければ、核兵器廃絶の地平線すら見えてこないとも感じています。

 心情的原爆投下肯定論には、多くのアメリカ人が信じている「原爆投下で、結局ヒロシマやナガサキの被害を上回る人命が救われた」「凶暴な天皇制ファシズムの支配から解放された」とする積極的なものから、「ヒロシマ、ナガサキへの行為は非人道的で気持ちの上では許せないが、それが戦争終結させ、残酷な軍部支配から日本を解放したものなら、仕方がない」とする、消極的なものまで含みます。

 ところで私は「原爆投下不必要論」も、この「心情的原爆投下肯定論」の範疇に含めております。その外観は確かに、「投下を否定」しているのですが、その論の出発点は、「日本への原爆投下は戦争終結のために必要だったかどうか」というおよそ見当違いな論点であり、延々戦後60年以上にもわたって不毛な「水掛け論」を展開してきたからです。

 原爆投下推進勢力の「投下正当化キャンペーン」の真の狙いは、「原爆投下が正当だったかどうか」にあるのではなく、「原爆投下の真の目的」をアメリカ市民から隠すことにありました。「原爆投下正当化」は二義的な目的でした。

 「原爆投下不必要論」は、その意味で原爆投下勢力の狙いに、「見事にひっかかった」議論であり、「原爆投下」の真の目的にわれわれが触れることを妨げて来たのであります。

 「心情的原爆投下肯定論」の定義は「その心情は良く理解できるし、時には共感すら覚えるが、誤った歴史認識に基づく、誤った結論」というものでした。ですから私は「原爆投下不必要論」も「心情的原爆投下肯定論」に含めているのです。


原爆投下の理由・原因・背景に触れないグループ

 この「心情的原爆投下肯定論」の中には、もうひとつ、極めてやっかいな、自分を深く韜晦したグループがあります。それは、「原爆が何故投下されたのか」「あの時、なぜトルーマン政権中枢は、日本に対する原爆の使用を決断したのか」という議論にまったく触れないグループです。

 次の、原爆を取り扱ったWebサイトなどは典型例でしょう。

『 日本の皆さんへ

プロデューサーから

私は、日本の人々、私たちが私たちの歴史についてもっと真剣に考えるべきだと思っています。そうすれば私たちは本当に過去と対峙することになります。私たちが今日までに自覚してこなかったことがあります。それは、このことが注意深く記録されるべき出来事であり、各国の次の世代の人々がそれから学ばなければならない出来事であるということです。

原爆の被害者であることを強調して相手を非難したり、自己満足のために謝罪を求めることは、歴史の観点から見れば意味のないことです。問題は ”過去から何を学ぶか?”です。 歴史は過去を学ぶ教室です。そこで学ぶことは、教科書の中の単なる名前や言葉、数ではありません。生き方を学ぶのです。私たちは他の人たちとも過去に関する知識を共有する必要があります。

ニューズウィーク(1995年7月24日号)の"Hiroshima: August 6, 1945"という記事を読んで、私はいかにアメリカの人々が過去と直面し、それが何であったか、何を意味しているかを真剣に考えていることを知りました。私たちが同じぐらい真剣に過去の歴史を振り返ったことがあるでしょうか?

                       (以下略) 』

( http://www.csi.ad.jp/ABOMB/japan-j.html )

 この「原爆」に関するサイトで見られる考え方は明らかです。「原爆投下」と「その理由」「その原因」の切り離しです。そして「理由」「原因」「その背景」を不問に付すのです。いわば、1945年にトルーマン政権が日本に対して、原爆を使用するという政策決定を為し、その政策を実行したこと、すなわち「広島への原爆投下」を歴史から切り離し、切り離した上でその事実だけを記述します。

 なぜ、このグループでは、「誰がなんのために原爆を日本へ落としたか?」が問題にならないのでしょうか?

 それはあまりにも自明だからです。つまり、「トルーマン政権は対日戦争終結」のために原爆を投下したからです。

 このグループは、そこから先が「原爆投下不必要論」と異なっていきます。原爆投下不必要論者は、積極的に歴史の中に分け入って、執拗に事実を発掘しようとしますが、このグループは、「理由」「原因」「その原因」をすでに不問に付していますから、歴史に対して「思考停止状態」に入ります。

 このサイトの歴史認識も、実はその根底にあるのは、「原爆投下は対日戦争終結のためになされた。」と言う認識でしょう。


「心情的原爆投下肯定論」の四つの分類

 この議論を「心情的原爆投下肯定論」の中でも、特に区別して便宜的に、「原爆・歴史切離論」とでも名付けておきましょう。

 こうしてみると、私が「心情的原爆投下肯定論」と、ひとくくりにしている、いろいろな議論は、幅が広いようにみえながら、実は「あの戦争」に対する態度や姿勢を巡る違いだ、と言うことが了解されるでしょう。

 あの戦争における「凶暴な天皇制ファシズムによる侵略性や非人道性」を重く見るグループは、積極的な原爆投下肯定論になりますし、こうした侵略性や非人道性をあまり視野の中に置かず、日本の国内問題の中に視野を限定した議論は消極的肯定論になります。「戦争終結にとって必要・不必要」という一点に絞って議論すれば「原爆投下不必要論」になります。「原爆投下の理由・原因・背景」に触れず「あの戦争」に触れないですませれば、「原爆/歴史切離論」になります。

 ところでこの「原爆/歴史切離論」は何を論ずるのでしょうか?

 「原爆における人間的悲惨」をひたすら論じます。

 極めて乱暴ですが、この「心情的原爆投下肯定論」を簡単な図式にすると以下のようになります。

「心情的原爆投下肯定論」の分類
1.積極的肯定論 あの戦争での凶暴な天皇制ファシズムを重視
2.消極的肯定論 あの戦争での凶暴な天皇制ファシズムを軽視。
日本の国内問題に視野を限定。
3.投下不必要論 終結のために必要・不必要に論点を集中。
4.「原爆/歴史切離論」 原爆投下の原因・理由・背景を不問に付して、歴史から切り離す。

 やっかいなことは、一人の人間の中に上記の論議が常に混在しており、また時と場合によって、混在する議論の濃淡も変化していると言うことです。視点が定まっていないという言い方もできますし、視点が失われているという言い方もできます。

 また一人の市民の立場に立ってみれば、原爆が使われた時の、アメリカの一般市民の場合と同様、みんな生きること、より良く「食う」ために一生懸命で、日常生活の中で、「原爆」や「核兵器」のことなど考えてられない、と言うことでもあります。


積極的肯定論の分布

 積極的肯定論は、いうまでもなくアメリカに多い議論です。しかし、中国、韓国、北朝鮮、東南アジアなど、太平洋戦争・日中戦争で、あの凶暴な天皇制ファシズムに蹂躙された国々、地域、人々の間に相当根強いものがあると想像しています。想像しています、というのは、私はアメリカについては資料をあげて全体として「心情的原爆投下肯定論」が大勢だ、と言うことができるのですが、その他の国や地域については資料があげられないからそういっているのです。

 新聞報道や時々の、これらの地域の人々の感情的流出に触れるにつけ、そう思うし、もし私が仮に、1930年当時の韓国に生まれていたら、また中国市民として、あの時の南京に住んでいたら、また私の娘が、凶暴な日本陸軍性奴隷制度の犠牲になったとしたら、また私の妻が、胎児をお腹に抱いたまま、銃剣で切り裂かれ、その胎児が銃剣で串刺しにされたら、そしてその情景が私の面前で繰り広げられたとしたら、その後の私は、もう私には保証できません。

 単にそうした想像でものを言っているに過ぎません。

 しかしあながち私の勝手な想像とばかりはいえなさそうです。

 日本語Wikipediaで、「反核運動」という検索語で検索をかけると、『反核運動の核廃絶啓蒙活動』という見出しのもとに次のような記述が見えます。

『 広島国際文化財団は、反核運動を世界に広める被爆六十年プロジェクト「広島世界平和ミッション」として核保有国や紛争地へ中国新聞記者とともに原水禁系広島被団協の被爆者や若者らを派遣。原爆被害の実態や、悲惨な体験の中から広島市民、県民が歴史の教訓として学び、はぐくんできた「平和と和解の精神」を直接人びとに伝える運動を行い、南アフリカ、イラン、中国、フランス、イギリス、ウクライナ、ロシア、インド、パキスタン、米国を訪れたが、中国においては核廃棄運動への協力の呼びかけに「日本は反省していない。原爆資料館にも日本軍の加害の記録が展示されていない。協力できない。無理だ」と面会した南京大虐殺記念館館長に拒絶されたことが中国新聞に掲載された。』
 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E6%A0%B8%E9%81
%8B%E5%8B%95
 )

 このことが事実かどうか私は確認していませんが、こうした中国や韓国、北朝鮮の人々、またメコンデルタの米を日本陸軍に収奪され、200万人の餓死者をだしたベトナムの人々にとって、もし「原爆投下によって日本が降伏し、凶暴な天皇制ファシズムから解放された。」とするなら、それは「解放への福音」と見えたに違いありませんし、その心情には共感すら覚えます。

 元「従軍慰安婦」の女性の方々から、直接話を聞いた河野議長も恐らくその「心情」は良く理解できるのではありませんか?


消極的肯定論としての「久間発言」

消極的投下肯定論は、広く日本の中にも存在しています。この手紙のまえにも触れた久間防衛大臣(=当時)の発言などは、最近、その代表的な例です。

 朝日新聞電子版、2007年6月30日は次のように伝えていました。
『 久間防衛相(衆院長崎2区)は30日、千葉県柏市の麗沢大学で講演し、1945年8月に米軍が日本に原爆を投下したことについて「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」と述べた。原爆投下を正当化する発言とも受け取られかねず、野党が久間氏の罷免を求める動きを見せるなど波紋が広がっている。

 久間氏は「我が国の防衛について」と題した講演で、東西冷戦下で米国と安全保障条約締結を選択した日本の防衛政策の正当性を説明する際、原爆投下に言及した。
 久間氏は「米国を恨むつもりはないが、勝ち戦と分かっていながら、原爆まで使う必要があったのかという思いが今でもしている」としつつ、「国際情勢とか戦後の占領状態からいくと、そういうこと(原爆投下)も選択肢としてはありうる」と語った。

 久間氏は講演後、朝日新聞の取材に対し、「核兵器の使用は許せないし、米国の原爆投下は今でも残念だということが発言の大前提だ。ただ日本が早く戦争を終わらせていれば、こうした悲劇が起こらなかったことも事実で、為政者がいかに賢明な判断をすることが大切かということを強調したかった」と発言の意図を説明した。』

 これは、良く読むと、典型的に「原爆投下不必要論」の立場に立った、消極的「心情的原爆投下肯定論」です。ただ久間の場合は、「原爆投下不必要論者」と違って、「原爆投下はしかたがなかった。」と認めている点が正直です。

 「原爆が投下されて戦争が終わった」という立場からすれば、この久間の発言を誰も批判できません。自らこの立場に立ちながら、久間はけしからん、と非難するなら、それは自己欺瞞というものでしょう。

 「原爆投下不必要論」は、学術的研究者や歴史学者・平和学者に多く見られる議論で、実はあまり一般には普及していません。消極的肯定論者や原爆・歴史切離論者が自分の論を立てる時、歴史学・平和学の他の分野のテーマを扱う時に、しばしば援用されています。一つには内容があまりに学術的過ぎて、一般にはなかなか分け入りにくい、という要因もあります。しかも、よくみるとほんの一握りの学者の研究が使い回されてできあがっているという閉鎖的な問題もあります。


自らの歴史認識を深く韜晦する『ノーモア・ヒロシマ』

 最後の「原爆歴史切離論」、先ほどご紹介したサイトに見られる議論は、一体どこに見られるでしょうか?

 実は「ヒロシマ」に見られるのです。「ヒバクシャ」に見られるのです。

 「原爆/歴史切離論」は、有名なキャッチ・フレーズを生みました。『ノーモア・ヒロシマ』です。このキャッチ・フレーズを「原爆死没者」への誓いの言葉として定着させたフレーズが「繰り返しません、過ちは。」です。

 今は完全に人々の合い言葉になり、世の中に定着してしまったこのキャッチ・フレーズを今更変えろ、というつもりはありません。しかし、その言葉の本質、意味をしっかり考えておくことは必要だと思います。

 「ノーモア・ヒロシマ」、まずこの言葉からは、誰が、何を目的として、1945年時点で、日本に対して原爆を使用したのか、ということを問いかける歴史性、批判精神が抜き取られています。そこを考えなくていい言葉になっています。(これを、ネバー・ヒロシマ・アゲイン、とすると、いろいろ頭を刺激することになりますが・・・)

 次に、日本に原爆が使用されるに至った歴史的背景、つまり日中戦争や太平洋戦争についても全く触れなくていいフレーズになっています。(これを、ホワイ?ヒロシマ、とでもすると、たちまち議論百出しそうです。)

 いわば、歴代日本政府公認、文部省選定のフレーズです。
(今は文部科学省になっているのでした。)

 たとえば、この9月、河野議長が、G8各国の国民議会の長を広島に招集されます。その時に、やはり原爆慰霊碑に案内されるでしょう。ここを素通りというわけにはいかないでしょう。その時ナンシー・ペロシ米下院議長が、河野議長に、「ノーモア・ヒロシマって、どういうこと?」と質問されるかもしれません。「ホワイ?ヒロシマ」では、河野議長も説明しにくいでしょうが、「ノーモア・ヒロシマ」なら、「いきさつはどうあれ、人類は二度と原爆を使用してはならない、という広島市民の願いです。」と胸を張ってお答えになれるでしょう。
するとペロシ議長は、「本当に。その願いは良く理解できます。」とこたえることができ、なんの波風も立ちません。「ノーモア・ヒロシマ」には、誰にとっても何の毒もありません。慎重に政治性・問題提起性が抜き取られています。

 それでは「ノーモア・ヒロシマ」は、「何故原爆が投下された」と考えているのでしょうか?全くこの点には関心がないかのように装ってはいますが、潜在的には、「原爆投下は対日戦争終結のために使われた。」とする歴史的認識に立っています。そして、自分を深く韜晦してはいますが、時として「それはやむを得なかった。」とする空気が流れています。それは消極的原爆肯定論のようにも見えますし、時として原爆投下不必要論にも見えます。『ノーモア・ヒロシマ』は、ともかく自らの歴史認識を深く、頑なに韜晦しているのです。

 ここでいう歴史認識とは「原因」「理由」「その背景」です。

 自らの歴史認識を深く韜晦している『ノーモア・ヒロシマ』は、これからの核兵器廃絶という立場に立って見ると、私にとっては、内向きの弱々しいつぶやきにしか聞こえません。


『原爆/歴史切離論』の本質

 さて、私は、1945年当時の、原爆投下推進勢力が、その真の目的を隠すために「原爆投下正当化」大キャンペーンを、広島への投下直後から開始し、大きな効果をあげたことを見て参りました。その大きな効果の最大のものが、「心情的原爆投下肯定論」とその広範な支持獲得だと申しました。

 そして、「心情的原爆投下肯定論」の存在が、1945年の「原爆使用」の実態を覆い隠し、その時「ほんのベイビー」だった核兵器が「地球を食い尽くすモンスター」に化け、現在の核兵器保有の現状を創り出すことに大いに役立ち、現在から将来に向けては、核兵器廃絶へ向けての地球市民の決意を鈍らせ、その団結を妨げている、と申し上げてきました。

 その心情的原爆投下肯定論のうち、「原爆/歴史切離論」が存在して、それは実はヒロシマに見られるとも申しました。

 ですから次に、心情的原爆投下肯定論のうちの「原爆/歴史切離論」の本質とその働きを見ていかねばなりません。

 そのため、私は大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」を取り上げることにしました。この著作が、もっとも端的に「原爆/歴史切離論」を代表していると考えたからであります。

 その前に大事なことをいくつかお断りしておきます。

 まず私の立場です。私は「核兵器廃絶」がなぜ実現できないのか、と言う論点がすべての出発点でした。その結果1945年の、「心情的原爆投下肯定論」がある限り、いいかえれば、歴史のある時点で「原爆投下が多くの人類にとって必要だった。」という誤った記録と記憶がある限り、現在の核保有状態を根底から否定する世界の世論は形成できないだろうし、「核兵器を製造・保有することは、それ自体犯罪行為だ。」という地球の市民の価値形成はできないだろうと考えるに至りました。核兵器廃絶を巡る国際機関でのやりとり、IAEAの努力、世界の市民運動の努力、核兵器不拡散条約を巡るいろいろな交渉・・・こうした努力が実効を持つためには、「核兵器を製造・保有すること自体が犯罪行為」であるとする地球市民の合意形成が前提条件だ、という立場です。

 次に私の認識です。
日本の被爆者運動は、その最初から、核兵器廃絶運動として出発したものではなく、ヒロシマ・ナガサキの後の、障害に苦しみ、生活に困窮した原爆被爆者援護・救済運動としてスタートした、従って「被爆者運動」を「核兵器廃絶運動」と混同してはならないと、言うものです。

 実際に日本における核兵器廃絶運動は、広島や長崎で起こったものではなく、第5福竜丸事件後の東京都杉並区から起こったものでした。

 次に私の評価です。
日本の被爆者運動は、「援護運動・救済運動」としてスタートしましたが、その過程で、どうしてもその悲惨の実態を明らかにし、訴える必要が発生しました。そうした努力の中で、被爆の実態と悲惨さがまず日本の中で知られ、次いで世界に知られるようになっていった、この原爆の、通常兵器とは全く異なる破壊性・非人道性への理解が、曲がりなりにもヒロシマ・ナガサキの後、劣化ウラン弾を除けば、核兵器が実戦使用されていない歯止めとなった、いいかえれば、核兵器抑止力となった、と言う点です。核兵器が実戦で使われていないのは「核兵器の、質的に全く異なる破壊力」への理解が抑止力となっているのであって、「核抑止論」が「抑止力」になったのではないということです。


被爆者援護のいきさつと「原爆/歴史切離論」

 しかし、原爆の悲惨を訴えることは、核兵器使用抑止にはなりえても、核兵器廃絶への力にはなりません。この二つは全く別のことです。この二つの異なる事柄を、被爆者運動は混同してしまったために、「核兵器廃絶」という課題に関して、被爆者運動は考える力を失っていったのです。しかしもともと被爆者運動は、その目的が「被爆者援護・被爆者救済」にあったわけで、1994年(平成6年)被爆者援護法(原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律)が成立した時点で、被爆者援護・支援運動としての「ヒバクシャ運動」は、その歴史的役割を終えたという見方もできなくはありません。

 もともと、「ヒロシマ」の原爆に対する態度は、私の分類で言えば、心情的原爆投下肯定論の中の、「原爆/歴史切離論」でした。ヒロシマがこの立場をとらざるを得なかった理由は、第一義的には、「原爆被災者に対する国の援護と救済」をひさきださなければならなかったからでした。

 戦後日本は、極東におけるアメリカ軍事基地の最前線として、位置づけられました。日米安全保障条約がその法的根拠となりました。「原爆の使用」の問題とその歴史的背景とを結びつけることは、歴代の日本政府にとってはなはだ、都合の悪いことでした。日本政府から金を引き出さなければならない広島県、広島市、被爆者の団体にとって、「歴史問題」に目をつぶってでも、被爆者援護を引き出さなくてはなりませんでした。当時の急迫した被爆者の状態から考えると、これはやむを得なかった、というべきでしょう。

 従って、1952年(昭和27年)「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が制定されたことを根拠に昭和28年広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協)が発足し、この原対協に国にからはじめて経費が支給されたことを皮切りに、第5福竜丸事件を挟んで、1957年(昭和32年)に「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)、1960年(昭和35年)改正原爆医療法など一連の援護法の制定に尽力したのは、保守系の市会議員、県会議員、国会議員だった、ことは決して偶然ではありません。

 「歴史問題」「原爆投下の背景問題」に触れない代わりに、こうした被爆者援護をひきだすのなら、保守系議員にとっては腕のみせどころであり、張り切りどころだったからです。

 そして、原爆に関する話題はもっぱら、政治的には誰にとっても安全な「原爆における人間的悲惨さ」に集中していき、いつしか、被爆者の体験した「悲惨さ」は「聖域化」していきました。それは現在「ヒロシマの思想」ともいうべき位置を獲得しております。

 しかし、核兵器廃絶へ向けての実効的ロードマップづくり、実効的な国際政策作り、地球的連帯づくりという観点からいえば、ヒロシマは、その本来持つべき原動力となる力を失っていくのです。


『ヒロシマ・ノート』批判

 大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」はこうしたヒロシマの思想を準備した著作として読むことができます。

 核兵器廃絶のための地球市民の連帯づくり、という観点から、また「原爆/歴史切離論」もまた「心情的原爆投下肯定論」であるという立場から言えば、大江の「ヒロシマ・ノート」を批判する必要があるわけです。

 大江健三郎「ヒロシマ・ノート」は、岩波新書・1965年6月21日が第1刷ですが、私はたまたま1999年7月5日の第74刷をテキストに使いました。ですから、これは1999年時点の大江健三郎の見解ということになります。

 プロローグで大江は、「われわれの誰の内部で広島なるものがすっかり完結してしまうだろう?」(P13)と問いかけます。大江がいう「広島なるもの」とはいったいなんなのでしょうか?

 それは、まさしくこのヒロシマ・ノートを貫く一大テーマでありましょう。

 しかし私は次の記述を読んで、首をかしげました。

・・・旅行者たちは、20世紀における、もっとも苛酷な人間の運命を体験しなければならなかった。」(1.広島への最初の旅。P16)

 大江健三郎の広島への旅、というのは、1963年(昭和38年)の第9回原水爆禁止世界大会への取材旅行でした。大江は記者章をもって訪れています。  

 第9回原水禁世界大会と言えば、ちょうどその時モスクワで調印されようとしていた、部分的核実験禁止条約を巡って、原水禁世界大会が分裂した大会でした。
 
 当時は、「部分核禁止条約」に関する評価は確かに難しかったと思います。しかし、今日でははっきりしています。アメリカ・ソ連・イギリスによる核兵器独占条約でした。

 もともと、限られた国で核兵器を独占しようという企ては、原爆が生まれる前から試みられていました。代表的には、ルーズベルトとチャーチルの間で結ばれた秘密合意、「ケベック合意」がそうでしたし、1946年、すなわち原爆投下の翌年、まだソ連が核兵器保有の前に、当時国務長官だったジェームズ・バーンズが、「核兵器の秘密を米・英・ソ」で独占しよう、と言う提案をしたこともあります。

 62年のキューバ危機をはさんで、この米英ソ三国間の核兵器独占を狙って調印したのがこの条約です。当然遅れた核兵器開発国フランス、中国はこの条約に調印しませんでした。この条約では大気中の核実験を禁止していたからです。米英ソは、別に困りませんでした。地下核実験を行えば良かったのです。

 実際1963年、米原子力委員会は25回の核爆発実験を行っています。(ソ連については調べていません。)

 次にこの条約の欺瞞性は、「核実験」だけを規制しようという点にあります。核兵器産業は、実に膨大な裾野をもった幅広い産業分野でもあります。核兵器産業を維持し続けるためには、どんな形であれ核兵器を製造し続けなければなりません。製造しつづければ、貯蔵しなければなりません。それも飽和点に達すれば、消費しなければなりません。その消費が「核実験」にあたります。

 日本語版Wikipediaは、「核兵器開発にあたって、その性能を確認するには核実験が不可欠」としています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%
99%A8#.E6.A0.B8.E5.85.B5.E5.99.A8.E4.BF.9D.E6.9C.89.E5.9B.BD
 )

 それはそれとして正しい記述なのですが、物事の半面しか伝えていません。

 性能を確認するなら数回の実験で済みます。核兵器先進国での核実験は明らかに消費が第一義です。米原子力委員会は、58年に55回、62年(キューバ危機のあった年です)には89回、66年は40回、70年になっても30回も実験を行っています。63年8月にアメリカは部分核禁条約に調印していますから、その後はすべて地下核実験でしょう。


核兵器の製造・貯蔵・実験はセット

 つまり、核兵器の製造・貯蔵・実験はセットなのです。そのセットの一部だけを取り出して規制をしようというのは、核兵器廃絶の道筋から見るとまず、まやかしだと思わなければなりません。明らかに狙いは核兵器廃絶にあるのではなく、核保有・研究・開発の優位性に立っての「核兵器の独占」にあります。

 しかしこうしたことは、今だからいえるのであって、1963年当時はなかなかわかりにくいことでした。

 第9回原水爆禁止大会は、この部分核禁条約への評価をめぐって分裂します。当時政治的にソ連を支持していた社会党・総評系のグループとこの条約は核兵器独占を狙ったものだとする共産党系のグループに分かれるのです。

 そして統一した実行委員会が結成できずに、第9回原水爆禁止大会の開催責任を開催地である広島県原水協に、いわば押しつけます。この時の広島原水協の理事長が森滝市郎でした。

 この時の状態を大江は「ヒロシマ・ノート」の中に次のように書いています。

日共が部分核停の全面否定に踏み切ったことを知る。同じ時間にモスクワで条約は調印されている。僕は平和公園の周辺に戻ってくるたびに政治の匂いをかぐ。」

 ここで「日共」と言っているのは、日本共産党のことです。いつしかこの言い方もしなくなっていますが、1999年の第74刷の時点でも大江はこの言い方をしています。

 「部分核停」と言っているのは、部分的核実験禁止条約のことです。この条約の英文正式名称は、<PTBT - Partial Test Ban Treaty>で、“Ban”としていますから、これは「禁止」であって「停止」ではありません。しかしこの1963年当時は「部分核実験停止」といっていたものと見えます。

 私がここの部分で、おかしいなと思ったのは“政治の匂いをかぐ。”という大江の記述です。

 というのは、これまで見てきたように、「日本に対する原爆の使用」問題は、100%政治問題でした。軍事問題ですらありませんでした。従ってそれに発する核兵器廃絶問題も、この部分的核実験禁止条約も、100%政治問題です。この問題に関して、「政治の匂いをかぐ。」という大江の捉まえ方が理解できなかったのです。しかし、これは後に、この言葉の意味が分かっていきます。

 大江自身は、「部分的核実験禁止条約」に対してどのような評価を下していたのかは私が知りたいところですが、というのは、核兵器廃絶への道筋を考えるにあたって、この条約への評価は極めて大切なことになるからですが、大江はそれをどこにも書いていません。というよりも興味がないようなのです。

 ただ次のように記しています。
『 森滝代表理事(*原水爆禁止日本国民会議のサイトでは「広島県原水協理事長」となっていますので、以下このサイトの表現に従います。)の基調報告、それは死者たちと被爆者たちへの言葉からはじまる。彼は広島に固執している。広島の被爆者の心の内部の道がヒューマニズム一般の原水爆禁止運動の道とつらなる。その人間的なインターチェンジに老哲学者の論理はしっかり立っている。』

 なんとも難解な文章ですが、印象としては大江は森滝を支持しています。それより、大江が言う「老哲学者の論理」とはいったいどんなものなのか、それは広島の被爆者の心の内部の道が、ヒューマニズムとしての原水爆禁止運動の道と交差しあっていて、その交差の結節点に、しっかり立っている、ということです。


第9回大会森滝基調報告

 しかし大江は、この時の基調報告の内容をまったく記していないので、この「老哲学者の論理」を基調報告から読み取って行かなくてはなりませんでした。
(この基調報告はhttp://www.gensuikin.org/data/mori2.html で読めます。)

 この時の森滝の「基調報告」は冒頭で広島・長崎の原爆死没者のことに触れ、「過ちはくりかえしません」という誓いを述べています。次に原爆被災者に対する援護支援がまだ不十分であり、「慚愧の念に堪えません。」とも述べています。

 そして、被爆者の援護について、考え合おうではありませんか、と呼びかけます。ここで私は面食らいます。

 原水爆禁止世界大会とは、核兵器廃絶に向けて世界の人々が集まり、討議を重ねて、廃絶へ向けての政治的ステップを考え合い、行動計画を決めて、各国の政治に働きかけようという「政治目的」を持った地球的な市民大会だ、と思っていましたので、面食らったのです。どうも私の早とちりだったようです。

 原水爆禁止運動とは、「被爆者援護・救済運動」だったのでしょうか?

 1954年、ビキニ環礁においてアイゼンハワー政権と米原子力委員会が行った水爆実験で、ロス・アラモス研究所の科学者の設計ミスから、爆発規模を誤り、そのため危険水域となった場所で、それと知らずに、操業していた第5福竜丸が被曝し、この時はじめて、一市民として恐怖した東京都杉並の主婦たちが、「原水爆禁止運動」という名称の、「核兵器廃絶運動」を始めたのですが、この大会では杉並の主婦たちはいったいどこにいたのでしょうか?

 いたとして、彼らは、この森滝の基調演説にどんな反応を示したのでしょうか?「話が違う!」とは思わなかったのでしょうか?

 それから、森滝は原爆医療法の制定が実現したこと、しかし生活困窮者に対する支援、原爆死没者遺族に対する特別手当の必要性を訴え、援護法制定の話を続けます。そして次のような呼びかけで、基調報告の冒頭部分を締めくくります。

被爆者の完全な援護法をかちとる為の猛運動を国民的連帯と国際的連帯の下に展開し、被爆者の当然の権利と生活を守ろうではありませんか。」


原水禁運動とは被爆者援護運動

 ここで事態は明白となりました。原水爆禁止運動の実態は、被爆者のための援護運動だったのです。第5福竜丸事件をきっかけに日本にはじめておこった「核兵器廃絶市民運動」は、第9回大会の時にはすでに、被爆者援護運動に変質していたのです。

 広島や長崎の被爆者に対する援護活動が間違っているというのではありません。それは必要なことだったでしょう。特に、急性放射線障害というまったく未知の分野の障害に苦しむヒバクシャに対しては、超長期的な医療が必要であり、それはとても個人ではどうすることもできないことは明らかです。

 しかしそれは核兵器廃絶運動とは違う枠組みでなされるべきです。

 運動体の目的が異なるのですから、異なる運動体で行い、「ヒバクシャ援護」と「核兵器廃絶」は、密接な関連があるのですから、連携して運動を進め、それぞれが、相手を支援しながら、お互いの目的達成を助け合う、と言うのが正しい、誰でも納得する運動理論でしょう。

 もし、原水禁運動は、極めて幅広い課題を扱い、その時々で重点課題は変化し、1963年時点は、ヒバクシャ救済が重点課題だった、というのなら、それは核兵器廃絶運動ではありません。

 核兵器廃絶運動は、市民運動として見るなら、実に様々な地球の市民の参加が予測されます。ニューヨークの大富豪で、私のいう軍産学複合体制の中で自分の生活と社会的名声を築いている人であっても、人道主義の立場から参加する人もあるでしょうし、広島・長崎の市民のように、自分たちの体験から参加する人もあるでしょう。セミパラチンスクやネバダ砂漠の近くに住んで、核実験の被曝体験から参加する人もあるでしょう。劣化ウラン弾の後遺症や、毒ガス兵器の被害からの類推で参加する人もあるでしょう。ベトナムの枯れ葉剤の後遺症に苦しむ人々、地球の運命を心配する良心的な市民、杉並の主婦、レオ・シラードは絶対に参加して先頭に立つでしょう、フランクレポートの委員たち、シカゴ大学冶金工学研究所の多くの科学者たち、もしかするとヘンリー・スティムソンも参加するかもしれません。私はもちろん参加します。

 河野議長、あなたも参加するでしょう。(下院議長会議で上手く口説けば、ペロシ議長も乗ってくるかもしれません。そんなことは、ないか。ま、いいや。一人くらい・・・)

 予測される核兵器廃絶運動には、実に様々な立場の、様々な階層の、様々な人々が参加します。こういう人たちを結びつけるただ一点は、「実効的な核兵器廃絶」です。願いや希望ではなく、「核兵器廃絶の実現」です。

 この運動体の目的は、「世界平和」ですらありません。もともと世界平和と「核兵器廃絶」とは全く異なった概念です。核兵器廃絶ができたからと言って、平和が実現するわけでもありません。ただ、地球は「核兵器」という脅威からは、永遠に解放されるでしょう。


森滝と任都栗

 こうした私の観点から見れば、1963年の森滝は、完全に誤ったメッセージを出しています。もし森滝が、『いや、原水爆禁止運動とは、もともと被爆者救済・援護運動だったのだ。』と言うのなら、それは看板が違う、と言う他はないでしょう。

 森滝は次に、その時点から18年前の原爆使用の話に転じます。ここでも私は首をかしげます。森滝はこう述べます。

『 さて十八年前、人類史上最初の核兵器使用で起こった広島・長崎の言語を絶する恐るべき惨禍は、おのづから広島・長崎を絶対に繰り返してはならぬという叫びとなり、やがてそれはノー・モア・ヒロシマという表現となって、またたくまに人類の合言葉となり、いろいろの形の原爆反対の行動となりました。』

 この声明からは、注意深く「アメリカ軍部」や「トルーマン政権」なりへの非難の言葉が除かれています。これは自然ではありません。こうした非難なしに、いきなり「ノー・モア・ヒロシマ」に飛躍し、原爆反対の行動となった、と森滝は言うのです。

 原爆反対の行動の原点は、「怒り」であります。それはまず直接の責任者に向けられた「憤激」でなければなりません。それからその憤激を、冷静に理論化し、核兵器廃絶への思想的背骨に育て上げて行かねばなりません。それが哲学者の仕事です。つまり、憤激だけでは不十分で冷静な「知の力」が必要なのです。森滝にはその憤激がありません。後で見るように「知の力」もありません。

 憤激だけなら、任都栗司(にとぐり・つかさ)の方がはるかに迫力があります。

 森滝がこの基調報告を行う5年前の、1958年(昭和33年)、議長の任都栗司に主導された広島市議会は、ミズーリ州インディペンデント市に引退していた、前大統領トルーマンに広島市議会の非難決議を送りつけます。それはその前年、トルーマンがアメリカの人気テレビ番組、エドワード・マローの「See it Now」に出演した際、原爆投下問題に触れ、「原爆投下は正しかった。」と言ったばかりでなく、その頃実用開発が完成していた水爆にも触れ、「必要ならば使うべきだ。」と発言し、これを伝え聞いた任都栗が怒ったのでした。

 トルーマンはこの広島市議会非難決議に返事を出しました。

 その返事の最後の方でトルーマンは、

『 原爆の投下を命令した最高責任者として、私は、広島と長崎の犠牲は、日本と連合国の幸福のために、緊急で必要な犠牲だったと考えております。』

 と述べたのです。


任都栗の憤激

 任都栗の怒りは頂点に達しました。その憤激は察してあまりあるものがあります。まさに髪が逆立つような怒りだったことでしょう。広島市議会は早速トルーマンに対する「再非難決議案」を決議します。

 その際、自ら提案者となった任東栗が、決議案を読み上げた時の一節です。

 無警告に戦闘を行った者への報復として、広島の非戦闘員、二十数万の老若男女を殺戮する暴挙を行いながら、これを合法化せんとする貴下の態度を、あえて人道的行為と考えられますか。貴下のかかる回答こそ支配者が被支配者に対する劣悪なる植民地政策的感情によるものであると極言されても、一言の抗弁もできないと思う。 』
 この暴挙に対し、貴下はなんら良心の呵責を感ぜず、今後もさらに水爆を使用することは確実であると言われますが、この貴下の言葉を、われわれの信頼する、米国の指導者の良心であると断じてよいでしょうか。 』
 私はいま、静かに犠牲者の霊の冥福を祈りつつ、一切を失って生き残った、広島市民の悲惨な生活を思うとき、貴下の回答が、いかに残酷、かつ不誠意きわまるものであることを訴え、反省を促すものであります。 』

 この時の再非難決議案は、とても長い、歴史評価の視点も定まっていない、論旨の通らない、しかもどこかでアメリカに遠慮がちな、再非難決議案でした。

 しかし、任都栗の憤激だけは本物でした。任都栗は、自分の憤激を冷静な理論とすることができずにいたのです。任都栗自身そのもどかしさに、唇を震わせています。しかし、彼の憤激は本物でした。このことが何よりもまして大切なのです。

 この任都栗の憤激と、63年原水禁大会の森滝の基調報告の一節とをくらべてみてください。

 さて十八年前、人類史上最初の核兵器使用で起こった広島・長崎の言語を絶する恐るべき惨禍は、おのづから広島・長崎を絶対に繰り返してはならぬという叫びとなり、やがてそれはノー・モア・ヒロシマという表現となって、またたくまに人類の合言葉となり、いろいろの形の原爆反対の行動となりました。 』


被爆者援護とは「ヒロシマ」への口止め料か?

 森滝の不自然さは、当事者に対する憤激をカットした不自然さであります。それは穿って見れば、アメリカやトルーマンを非難しない、つまり保守党政府の意向に逆らわないで、「被爆者援護」を引き出そうとする魂胆が見え透いている、ということです。

 その森滝の狙いが、ここでは「ノーモア・ヒロシマ」と言う言葉で表現されています。

 こうして得られた「被爆者援護」とは一体なんでしょうか?

 それはアメリカなり、トルーマン政権なり、原爆投下推進勢力なりを直接非難しない、戦争責任や凶暴な天皇制ファシズムに触れない代わりに受け取った「口止め料」ではないでしょうか?

 この手紙の冒頭で整理した、心情的原爆投下肯定論のうち、「原爆/歴史切離論」の「ふるさと」がヒロシマであることは決して偶然ではありません。

 長くなりますので、森滝の基調報告に関してはあと、1点だけ。

 森滝は、部分的核実験禁止条約を評価した後で、これが、全面的な核実験禁止条約の突破口になると言っています。該当箇所を引用しておきましょう。

『 今回の核停条約の成立は少なくとも「死の灰」による大気と地球の汚染を著しく減少し得るに至ったという点では十分高く評価されなければなりません。しかしこの部分的核停条約によって地下実験を残したままの段階に止まるならば、核兵器の強力化を阻止することは出来ません。
 
私たちは、この部分的核停条約を一つの突破口として更に全面的な実験禁止条約を凡ての核保有国の間で締結させるよう一層運動を強めなければなりません。
 
私たちの禁止運動の立場から見ればこの度の核停条約は運動の一つの成果として十分に評価すべきだと思います。何となれば世界民衆が手をつなぎ声を合わせて、平和への要求を高くかかげて国際世論をたゆみなく起こして行けば、国際政治をも平和への方向に向け得るものだという貴重な人類的経験をもつことが出来たからです。』

 核兵器実験は、核兵器を開発したばかりの国や時期においては別ですが、その本質は先にも見たように、核兵器の消費です。その消費の目的は製造にあります。製造の目的は、国家予算の浪費であり、関連軍事産業の維持であり、核兵器製造技術水準の維持であり、発展です。ですから、製造・貯蔵・実験はセットなのです。そのセットの一部である核兵器実験だけを禁止しよう、と誰かがいいだせば、そこには必ず裏があると見なければなりません。

 ですから、核実験だけを禁止するというのは、核実験をしなくても、あるいは全く新しい形で実験を行って、製造・消費・貯蔵が実現できるようになったということを意味しています。

 森滝はこのことに全く気がついていません。一部の実験を禁止することを手放しで礼賛しています。今日からみれば、全く滑稽なことです。

 核兵器廃絶を目指すには、セットの一部だけをターゲットにするわけにはいきません。開発・製造・保有・実験を一つのまとまりとして、廃絶を目指さなくてはなりません。その一部だけを規制しようと、誰かが言い出したときには、そのもっともらしい外観には必ず裏があると見なければなりません。

 森滝は、この核兵器独占の狙いに手もなく乗っています。


「原爆被爆者援護論者」としての森滝

 これは、森滝の本質を考えるにあたって、重要なヒントを提供しています。この基調報告全体についていえることですが、森滝は核保有論者や核兵器製造の経済的・社会的・政治的な側面の研究の成果を全く示していません。研究らしい側面があるとするとわずかに軍事的側面でしょうか。それも一般新聞報道レベルの雑な理解です。

 核兵器廃絶論者にとって核兵器保有論者は敵です。真っ正面の敵です。森滝は、この真っ正面の敵に関する独自の研究をまったく行っていないのです。戦いにおいて敵を知ることはまず最初になされるべきことでしょう。

 これを森滝が全く行っていないということは、彼が核兵器廃絶論者でないことを意味しています。従って森滝の本質は、「原爆被爆者援護論者」であったということです。後にもこの問題はでてくるとは思いますが、森滝が「原爆被爆者援護論者」であること自体には全く問題がありません。問題がないどころか、その思想は、大変立派だと思います。

 それが、問題なのは、「原爆被爆者援護論者」が「核兵器廃絶論者」として登場するからです。「核兵器廃絶」を「被爆者援護」を混同した議論をまき散らし、一般市民が、問題を深く考えることを妨げるから問題なのです。

 この基調報告の中で、森滝は「核兵器のない平和な世界」という意味のことを何カ所かで言っています。しかし「核兵器廃絶」と「平和な世界」は全く別なことです。相互に関連はあるけれども、本質的には全く別なことです。

 「核兵器廃絶」が実現できたからと言って「平和な世界」が実現できるわけではありません。この混同は極めて危険です。問題を深く掘り下げ、冷静に論理的に「核兵器廃絶問題」を地球市民の前に提示し、その賢明な判断を下してもらうことでしか、今は「核兵器廃絶」に向けた決め手はないからです。

 いわば、地球市民の冷静で賢明な「考える力」に依存するほかに道がなくなっています。森滝のような中途半端な理解は、「核兵器廃絶」の立場に立って見たとき、害になりこそすれ、前進の力にはなりません。


核兵器廃絶は人類全体にとって最良の“取り引き”

 1945年9月11日付「大統領トルーマンあてのメモランダム」の中で、ヘンリー・ルイス・スティムソンは、原爆を進んで封印し、廃棄してしまおうと提言しているわけですが、その時、彼は「われわれの原爆をめぐる考え方は、世界の人々にとっての最良の“取り引き”でなくてはなりません。」と指摘しています。

 スティムソンにとって「原爆を封印」してしまうことは、取り引き、だったのです。地球の多くの人たちが「核兵器」の脅威から永遠に解放される方が得か、それとも、軍産複合体制にとっての短期的な利益が得か、どちらが得かの取り引き、だったわけです。これは自分がどちらの立場に立つかによります。 

 世界中の圧倒的に多数の人間の立場に立つか、それとも絶大な権力を握っている、しかし、ほんの一握りの軍産複合体制の立場に立つかによります。

 スティムソンは、この時、世界の圧倒的多数の人々の立場に立って、この時引きを冷静に見てみたとき、「原爆を封印すること」が得だ、と判断したわけでした。それは彼が理想主義者であったからではありません。冷静で現実的な政治家だったからです。

 スティムソンはアングロ・サクソン・ブロックのエスタブリシュメントの代表者として、いわば後にアイゼンハワーが「軍産複合体制」と表現する、アメリカの権力中枢にどっかり座っていました。しかし、その前に、地球市民の一人でもありました。

 そして、スティムソンの中で、「取り引き」がはじまりました。それは権力中枢の一人である自分と地球市民のひとりである自分との間で、どちらを優先させるかの選択でもあります。その結果、スティムソンは地球市民の一人である自分を躊躇なく選択したのです。

 それはまさに彼自身が表現しているように、「原爆は、人類にとって革命的に過ぎ、また危険すぎる」からでした。

 地球市民全員が、冷静に、論理的に、“取り引き”の立場に立ってみれば、核兵器は廃絶できる、この一点が、核兵器廃絶へむけての“希望”なのです。

 こうした論点に立ってみれば、森滝の混乱した、底の浅い議論などは、核兵器廃絶へ向けての夾雑物の一つでしかないわけです。

 これ以上、森滝の基調報告に立ち入るのはやめましょう。

 ここでは、ただ、ヒロシマに存在する「原爆歴史切離論」が、任都栗らの憤激を、冷静な「核兵器廃絶理論」に進化させることを妨げている点だけを確認しておけば十分でしょう。

 しかし、大江健三郎は、この森滝の基調報告を、
広島の被爆者の心の内部の道がヒューマニズム一般の原水爆禁止運動の道とつらなる。その人間的なインターチェンジに老哲学者の論理はしっかり立っている。」

と言うのでしょうか?「ヒロシマ・ノート」における、大江の意図、視点、思想がますます分からなくなります。


戦時言論統制体制のままの中国新聞

 翌1964年の夏、大江健三郎は再び広島を訪れます。そして前年に分裂した世界原水禁大会を覗き、広島原爆病院を訪ねたりします。そして地元の中国新聞の論説委員、金井という新聞記者のことを書きます。

 ここの記述は、少し奇妙なのですが、ともかくも引用してみましょう。

被爆の日から十年、現地の新聞である中国新聞の印刷所にすら、原爆あるいは放射能と組んだ活字はなかった。<原子爆弾の放射能の影響によって死ぬべきものはすでに死に絶え、もはやその残存放射能による生理的影響は認められない>という1945年秋の米軍側原爆災害調査団の誤った声明が世界に広がった後の十年間の沈黙。それをかれは(金井論説委員)、広島の新聞記者として忍耐したのである。』
 そして広島に沈黙の後の、声を発すべき時がきたが、その声は十分、有効だったか?かれは夏ごとに、原水爆禁止世界大会を迎えながら(原水爆とその反対運動をめぐる報道において、中国新聞はつねに最も水準の高い報道を続けてきている。もしひと夏を広島で過ごし、原爆記念日をめぐる報道を丹念に読むなら誰でも中国新聞が最も信頼にたる新聞であることに気がつくはずである)、かずかずの切実な期待をそれにかけ、そしてじつにたびたび暗い失望を味わったにちがいない。 』(U 広島再訪 P57)

 ここは、終戦直後の、広島地元の新聞、中国新聞の検閲時代のことを書いたくだりだと思います。

 話は1945年からさらに、若干さかのぼります。

 現在の日本の日刊新聞の体制のスタートは、1941年(昭和16年)12月の新聞事業令(勅令)でした。

 昭和10年代、戦争準備を着々と進めていた凶暴な天皇制ファシズム政府は、横浜事件(1942年)に代表されるような言論弾圧を強めていきます。それは、天皇制イデオロギーを国民の頭の中に染みこませるためであり、また、自分勝手な侵略戦争に対する国民の献身的な協力を引き出すためでありました。

 言論統制を徐々に強めていった天皇制ファシズム政府は、ついに新聞事業令を発布し、全国の新聞の統廃合に踏み切ります。言論統制のためには新聞は少ない方がいいわけです。

 静岡県立大学前坂俊之教授の研究によれば、1939年当時(昭和14年)、全国に7670紙(うち月刊以下の頻度の新聞が4300紙)あった新聞は、新聞事業令で強制的に統廃合させられ、大体全国で100紙程度になります。

 その上、新聞に序列を作ります。

 全国紙は朝日、毎日、読売の3紙、ほか「東京、大阪は4,5社、名古屋・福岡は2社、あとの各県は一県一社に整理統合して、報道は同盟通信に一本化する」(同教授 2005年 「マス・コミュニケーション研究 No.66」より。なお同教授のサイトはhttp://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/ 同論文はこのサイトの「戦争報道」のコラムにはいると全文読むことが出来ます。)

いまで云えば、朝読毎は全国紙、中日新聞などはブロック紙、各県に1紙づつ誕生した新聞は県紙と言うことになります。

 現在の中国新聞もこうした整理統廃合の中で生まれた広島県の「県紙」でした。

 つまり現在の日本の日刊新聞体制は、戦争中の国家総動員体制の中で生まれたものであり、戦後の民主主義時代に成立したものではありません。

 戦後何故、戦前のような「新聞百花繚乱時代」が復活しなかったかというと私には説明できません。ただ、はっきりといえることは、GHQ占領軍の「言論統制」には都合のいい体制だったことです。

 この手紙のどこかで、原爆報道に関して、トルーマン政権中枢は厳しい言論統制を敷いて、「原爆の非人道的実態」がアメリカ国民の目に触れることを、極度に恐れたことを申し上げましたが、占領地日本では、文字通り事前検閲制度でした。

 この時期、中国新聞が「原爆」について報道するときは、必ず広島GHQに届け出て、その内容が合格したものだけが掲載できました。

 ですから、ここで大江が言っている、「沈黙」とはこの占領時代のことと解釈できないこともありません。しかし45年から10年というと1955年までのことになります。日米講和条約は1951年(昭和26年)に署名、その後国会承認と内閣批准を経て、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効しています。だから、1955年といえば、もう完全独立後のこととになり、中国新聞に限らず、もう自由に書けた筈です。その後も日本政府主導の自主規制でもあったのでしょうか?これは大江に聞いてみないとその意図は分かりません。



 占領時代、中国新聞は一切沈黙を守ったように、大江は書いていますが、これも正確ではありません。占領時代も中国新聞は「原爆」について書いています。

 大江自身が言うように、

『 <原子爆弾の放射能の影響によって死ぬべきものはすでに死に絶え、もはやその残存放射能による生理的影響は認められない>という1945年秋の米軍側原爆災害調査団の誤った声明が世界に広がった。 』

 この時も、中国新聞は書いています。

 ただこの時の「米側原爆災害調査団の誤った声明」は、意図的なデマでした。

 大江がいう「米側原爆災害調査団」とは、どの調査団のことでしょうか?恐らくマンハッタン計画と太平洋陸軍軍医団調査班の合同調査団のことでしょう。この時期15人のメンバーで日本にやってきています。恐らくは急遽編成されたものでしょう。

(この件は、広島平和資料館の次のサイトが記述しています。http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exhi_fra.html。私もこのサイトで知りました。)

 このデマ発表の時、アメリカでは、マンハッタン計画の総責任者、レスリー・グローヴズは、最初の原爆実験場アラモゴード砂漠に、全米から選抜した“一流報道人”50人を集めて、「アラモゴード砂漠には放射能はない」とするデマ報道を流させました。この時、陸軍広報発表資料執筆を下請けしたのが、ニューヨークタイムズの“ピューリッツア賞・科学ジャーナリスト”、ウイリアム・L・ローレンス記者でした。実はこの時すでにL・ローレンスは、陸軍省と内々に契約をし、世論誘導・世論操作の片棒を担いでいました。
(L・ローレンスと陸軍省との契約の件は、45年5月14日暫定委員会の議事録の中に見えます。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee1945_5_14.htm

 このアメリカでのデマ発表と、同じ時期の、広島での「残存放射能による人体に対する影響はない」とするデマ発表は、当然呼応したものと見なければなりません。これはバーチェットの有名な潜行ルポ記事「原子の伝染病」へのグローヴズの反撃でした。

 この時、中国新聞も毎日新聞も朝日新聞も、このデマ発表の後棒を担いだのでした。(お先棒の名誉はやはりL・ローレンスのものでしょう。)

 その後、46年にかけて、中国新聞や毎日新聞は、たびたび放射能の影響について「楽観的な記事」を流します。有り体に言えば「デマ」を流します。今はみんな口をぬぐっていますが、彼らは、L・ローレンス同様、グローヴズに協力した共犯です。知らなかった、と言うのなら、事後従犯です。今も知らないというのなら、歴史的確信犯です。

 グローヴズがあの時期、最も恐れたのは、異なる破壊の質をもった、残虐で非人道的な「原爆の実態」をアメリカ市民に知られることでした。

(* 歴史に「もし」は禁物とは言いますが、この件だけは・・・。もしこの時期の日本に一人、二人のバーチェットがいたとしたら、戦後のアメリカの、核兵器に対する世論は、かなり違っていたのではないか、と私は想像します。)

 「占領下でどうすることもできなかった。」という事情は良く理解できます。

 しかしそれでは、「戦時下で特高に睨まれてはどうすることもできなかった。」というのとどこが違いますか?「天皇制ファシズム政府」が「マッカーサーGHQ」に変わっただけの話で、今も記者クラブ制度と「報道の自主規制」というクルマの両輪に乗っかって、1941年のまま、今度はソフトな言論統制・世論誘導が続いています。

 (またまた余計なことですが、お隣、韓国ではノムヒョン時代に、旧日本植民地時代から続いていた記者クラブ制度を廃止してしまいましたので、悪評さくさくの記者クラブ制度が存続しているのは、日本だけになってしまいました。)


『原爆は威力として知られたか、人間的悲惨として知られたか』?

 先に紹介した、大江の記述は、この時代の中国新聞の評価に関わる記述です。

 それにしても、同じことを見、同じことを聞いても、私の評価とは随分違います。

 それは、私が「核兵器廃絶」を中心にすえて問題を眺めているのに対して、大江が「被爆者の人間的悲惨」を中心にすえていることによる違いではないかと、私は考えています。

 さて大江の言う「10年間の沈黙」、私の言う「グローヴズへの協力」(厳しい言い方かも知れませんが、そう評価せざるを得ません。)の後、「口を開くべき時がきた」中国新聞(金井論説委員)は、どんなことをいうのでしょうか?

 それが、「ヒロシマ・ノート」の<U 広島再訪 P57>に記述されています。

<原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか>と金井論説委員は問いかける。そしてあきらかに、<世界に知られているヒロシマ、ナガサキは、原爆の威力についてであり、原爆の被害の人間的悲惨さについてでは>ない。 』
 水爆に比べて、もはや広島型爆弾は威力ではなくなったとされ、その人間的悲惨は国際的に無視され、あるいはわすれられつつあるのではないでしょうか。平和の敵を明らかにする論争の中で、まず被爆の原体験を国際的に告知する基礎的な努力がなおざりにされてはいないか>、そこで、<今、広島、長崎の被爆者が、その死亡者と生存者とを含めて心から願うことは、その原爆の威力についてではなく、その被災の人間的悲惨について、世界中の人に周知徹底させることである。> 』

 <>は恐らくは金井論説委員のコメントでしょう。

 原爆における「人間的悲惨」を世界の人に知らせることには大きな意味がありました。そのことが、普通の生活感覚をもった世界の人々の、胸を打ち、核兵器の実態を知らせるきっかけとなったからです。私は、ヒロシマ・ナガサキの後、曲がりなりにも核兵器の実戦使用が行われてこなかった要因は、世界の人が「ヒロシマ・ナガサキ」の実態を知ったからだ、これが本当の「核抑止力」になった、と考えていますが、そうした見方からすれば、原爆における「人間的悲惨」を「世界中の人に周知徹底させる。」ことの重要性は明らかです。

 しかし、金井論説委員のように、「<原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか>」となると、ちょっとついていけない感じがします。

 原爆について、「威力」と「人間的悲惨」という二者択一的な問題の立て方には、首をかしげます。というのは、原爆について、語るべき視点はたくさんあります。「使用の理由」、「トルーマン政権中枢の狙い」「戦後日本の対米従属軍事体制の中での非核化、特に非核三原則との関係」、なかでもとりわけ重要な視点が「現在の核保有体制と原爆との関係及び連続性」というテーマでしょう。このテーマは、「核兵器廃絶問題」と直結しています。

 金井のように、原爆について「威力」と「人間的悲惨」の二者択一は、極めて視野が狭いのではないか、と思います。

 しかも、よくよく考えてみれば、「人間的悲惨」と「威力」は決して二者択一の命題ではなく、各が、「原爆」を理解する一つの要素に過ぎません。

 いいかえれば、原爆の「人間的悲惨」は、原爆の「威力」の中でしか語ることができない、威力から切り離した「人間的悲惨」などはおよそ意味がない、と言うことでもあります。

(*  そもそも「威力」とはどういう意味合いで使われているのでしょうか?
  政治的・軍事的な威力でしょうか?それとも、その破壊力の大きさのことでしょうか?金井は、<水爆と比較して原爆は威力でなくなった、とされ>と、威力と言う言葉を使っていますから、政治的・軍事的な意味合いとともに、破壊力の大きさの意味も込めているのでしょうか?

 どちらにせよ、私は威力と言う言葉は使いません。破壊力と言う言葉を使います。そして原爆の恐ろしさは、その破壊力の大きさにあるのではなく、従来とは全く異なったその「破壊力の質」にあるのだ、「生きとし生けるもの」をミューテイトさせる恐ろしさにある、と理解しています。ですから、それが水爆になろうと、原爆の恐ろしさの質に変化があるわけではありません。金井のいう威力ならば、原爆1−2個と東京大空襲は同等と言うことになります。これはコンプトン論文になります。

 またまた余計なことになりますが、広島平和記念資料館の2階の展示に、恐らく原爆の威力を示すつもりでしょう、お化け屋敷のような人形をつかった原爆の惨状を表現したつもりの現場再現シーンがあります。下品でもありますが、それ以上にこの展示は、原爆の恐ろしさを矮小化しています。)


『人間的悲惨さ』の絶対化

 どちらにせよ、私は金井の問題の立て方、たとえば、水爆の出現によって、「その人間的悲惨は国際的に無視され、あるいはわすれられつつあるのではないでしょうか。」という設問の仕方、にどこか無理を感じます。

 わすれ去られるも何も、「十年の沈黙」のあとまだ口を開いていなかったのではないでしょうか?

 前段の理屈がどうあれ、金井は「その原爆の威力についてではなく、その被災の人間的悲惨について、世界中の人に周知徹底させることである。」に結論を持って行きたかったのではないか、と言う気がします。

 大江は、この「ヒロシマ・ノート」の冒頭で、

・・・旅行者たちは、20世紀における、もっとも苛酷な人間の運命を体験しなければならなかった。」(1.広島への最初の旅。P16)

 と言っているように、広島の原爆における「人間的悲惨」を絶対化しようと何度も試みています。絶対化とは、「ヒロシマ以外の人間的悲惨」と比較しない、という意味であります。

 大江のいうことを文字通りとれば、ヒロシマは、20世紀人類が味わったもっとも苛酷な人間的悲惨だ、ということになりますが、こんな馬鹿なことを言うはずがありません。

 「ヒロシマの人間的悲惨」がアウシュビッツの「人間的悲惨」と比べて、旧日本軍性奴隷制度の犠牲になった若い女性、南京で虐殺された中国の人々等々の「人間的悲惨」と比べて、より悲惨だったということは誰にもできないでしょう。もともと人間的悲惨は、比較できないものです。悲惨や理不尽に遭遇した人たちにとって、その悲惨は、常に比べようないものなのですから。

 ですから、大江の言う「もっとも苛酷な人間的悲惨」も文学的な表現であって、決して文字通りの意味ではないでしょう。

 とすれば、ここでいう人間的悲惨は、他の人間的悲惨と比較しない「絶対的」人間的悲惨という意味の筈です。

 それはまた、金井のいう「人間的悲惨」とも重なっていることと想像されます。

 大江は、<V モラリストの広島)>で次のようにいます。

そしてなにが彼らをモラリストとしたかといえば、それは彼らが人間の歴史はじまって以来の、最も苛酷な日々にめぐりあい、そして19年間、それを忍耐してきたからである。」(同書、P70)

 ここで、大江が、「彼ら」と呼んでいるのは「被爆者」のことです。モラリストについては、大江は、別な箇所で、「かれらがこぞって、人間についての独特な観察力と表現力とを自分のものとしている人たちであることに気がつく。また、かれらが、勇気とか希望とか誠実さとか悲惨な死とかという、モラルの深みに関わる言葉に具体的かつ個性的な意味づけをおこなっている人たちであることに気がつく。すなわち、かれらは、日本語でかつて人性批評家という訳語をあてられたような意味での、モラリストなのだ。」という定義を与えています。

 もちろん、「もっとも苛酷な日々」というのは文字通りの意味ではなく、文学的表現比喩だと解釈されるでしょう。

 ここでも、大江は、原爆における「人間的悲惨」を絶対化しようとしています。こうして、「ヒロシマ・ノート」の第V章<モラリストの広島>は、こうして絶対化した「人間的悲惨さ」の実際の様が延々と続きます。

 しかし、私にとっては、正直に言って、こうした絶対化された人間的悲惨さは、あまり説得力をもって響いてこないのです。

 それは、原爆の後遺症に絶望して、自殺した被爆者のAさんの人間的悲惨さが、旧帝国日本軍に拉致されて、毎日数十人の兵隊に、2年間強姦されて、あげくには殺された中国人Bさんの人間的悲惨、腹を切り裂かれて胎児を取り出され、まだ生きている胎児を目の前で串刺しにされた母親Cさんの人間的悲惨、朝鮮の農村で無理矢理徴用されて宇部の炭坑(広島の観音三菱の工場でもいいですが)で奴隷労働に従事させられ、特高の目をかすめてやっと逃げ出し、行った先が親戚のいる広島で、そこで原爆にあって、死んだけれども、朝鮮人であるがゆえに埋めてもらうのも一番後だったDさんの人間的悲惨と比べて、どうしてもより悲惨とは思えない、ということでもあります。

 もともと大江や金井の「人間的悲惨」は「他者の悲惨」と比較しない性質の「絶対的悲惨」でしたから、私の「比較」は間違い、ということにはなるのでしょうが、私は歴史の中で生きている人間ですから、どれもこれも歴史の中で起こった事件における相対的な「人間的悲惨」を較べ検討し、その関連を考えることは当然に行います。

 私は、私の方が自然で、大江や金井の絶対的「人間的悲惨」の方が不自然だと思いますが、これは見解の違いという他はありません。

 しかし広島における、絶対的「人間的悲惨」のみを描けば、つまり「広島の人間的悲惨」を、歴史の背景から切り離してし、「他者の遭遇した人間的悲惨」と比較しなければ、原爆投下(ないしは使用)の原因、理由、それを取り巻く背景、要因、特に「あの戦争」と原爆投下の関係に立ち入らなくて済む、と言う利点があります。


逆立ちして核兵器廃絶を見ている大江

 大江の「ヒロシマ・ノート」を書いた目的は、核兵器廃絶よりも、ヒロシマの人間的悲惨を描くことの方に力点があったと思います。

 大江は、<W 人間的威厳について>で次のようにいます。

したがってもし、政治的力関係によって核兵器が全廃されるにしても、それでは広島の被爆者たちの人間的復権のために無効だ。僕はモラルの名において、あるいは思想の名において、この単純な定理を最重要と見なすものである。 』

 これは、「広島が、核兵器全廃のための運動の、もっとも本質的な思想的根幹として威力を発揮しなければならない、その威力をすべての人間が確認しなければならない、それ以外に広島の被爆者たちを無惨な死の恐怖から救う手段がほかにあるだろうか?」と問いかける前段の文章に続く言葉です。

 うっかり読むと、大江も核兵器全廃(核兵器廃絶)を考えているように見えますが、実は大江が考えているのは、「広島の被爆者たちの人間的復権」です。

 従って私のような核兵器全廃論者から見ると、大江の議論が全く逆立ちしていることに気がつきます。

 大江がこの文章で言っていることは、およそ次のようなことでしょう。

1. 広島の威厳を恢復するには、広島が威力を発揮し、その威力をみんなが確認しなければならない。
2. 核兵器全廃は、広島の人間的復権のためには無効だ。
3. この単純な定理が最重要だ。

 「被爆者の人間的悲惨」を絶対化しようとした大江は、今度は「広島の威厳」の絶対化を試みます。被爆者の経験した「人間的悲惨」の聖域化といってもいいでしょう。しかも、その「広島の威厳」は、核兵器が全廃されたからといって回復されるわけではない、みんなが「広島の威力」を認めなければ回復しない、とまで言い切っています。それでは、「広島の威力」とはいったい何なのか、といえば、「核兵器全廃へ向けての思想的根幹だ。」と云うのです。

 つまり、大江においては、もともと「核兵器廃絶」の重要な手段(思想的根幹)だった、「広島の威力」がいつの間にか目的化され、最重要課題となっています。ですから核兵器廃絶が実現しても、「広島の人間的復権のためには無効」なのです。

 ですから核兵器廃絶論者の私から見ると、大江の議論は逆立ちして見えるのです。

 大江は、次のように続けます。

『 しかし、もしあなたに醜いケロイドがあり、そのケロイドよる心理的外傷をあなたみずからが克服するために手がかりを欲するとするなら、それは、自分のケロイドこそが、核兵器全廃のために本質的な価値をもつ、と信じることのほかにはないはずではないか。そのようにしてしか、むなしく白血病で死ぬ苦痛と恐怖とを何か意味あるものに昇華することはできないはずではないか? 』
 
 ここで大江が、「醜いケロイド」といっているのは、文字通りの意味ではなく、「広島の人間的悲惨」の比喩的表現でしょう。その人間的悲惨が核兵器全廃のために本質的な価値をもつ、信じたい心情は理解できます。しかし、「人間的悲惨」が、核兵器全廃に直結するわけではありません。いいかれば、その人間的悲惨は、一定の核兵器使用の抑止力にはなりえても、核兵器廃絶には直接単独には役立たない、ということでもあります。

 大江は、このことを故意にか、あるいは知らずしてか混同しています。先の大江の「逆立ちの論理」からすれば、大江の云いたいことは、核兵器全廃の理論としての「広島の人間的悲惨」ではなく(もともとこれまで見てきたように、広島の人間的悲惨は、それ自身単独では、核兵器廃絶の理論にはなりません。)、「広島の人間的悲惨」のための「核兵器全廃」ということです。つまりここでは、「核兵器全廃」は、「広島の人間的悲惨」の回復のために使われています。

 私の立場からいえば、本末転倒です。


われわれは「ヒロシマ」をまぬがれたか?

 さらに続けてみましょう。

『 われわれ、偶然ヒロシマをまぬがれた人間たちが、広島をもつ日本の人間、広島をもつ世界の人間、という態度を中心に据えながら人間の存在や死について考え、真にわれらの内なるヒロシマを償い、それに価値を与えたいと希うなら、ヒロシマの人間の悲惨→人間全体の恢復、という公理を成立させる方向にこそ、すべての核兵器への対策を秩序だてるべきではないか。 』

 私たちは、すでに、偶然ヒロシマをまぬがれたでしょうか?将来にわたって「まぬがれた」でしょうか?それは確実ですか?

 もしそれが、確実なら、「核兵器廃絶の必要性」はありません。地球も安泰です。

 1945年のフランクレポートの科学者たちは、大江よりも、もっと生々しい想像力を持っていました。

『 われわれ全員、原子工学の現在の状態をよく知っているわれわれ全員は、真珠湾の何千倍もの惨劇に相当する一瞬の壊滅が、我々自身の国に、この国のひとつひとつの主要な都市に襲ってきている姿を目に浮かべながら、今日を生きている。 』

 フランクレポートの科学者たちにとって、「ヒロシマ」は明日の自分たちの姿だったのです。人類が核兵器を保有する限り、「ヒロシマ」は地球上のどの場所にも襲ってくることを確信していたのです。

 私は、大江の言葉尻を捉まえているのではありません。大江とフランクレポートの科学者たちの核兵器に対する認識の違いを指摘したいのです。

 大江にとって、大切なことは「ヒロシマの人間性の恢復」です。フランクレポートの科学者や私にとって大切なことは、自分が明日の「ヒロシマ」に遭遇しないことです。「ヒロシマ」は世界中のどこにでも存在しうるのですから。1945年の8月6日、人類最初の原爆が落ちたのは事実としても、それが広島だったのは、偶然のいたずらに過ぎません。広島や長崎の原爆被爆者は、明日のわれわれの姿なのです。

 「ヒロシマ」を中心に置いてみれば、大江は良心的なエトランゼに過ぎませんが、フランクレポートの科学者や私は計算高い当事者なのです。

 大江が、「真にわれらの内なるヒロシマを償い、それに価値を与えたいと希うなら、ヒロシマの人間の悲惨→人間全体の恢復、という公理を成立させる方向にこそ、すべての核兵器への対策を秩序だてるべきではないか。」と言うとき、大江は逆立ちしたまま、「核兵器への対策」を秩序立てています。今日「ママンが死んだ」異邦人ですらありません。

 ここでやっと、大江の「われらの内なるヒロシマ」なるものの輪郭がおぼろげに見えてみました。すなわち、「贖罪と同情の気持ち」だったのです。


「核兵器廃絶の見通し」決して向こうからは訪れない。

 この政治的時代には、ひとつの国の新たな核武装が、かえって核兵器の全廃への道につうじる、というおとぎ話が現実的である可能性もあるというひとたちがいるかもしれない。実際現実に世界がその方向へ一歩踏み出した以上、絶対に、それは可能でなければなるまい。 』
 しかし、僕はみすごすことはできない、すなわちそのお伽話の城へ向かって一歩踏み出された現実的な足は、広島のいまなお昏い室内でケロイドを恥じながら青春をすでに失いつつある娘たちの自己回復の希望を、確実に踏みにじったのである。そして、それでもなおかつ、実際に核兵器全廃の見通しが訪れていないという現状が、広島の人間たちにとって、まったくどれほど苛酷なことであるか、ぼくはそれをおしはかる勇気をもたない。 』

 先の逆立ちした「核兵器全廃論」にすぐ続く文章です。逆立ちしたまま現実を眺めれば、「核兵器全廃」の見通しなど、立つはずがありません。従って、大江は、核兵器廃絶については希望を持っていません。

 なぜ?
それは「核兵器廃絶の見通しが訪れていない。」という言い方に象徴されるように、大江が「核兵器廃絶」が、大国間のパワーゲームで達成されるかもしれない、と錯覚しているからです。

 「核兵器廃絶の見通し」は決して訪れません。地球市民が決意し団結して、たぐり寄せなければ、見通しなど立ちようがないのです。

 原爆投下推進勢力、すなわち「核兵器保有論者」が、自ら「核兵器廃絶」などいいだすはずがないではないですか。
 
 実際、この大江の論調は、現在の広島のムードとかなりの程度、同期しています。もともと核廃絶を考える、重要な手段だった、被爆者の「人間的悲惨」がいつの間にか、「それを伝え、語り継ぐ」ことが目的化してしまい、今や、被爆者の体験が「聖域」となった観があります。まるで広島にできることは、被爆の体験を伝え、語り継ぐことしかないかのようです。

 原爆の悲惨を語れば、それが自動的に核兵器廃絶につながるかのような「自己欺瞞」が広島に蔓延しています。

 実際「核兵器廃絶」という問題を中心に置いてみると広島がやらなければならないことは山積みです。

 任都栗が見せた、原爆を投下した勢力(彼の場合はトルーマン個人に向かいましたが。トルーマン自身は歴史の波間にちょっと顔を出しただけのピエロに過ぎません。)に対する憤激を、冷静に「核兵器廃絶」のための理論とする仕事が、まず第一でしょう。(これだけでも相当な仕事になりますが。)

1. 上記のためには、本当にだれが何のために原爆を使用したかを、研究しなければなりません。
2. 次に1945年の核兵器保有の状況と現在の核兵器保有の状況がどうつながっているかを、形成に着実に研究し、いろいろなミシング・リングを発見していかなければなりません。(考古学の仕事に似ています。)

 同時並行的に、地球市民との連携を構築するために、広島は「あの戦争」の研究をしなければなりません。

1. だれの何のための戦争だったか、あの戦争でわれわれはなにをしたか、が重要な課題となるでしょう。
2. 当時の日本の一員として、広島が謝罪するところは、謝罪しなければなりません。任東栗は、トルーマンに謝罪と反省を求めましたが、それは誰しも同じことです。大江の云うところと違って、私はそれが「広島の心」であり「広島の威厳」だと思います。

 次に得られた研究の成果を、冷静に地球市民の前に提示して説明し、討議し、その賢明な判断をまつ、ことになりましょう。こうした過程の中で、トルーマン政権の政治的継承者であるその時の米政権に謝罪をもとめることも必要になるでしょう。

 これが、今最低限広島がやらなければならないことです。抗議電報も、平和公園での座り込みも要りません。

 こうして、冷静で、論理的で、視点のぶれない研究と発見の連続が、任東栗の感じた憤激を、冷静な核兵器廃絶の理論を形成していくでしょうし、人類にとって最良の“取り引き”とは何か、を冷静に判断する世界市民にその決意と団結を促す力となるはずです。その時は各国の国政選挙レベルで、「核兵器廃絶」が政策の争点の一つとなっているはずです。

 私は、もしかすると、大江は、「核兵器廃絶の日」がやってくるとは信じていないのではないか、と思います。だから、手段が目的化してしまったのではないか、と思います。

 私は確信しています。核兵器廃絶が、地球とそこに住む人々にとって、最良の“取り引き”だからです。

 世界の核兵器をほぼ独占しているG8諸国が集まって、何故核兵器廃絶ができないか、それは「G8諸国の市民」が、それが「最良の取り引き」であることに気がついていない、ということでもあります。