No.22-4 平成20年4月26日


拝啓、河野衆議院議長殿  21世紀を、歴史的和解の世紀としませんか?
その4 「広島原爆」は人類に対する人類による最初の核兵攻撃



46年12月「コンプトン論文」

 私は前回までの手紙でおおよそ以下のことを申し上げてきたかのように思います。

(1) 今日、G8は世界の軍備の7割近くを保有し、なかんずく、核兵器をほとんど独占している状態で、「地球」に対する最大の脅威はG8だと言う見方もできなくはない。
(2) そのG8が核兵器廃絶を決意すれば、核兵器廃絶は明日からでも実現できるのに、何故廃絶できないか?その回答は国際政治力学の分析の中にはなく、世界で最初の原爆実戦使用の中に、その鍵がありそうだ。
(3) 原爆投下の目的は、対日戦争終結にはなく、ソ連との冷戦を華々しく創造することにあった。狙いは、冷戦という準戦時体制のもとで、戦時体制同様、「核エネルギー産業・市場への連邦予算支出を容易にするためだった。この役割・機能は戦後すぐ米原子力委員会に受け継がれた。
(4) トルーマン政権がもっとも恐れたことは、「原爆の非人道性」「残虐性」がアメリカの市民の前に明らかになることだった。特に通常兵器と比べてその「非人道性・残虐性」の“質”が全く異なっていることを知られることがもっとも恐ろしかった。もしアメリカ市民が原爆の残虐性の実態を正しく知れば、それを人類で最初に使用した国がアメリカであることを決して容認しなかったであろうし、ましてやそれに連邦予算資支出を認めることはしなかったであろうからだ。
(5) こうしてトルーマン政権中枢による、「原爆投下は対日戦争終結」のために使われた、とする大キャンペーンがはじまった。これにはニューヨーク・タイムスをはじめとするアメリカの“一流”ジャーナリズムがこぞって協力した。このことは2つの効果をもった。一つは、原爆投下の真の目的を覆い隠す効果であり、もう一つは、凶暴な天皇制ファシズムに支配された日本の悪質極まる支配から、日本人を含む多くの人たちを解放し、無駄な流血を避ける「最後の一突き」となった「原爆投下」というイメージを作り上げ、世界の多く人たちから「原爆投下に対する心情的支持」を獲得したことだった。
(6) 私がそれでも、それを「原爆投下に対する心情的支持」と呼ぶのは、その「心情」は理解できるにしても、誤った歴史認識に基づく、誤った「支持」だからだ。
(7) 核兵器廃絶に向けての、決定的決め手となるのは、国際政治の駆け引きなどではなく、核兵器廃絶に向けての、世界の市民の堅い決意と合意であるとするなら、この誤った心情的支持が、今日核兵器廃絶の最大の問題となっている。この心情的支持が、世界の市民の、堅い決意を鈍らせ、合意を分裂させているからだ。

 以上が前回までのおおよそのまとめでした。

 従って、トルーマン政権中枢の「原爆は対日戦争終結のために使われた」とする大キャンペーンが大成功をおさめ、いわばこれに「世界が見事にひっかかった」ことが、今日いかに世界の市民の「核兵器廃絶」に向けた決意を鈍らせ、合意を分裂させているか、を見ていくのが、これからのテーマと言うことになります。

 その前に前回の続き、確認として、この時期トルーマン政権の中枢が、いかに「原爆は対日戦争終結のために使われた。その政策決定は正しかった。」とする「原爆正当化」の世論作りに躍起になっていたかを、カール・コンプトンの論文を紹介しながら、見ておきましょう。

 コンプトンの論文の表題は「もし原爆を使用しなかったら」と題するもので、アトランティック・マンスリー46年12月号に掲載されました。翌年ハーパーズ・マガジンに掲載されるスティムソン署名入り論文の露払いの役割を果たすものです。

 カール・テイラー・コンプトンは、当時マサチューセッツ工科大学(MIT)の学長でもあり、また暫定委員会8人のメンバーの一人でもありました。早い時期に、「学」と「軍」の協働体制作りを手がけた人物としても、知られています。いわば当時「軍産学」協働体制の要の一人であったということができます。

 弟のアーサー・コンプトンは、ノーベル賞学者でもありますが、当時シカゴ大学冶金工学研究所の所長として、「マンハッタン計画」全体の中心科学者の一人でもありました。またアーサーは暫定委員会4人の科学顧問団の一人でもありました。

 カール・コンプトンの論文は原文と共に別添資料としておきましたので、お時間のある時、ゆっくりお読みください。

 この論文についてここで私が申し上げたいことは、トルーマン政権中枢の意向を受けたカール・コンプトンの主張が、「原爆投下肯定論者」の論法を見事なまでに体現している、ということです。かつての「原爆投下肯定論者」は、今現在では、「核兵器保有正当化論者」「核兵器抑止論者」に衣替えし、かつ危険なことに「核兵器先制攻撃論者」となる兆しをみせていますが、こうした論者の原型が、この論文だと言うことです。


原爆投下肯定論の典型モデル

 たとえば、コンプトンは「私は、いろんなことを知りうる恵まれた立場にいた」として、読者に対して自分の「知見」の優位性を誇示します。たしかに秘密委員会の暫定委員会のメンバーだっただけでなく、日本の敗戦直後マッカーサーとほぼ同じ時期来日し、精力的な調査情報収集活動をして、一般では得られない知見を彼は得ています。日本の情勢についても詳しく精通していたことでしょう。

 しかし本来ならこうしたすべて知見を開示して、そこから得られる自分の見識や見解を述べ、判断は読者に委ねる、というのが科学者あるいは良心的な知識人の態度でしょう。しかしこの論文でコンプトンは一貫してそのような姿勢を見せません。自分の「知見」を誇示します。目的が世論誘導・操作にあるからです。

 従って時にはウソをいいます。「ウソを言うなら大きなウソを言え、その方が本当らしく見える。」と言ったのは「我が闘争」におけるヒトラーですが、コンプトンのウソはヒトラーよりも巧妙です。

 「本当のことを言わない」、というウソをつくのです。これは自分が「知見」において優位に立っていてはじめて可能なことです。

 たとえば暫定委員会の役割を次のように述べています。

・・・(私は)スティムソン陸軍長官が招集したグループの一員であり、そのグループは原爆の実験、使用、それに関連した取り扱いの計画策定において陸軍長官を補佐する役割をもっていた。」

 「そのグループ」とはとりもなおさず暫定委員会のことでしょう。ここでコンプトンは、暫定委員会の役割を「原爆の実験、使用、それに関連した事柄について陸軍長官を補佐する」ことだ、といっています。暫定委員会の実態はほぼこれから50年後に明らかになるのですが、この時点では一般アメリカ市民は何も知りうる立場にありませんでした。

 これを読んだ、また何も知らされていないアメリカ市民は、「暫定委員会は、対日戦争終結のため、原爆を日本に対して使用するか、しないか、またどのような形で使用するかについて、話し合ったのだ。」と思うでしょう。

実は、私自身が最初にこの暫定委員会の議事録を読んだ時、暫定委員会は日本に対する原爆投下に関する議論をしていたのだという思いこみが、あったため、その内容を見て、大いに面食らい原爆使用に関する部分以外は価値のない資料だと思った事もありました。)

 暫定委員会で「日本に対する原爆の使用」を話し合ったことは事実です。この限りではコンプトンはウソをついていません。しかし暫定委員会の役割は決して対日戦争終結のために、原爆のことを話し合うことではありませでした。


暫定委員会で話し合われたこと

 そもそも暫定委員会(the Interim Committee)という命名そのものが、この委員会の性格を浮き彫りにしています。これは、「あらたな発見である原子のエネルギーを取り扱うにあたって、戦争後、正式な機構ができるだろう。とりあえず戦時中の今は『暫定』としておこう」というのがその意味でした。

 決して日本への原爆使用だけを話し合う委員会でもなければ、ましてや対日戦争終結を議論する委員会でもありません。

 『暫定』“Interim”という言葉の中に、この委員会の役割が暗示されていたわけで、コンプトンは上記論文の中でも単に「そのグループ」というだけで、決して正式な委員会名称を、アメリカ市民の前に明らかにしませんでした。

 1945年5月31日といえば、ほぼ原爆実験のめどもつき、原爆の実戦使用がそろそろ日程に上ってくる頃でした。この日開催された暫定委員会で、陸軍長官であり、また暫定委員会の委員長のスティムソンは、その日の議題のポイントを次のように要約します。

 『スティムソン長官は以下のことを説明した。暫定委員会は長官自身が大統領の承認を得て指名したこと。そして委員会の役割は、(原子爆弾の)戦時暫定管理、公式声明、法制化、戦後機構などについて勧告を行うことである。

 委員会は暫定委員会(Interim committee)と名付けられているが、これはこの計画(*これは、核エネルギー産業拡大発展計画のことです。)がさらによく知られるようになると、議会によってなされるもっと恒久的な組織、あるいは必要な条約でなされる恒久的な組織にとって替わられることが期待できるからである。』

 この時点では、戦後の恒久的な組織はまだ構想の段階でしたが、戦争が終わるとすぐ、米原子力委員会が組織され(46年8月)、翌年47年には、マンハッタン計画が主要な人員ごと原子力委員会に移管され、原爆の製造・蓄積から水爆の開発へと一瀉千里に走っていきます。そしてそこでつけられた予算は年額に換算して、「マンハッタン計画」時の2・5倍から3・5倍という巨額なものでした。

 翌45年6月1日にも暫定委員会が開かれ、この日は、原爆開発に協力した産業人も招聘参加者として参加していましたが、この日の議題もスティムソンの冒頭発言から引用すると、

 『 開会に当たり、スティムソン長官は、戦争遂行における産業界の得難い貢献を称揚した。また長官は本日参加した産業人の人たちの特別な貢献に対して感謝すると共に、その貴重な見解を提出する目的で委員会に参集したことについても謝意を表明した。

 長官は委員会のメンバーを紹介した後、委員会は長官自身によって大統領の承認の下に設立されたこと、戦争期間中、この兵器(核兵器)の統御に関し、大統領になすべき勧告内容について陸軍長官とマーシャル将軍を支援することが目的であること、また戦後における統御組織に関する勧告に関する支援なども目的であることを説明した。

 長官はまた長官とマーシャル将軍の両方のグループ(*これは陸軍省のシビリアンと軍部の事を指します)が核エネルギーの分野における一連の発見が意味するところに関し、完全に認識を一にしていることも保証した。戦争中に必要となる即座の軍事的有用性をはるかにこえた潜在拡張力が第一の関心事であることについても認識している。この開発(*核エネルギー分野における開発)は人類の福祉にとって巨大な潜在力を持つと共に、この分野の統御を考える際には、その意味する所を考慮に入れなければならない。

 長官は、本日参集の産業人が国際関係における諸問題について何か意見を開陳して欲しい旨、表明した。また、国際協力の問題に関し何らかの意志決定をする際、最も重要な要素は、他諸国が合衆国に追いつくのにどれほどの時間がかかるかという問題であることを指摘した。』

 というようにこの日の重要議題の一つが、「ロシアが原爆を保有するのにどれくらいの時間がかかるか」を検討するのが大きなテーマでした。そしてロシアとの関係はどうあるべきかの議論の過程ののなかで、『日本に対する原爆の使用』問題が決定されていきます。

 ですから、コンプトンが「暫定委員会で原爆のことを話し合った」といえばそれはウソではないのですが、コンプトンが「暫定委員会」について語らなかったことと合わせて考えれば、この論文でアメリカの一般市民に誤った認識を与えている、有り体に言えばヒトラーよりも巧妙に大ウソをついていることになります。


原爆は『破壊の質』が異なる

 この「事実に触れないでウソをいう」論法は、随所に見られます。

 たとえば、原爆と「東京大空襲」を比較して原爆がより非人道的とはいえないとした部分があります。原爆と東京大空襲という全く違う「質」を比較するのもおかしなものですが、ともかく。

今通常爆弾と原爆との比較をしてみよう。広島では約8万人の人間が死んだ。』
長崎では、死者(*fatal casualties とコンプトンは記述している)は約4万5000人だった。 』
これを、東京で2回にわたっておこなわれた焼夷弾爆撃と比べてみよう。爆撃の1回は12万5000人が死んだ。もう1回は10万人近くが死んだ。』

 全然異なる『質』を単に死者という『量や数』に還元して比較するというのも科学的とはいえませんが、それより、人道性の観点から言えば、ここでコンプトンは「放射線」の影響について全く口をぬぐっています。

 放射線の影響について何も知らされていなかった一般アメリカ市民ならともかく、コンプトンが原爆の破壊力の大きな一つの要素が「放射線の影響」にあることを知らなかった筈はありません。自ら優秀な物理学者であり、元アメリカ物理学会の会長でもありました。

 原爆の非人道性は、その破壊の大きさにあるのではなく、破壊の『全然異なる質』にあることはコンプトン自身が一番よく知っていた筈です。しかし彼はこの点にはついては口をぬぐっています。

 もうひとつだけ、この論法の典型例を上げておきましょう。

 「原爆は第二次世界大戦終結のためにつかわれた。そしてその政策は正しかった」という命題を論証することを目的としたこの論文では、その白眉とも言うべきくだりです。

 事実はこうだ。1945年7月26日、ポツダム宣言が無条件降伏を宣告した。7月29日、鈴木(貫太郎)首相は内閣記者会見で、公式な降伏最後通告を価値のないものと嘲って、なおかつ日本は航空機生産に力点を置くとしたことを事実上の内容とした声明を発表した。その8日後の8月6日広島に最初の原爆が投下され、2番目の原爆が8月9日に長崎に落とされた。その翌日8月10日に日本は降伏の意志を表明した。そして8月14日にポツダム宣言を受け入れた。 』

 この『事実』を列挙したコンプトンの記述からは、巧妙に「ロシアの対日戦争参戦」の事実が省かれています。当時、「日本降伏」の決め手は、「ロシアの対日参戦」にあるとは、トルーマン政権の一致した見解でした。また「国体護持」(天皇制存続)を認めるか、認めないかが、「ソ連の対日参戦」と絡んで、日本の降伏を決定づける、という点でも認識は一致していました。

 コンプトンが知らないはずがありません。日本は、ポツダムでトルーマンが自身の日記にも書いている見通しのとおり、また6月18日ホワイトハウスで開かれた「対日戦争会議」で分析したとおり、ソ連が参戦して「降伏」するのです。その降伏を促進したのが、「天皇制存続」の日米暗黙の了解でした。

 原爆投下はその展開を早めただけです。

 しかし、コンプトンはその肝心な要因には触れずに、強引に「原爆が戦争を終わらせた。」という結論に持って行きます。

 もうこれ以上コンプトン論文に立ち入ることはやめましょう。話が前に行かなくなります。

 ここでは、コンプトン論文が、従って「原爆投下肯定論者」が、従って現在衣替えをした「核兵器保有肯定論者」が、従って「核兵器抑止論者」が、いかに保有情報量の誇示を背景に、詭弁を重ねながら、みずからの立場を正当化しているかを確認すれば十分でしょう。そしてその正当化の目的は全く別なところにあることも合わせて確認しておきたいものです。


「原爆は対日戦争終結のために使われた」が定着する過程

 話が単にコンプトン批判ならば、さほど害もないでしょう。

 しかしこうした批判は、当時の同時代資料を読み込んで、比較検討し、またその後の事実経過を合わせて分析する中で生まれてくるものです。何も知らされていない、もっといえば、言論統制化でトルーマン政権に都合のいい情報が一方的に流されている中で、生活に追われる一般アメリカ市民がコンプトン論文を批判しきることはおよそ不可能でした。信じる他はなかったのです。

 このコンプトン論文が出た翌年にはスティムソン論文がでます、そして引退後のトルーマン回想録が出ます。一方で冷戦という準戦時体制ができあがり、朝鮮戦争が始まります。アメリカのマスコミは「共産主義は敵、赤は追い出せ」の集団ヒステリアを演出していきます。

 こうして気がついた時は、「原爆は対日戦争のために使われた」という「ウソ」が世間の常識となっていき、アメリカは「核兵器開発」のために、年間20億ドルから25億ドルの巨額の予算を計上するようになっていきます。

 一方で、数々の事実を上げながら、「原爆投下は必要なかった」という学者が、研究者が現れます。アプルロヴィッツ、ダワー、バーンスタイン、ハセガワ、シャーウインといったところが代表的でしょうか?

 しかしこうした学者の研究も、結局「トルーマン政権は対日戦争終結のために原爆を使用した」という論点を出発点としているために、「原爆投下は必要だったか、そうでなかったか」という議論にならざるを得ません。


仮定に仮定を重ねる論法

 ところが原爆肯定論者の議論の立て方は、コンプトン論文を詳細に検討すれば判明するように、「仮定に仮定を重ねた上に、そこから得られる推測を事実として扱い、そこから一定の結論を導く」という論法になっています。なぜこうした詭弁論法をとらざるをえないかというと、事実を語らないためです。

 もし原爆を落とさなかったら、戦争は終わらなかった。11月に九州上陸作戦は実行されたろう。いやそうにちがいない。他に選択肢はなかったのだから。そうだとすれば、今までの作戦の経験から、損害は5万だったろう。いあ、そんなもんじゃない。10万だった。いや25万はいったろう。ばかいえ、100万は堅いところだ。

もしそうだとすれば、当然これに倍する日本軍の損害も出たろう。200万か?

しかし日本が戦場になるのだから、日本の一般市民も相当な被害が出たろう。

そうだとすれば、原爆投下は戦争を終結させたばかりでなく、100万のアメリカ人の命を救ったばかりでなく、数百万の日本人の命をも救ったことになるではないか?

「原爆は数百万の命を救った」』

 こうした議論に反論するためには、必然的に仮定に仮定を重ねなければなりません。こうした議論の行き着く先は「水掛け論」です。そして延々60年以上にもわたってこうした水掛け論が続いています。


「ピカは人が落とさにゃ、落ちてこん」

 事実は単純で、ソ連の参戦とそれを補足する形で「天皇制存続」の暗黙の了解ができていた、それで対日戦争が終結した。でも原爆は投下された。

 ですから、原爆投下と対日戦争終結の間には直接の因果関係はないと見るべきでしょう。しかし、やはり原爆は投下されたのです。
 
 以前広島の無名の被爆者のおばあさんのセリフを読んだことがありました。

ピカ(原爆のことです)は、山崩れたぁちがう。人が落とさにゃ、落ちてこん。」

 私には、「原爆投下不必要論者」の学者の長い論文よりも、このおばあさんの短い言葉の方がよほど真実を突いていると感じられます。

 人が落とすとすれば理由があります。その理由説明が仮定に仮定を重ねる詭弁論法だとすれば、真実は語られていない、と見るべきでしょう。

 今、ここでの大きな問題は、こうした詭弁論法が、「原爆投下肯定論」として、意外に世界で幅広く、また奥深い支持を得ていることです。

 私はこの支持をトルーマン政権中枢から発せられた意図的な「原爆投下肯定論」と区別して「心情的原爆投下支持」と呼ぶことにしています。その支持自体は、誤った歴史認識に基づく誤りだけれども、その「心情」はよく理解できるし、あえて時には共感すら覚えるという意味を含んでいます。

 アメリカの多くの市民は、今もなおこの「心情的原爆投下支持」論者であります。しかし、意図的な原爆投下肯定論者とは区別しなければなりません。

 しかし、この「心情的支持」は世界中に蔓延し、今日「核兵器廃絶」へ向けての「世界の市民の決意を鈍らせ、団結を妨げています。

 ですから、彼らの(あるいは私たちの中にある)心情的支持がどのようなものかは是非とも知っておかねばなりません。


2005年、BBCの小特集記事

 2005年、イギリスのBBCは、原爆投下60周年に際して、生き残った原爆投下チームの中から3人に直接インタビューをし「広島に原爆を落とした男たち」(The men who bombed Hiroshima)と題した、小さな特集を組みました。
この記事の日本語訳全文はhttp://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/509/the_men_
who_bombed_hiroshima.htm 
で読めますし、
原文はhttp://news.bbc.co.uk/go/pr/fr/-/1/hi/world/americas/
4718579.stm

で読むことができます。)

 3人の乗組員は、原爆投下機のエノラ・ゲイからセオドア・バン・カーク元大尉、同じくエノラ・ゲイのモリス・ジェプソン元少尉、それから爆発観察・計測を担当したグレート・アーチーストに乗り込んだ科学者のハロルド・アグニュー博士です。

 インタビューの2005年当時、カーク元大尉が84歳、ジェプソン元少尉が83歳、アグニュー博士が85歳ですから、1945年当時は逆算してみると、それぞれ24歳、23歳、25歳だったことになります。509混成航空群・司令官のポール・W・ティベッツ大佐自身、2007年なくなった時92歳でしたから、45年当時はやっと30歳だったことになります。

 みんな驚くほど若かったのです。

 エノラ・ゲイの航空士だった、カーク元大尉は、完璧にうまくいった自分の任務を説明した後、次のようにいいます。

われわれは広島を振り返ってみた。すでに巨大な白い雲ができており、4万2000フィート以上にも達していた。その下の地上の方はというと、厚い暗いほこりと破壊の跡しか見えなかった。熱い油を煮えたぎらせたポットみたいだった。

われわれは、計画通り爆発したことを喜んだ。そしてこのことが戦争にどんな影響を与えるかを後で話し合った。

われわれは終わるだろうと結論した。強情で薄ぼんやりした(日本の)指導者連中ですら、この後では降伏を拒否することはできないだろうと。」
 
 核攻撃士補( assistant weaponer)として原爆の自動爆発装置を担当していたジェプソン元少尉は次のようにいいます。

私の最後の仕事は、原爆格納庫に降りていって、原爆の周りをかにのように這っていって、その装置を装着することだった。そして原爆とは孤立している3つのテスト用の着火プラグを外して、3つの赤い発射プラグを装着した。

私の中の最も重要な考えは、これが爆裂し戦争が終わる、ということだった。

他の連中と違って、これは私の唯一の実戦経験だった。しかし私が心配していたたったひとつのポイントがこれだった。」

 二人とも、明らかに、広島への原爆投下が戦争を終結させる、と信じていました。


核兵器保有論者に成長したアグニュー博士

 3人目のハロルド・アグニュー博士になると、やや違うかもしれません。というのは、アグニュー博士は1970年から1979年まで、米原子力委員会及び米国エネルギー省の管轄下にあったロス・アラモス科学研究所の第三代目の所長(the Director-1945年当時のロバート・オッペンハイマーと同じ地位)となって、一連の地下核実験を指揮し、「核兵器保有正当化論者」に成長していくからです。
アグニューの経歴は、次の米ロス・アラモス国立研究所のサイトから知ることができます。
http://www.lanl.gov/history/people/agnew.shtml )

 また、ジョージ・ワシントン大学の、ソ連原爆開発の時のスパイ活動を研究しているサイトはアグニューのインタビュー記事をアーカイブしており、このインタビューで「1949年、ソ連が最初に核実験に成功した時、どのように思ったか」と聞かれたアグニューは「予想しており、大きな驚きはなかった。しかしわれわれはもう核兵器を独占してはいないのだとは思った。」と答えています。

 1949年といえば、ヒロシマの任務を終えたアグニューが、シカゴ大学へ戻ってエンリコ・フェルミの指導の下で研究を続けていた頃ではないかと思います。
なおこのインタビュー記事は、ジョージ・ワシントン大学の次のサイトで読むことができます。
http://www.gwu.edu/~nsarchiv/coldwar/interviews/
episode-8/agnew1.html

 アグニュー博士は、2005年のBBCの小特集で、次のように述べます。

その時の、私の正直な感情をいうと、彼ら(*日本人)はそれ(*原爆)に値した。私に関する限り、今日でもそう感じている。

人々は今振り返ってみて、一体何がそれ(*原爆)をもたらしたのか、考えて見ようとしない。パール・ハーバー、南京。戦争に置いては、罪のない民間人など一人もいない。誰もが何かをやっていた。戦争努力に貢献していた。爆弾を作っていた。

われわれのやったことは長い目で見れば多くの生命を救ったことだ。私はその一員だったことにずっと誇りを持っている。

戦争の後、私はシカゴ大学に戻って私の研究を続けた。そしてその後ロス・アラモスに再び入った。そこでは実際に所長にもなった。

現在アメリカが保有する核兵器の兵器敞の3/4は、ロス・アラモス研究所において、私の監督下で設計したものだ。それは私の遺産だ。」


ティベッツと藤平の隔たり

 この3人のインタビュー記事の後、この記事の執筆者BBCワシントン支局のマシュー・デイビス記者は、

エノラ・ゲイの乗組員“われわれは全く後悔していない”」

 との表題記事で、エノラ・ゲイ機長で509混成航空群の司令官だったポール・W・ティベッツJr.元准将のコメントを掲載しています。
ティベッツは退役時には准将でした。この記事の日本語訳
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/509/Enola_Gay_Crew
_have_no_regrets.htm
 で読むことができます。原文は
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/americas/4743061.stm )

 おそらくデイビス記者は、ティベッツに直接会えずに電話でインタビューしたものと思います。このコメント記事の中で、ティベッツは次のように述べています。

広島以来60年間、世界中の人たちからたくさんの手紙をもらった。その圧倒的多数は、15機のB−29、6機のC−54(*輸送機)、約1700名の人員からなる509混成航空群』に対する感謝の言葉だった。原爆を運び、戦争を終結に導いたことに対する感謝の言葉だ。」
アメリカの元軍人に加えて、私は、日本本土の自殺的防衛戦争をもたらすことを予測していた日本の元軍人や一般市民からも、感謝の気持ちを伝えられてきた。アメリカと連合国の共同した努力で、私たちは殺戮をとめることができたのだ。」
そこには後悔はない。私たちは今日世界にすんでいる多くの男女の人々のために働いたことを誇りに思っている。」

 これは、恐らくは、ティベッツの偽らざる気持ちであり、信念だったと思います。

 2007年、ティベッツが亡くなった時、AFP通信東京は、一人のヒバクシャのコメントを次のように伝えています。
『 日本被団協代表委員の藤平典(とうへい・のり)さん(79)さんは「米政府がいっている通りに、彼は原爆によって戦争が終わって、何百万ものアメリカ人と日本人の命を救ったとして謝っていない」と語る。

「でもわたしは彼に広島に行って自分の目で直接自分がしたことを1人の人間として見てほしかった」

「彼は軍人として命令に従ったということなのだと思うが、あれ(原爆投下)は過ちだったとして、亡くなった方や長く後遺症に苦しんでいる人に謝ってほしかった」 』
これは、http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2306184/
2306402
 )

 ティベッツと藤平というヒバクシャの間の隔たりは、いったいなんなのでしょうか? その間に60年以上の歳月が流れているのです。もう歴史的歳月と言っていいほどの時間です。

 河野議長、その間私たちはいったい何をしてきたのでしょうか?

 ティベッツと藤平との間の「隔たり」は、埋められるのでしょうか?埋められるとすれば、どうやって?

 その隔たりが埋められるものとすれば、その時、広島の平和記念碑の犠牲者は、自分の犠牲が無駄ではなかった、として安らかに眠れることでしょう。


「われわれには全く後悔はない」

 トルーマン政権中枢は、「日本への原爆」投下の真の目的を隠して、「原爆投下は対日戦争を終結させるためだ」とまず現場に説明していたと私は想像していますが、それにしても、ティベッツは自分の行為に誇りをもっていたことは疑いようがありません。

 この一連の記事で、エノラ・ゲイの3人の乗組員は、「われわれには全く後悔がない。」と題する共同声明を発表しています。

『 今年、2005年は、第二次世界大戦終結から60年目の年にあたります。1945の夏、連合軍やアメリカ軍に取って、不可避的な日本本土侵攻が、本当に大きな懸念となっておりました。

 トルーマン大統領はひとつの最後の要求を出しました。ひとつの最後のアピールでした。イギリスのチャーチル、ロシアのスターリンとともに、アメリカ合衆国の大統領は日本に、「すべての日本軍の無条件降伏」を宣言しました。さもなければ「日本には即座に完全な壊滅がある。」と主張しました。

 明白な軍事的状況を無視して、日本の首相鈴木貫太郎男爵は、降伏を拒否して次のような言葉を含む声明を発しました。

<それ(降伏の要求)を完全に無視する以外選択の道はない。そしてこの戦争の成功を目指して断固として戦う。>

 連合国にとって、あの時、この必要な行動の選択をしなければならなかったのは、確かに不幸なことでした。しかし、それ以外の選択はなかったのです。スティムソン陸軍長官はこう書いています。

< 原爆の使用の決定は、われわれの嫌でたまらないが、最低限度の決定だった。>

(* おそらくハーパーズ・マガジン・1947年2月号スティムソン論文「原爆使用の決断」からの引用と思われます。)

 ハリー・S・トルーマン大統領は原爆の使用(*to use the atomic bomb)の命令を承認しました。それは日本本土侵攻を避ける彼の希望、彼の決断だったのです。

 ウィンストン・チャーチルはこの決定に同意をしめして、次のように言っています。

< この広大であからさまな虐殺(日本本土侵攻のこと)を避け、戦争終結をもたらし、世界に平和を与え、痛めつけられた人々に癒しの手をさしのべるための2−3の爆発(*広島と長崎の原爆のこと)は、骨折りと災禍の過ぎた今となってみれば、軌跡の天の配剤と思える。>』

 この共同声明は、この手紙のはじめに見たコンプトンの論文やスティムソン署名論文のなぞりに過ぎません。しかし彼らの個人的見解や心情は紛れもなく、彼らのものなのです。

 「心情的原爆投下肯定論」がいかに意図的「原爆投下肯定論」に支えられているかがおわかりでしょう。


核抑止論の破綻と核先制攻撃論

 アメリカ市民に一般的な、「心情的原爆投下肯定論」をエノラ・ゲイ乗組員に代表させるのはいささか乱暴かもしれません。しかし、広島の平和資料館を訪れて、原爆の惨状に衝撃を受け、涙すら流しつつ「ヒバクシャ」の受けた被害に心から同情しながら、「それでも原爆投下は必要だった。」というアメリカ人女性市民も、大きく言えばこの共同声明に示された、「心情的原爆投下肯定論」なのです。

 もし「核兵器廃絶」の決め手が、世界の市民の「核兵器廃絶」への固い決意と合意にあるとするなら、核兵器廃絶への道は遠いと言わねばなりません。

 しかも、こうした「原爆投下肯定論者」は今や「核兵器保有正当論者」へと発展しており、「核兵器使用肯定論者」へと変貌を遂げるのではないかという危惧すら覚えます。

 さすがにアメリカの社会の上層に大ぴらにそれを唱える人たちはいませんが、現在のブッシュ政権が、「核の先制攻撃」の可能性を唱え始めていることに恐怖を覚えているのは私だけではないでしょう。

 いままで、核兵器保有肯定論者は「核兵器抑止論」を唱えてきました。ところが冷戦の終結とともに、核抑止論は破綻し、核兵器保有肯定論者は「核兵器先制攻撃論者」に衣替えしつつあります。

 「核抑止論」の論理からして、「核兵器先制攻撃」は導き出されません。

 「核抑止論」に関しては河野議長は良くご存じでしょうから、私の受け売りの説明などは笑止千万だろうとは存じます。ですからここは私の頭の整理のためと思ってお聞きください。

 核抑止論では、相互確証破壊戦略(*Mutual assured destruction)に代表されるように、相手国がはっきり分かっていて、もし相手国が核攻撃をしたいと考えても、自国が報復攻撃の姿勢を見せれば、相手国は報復攻撃を恐れて、核攻撃をしてこない、と説明しています。つまりもともと相互確証関係においてのみ有効な理論です。そして、この核抑止論は、だから核兵器を保有することは、相手国の核兵器の使用を抑止する効果をもち、その意味において「核兵器保有時代における平和理論」だと説明します。

 しかし、内容を良く検討すれば、この理論は説明しなければならない命題を使って説明の根拠とする、典型的な「先決問題解決の要求」を満たさない「同義反復」なのであります。そして必ず、「自国の安全のためには、核兵器を製造・貯蔵・配備しておかねばならない。」とする「核兵器保有正当化論」を結論とします。

 従って、「核抑止論」では先制攻撃はあり得ないのです。

 ところが、「冷戦構造」という準戦時体制が終わり今度は「対テロ戦争」という準戦時体制が構想されるようになると、困ったことがおきました。「核抑止論」が破綻してしまうのです。冷戦時代はそれぞれ仮想敵国を想定できました。つまり相互確証ができました。

 しかし「対テロ戦争」では、相互確証はできません。そもそも相手の身元確認ができないから「テロ」なのですから。相互確証できる相手なら、それはもうすでに仮想敵国、仮想敵グループなのです。

 すなわち「テロ戦争」という準戦時体制下では、核兵器保有・製造正当化理論としての核保有論は、破綻してしまったのです。

 それでは、相手がどこにいるか分からないテロ勢力に、どうやって「先制核兵器攻撃」をかけるのでしょうか?できません。従って「テロ支援国家」なるものを創作しなければなりませんでした。そうしてテロ支援地域、テロ支援国家に先制攻撃をかける、というのです。

 2006年1月フランスのシラク前大統領も、全く同じ趣旨から、テロ勢力に先制攻撃をかける可能性を示唆しました。もっともこの演説は良く読むと、最後には、「だから、核開発には予算をつけろ」という結論になります。
この演説の全文は
http://www.elysee.fr/elysee/elysee.fr/anglais/
speeches_and_documents/2006/speech_by_jacques_
chirac_president_of_the_french_republic_during_his_
visit_to_the_stategic_forces.38447.html 

で読めます。が、あまりにもつまらない内容です。
日本語訳は
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/shirac.htm

 こうした「核兵器保有論者」、「抑止論者」、「核兵器使用肯定論者」、「先制攻撃論者」の理論を根底で支えているのは、「ヒロシマの教訓」ではないでしょうか?

 すなわち、「原爆の使用は、短期的に見れば悲惨な状況を作り出す。しかし長い目で見れば、多くの人命を救う。」とするあの理論です。

 現在のところ、「ヒロシマ」「ナガサキ」の記憶と経験が、世界で唯一、真の「核兵器使用抑止力」となっております。その意味では、広島・長崎の「ヒバクシャ運動」の力は偉大と言わざるを得ません。

 しかし、地球に核兵器が存在する以上、いつその一線を越えるか、いや越えることはないと誰にも保証できません。

 ついつい話が先走ってしまいました。


「ヒロシマ・ナガサキ」は「第一次原子戦争」

 私がここで指摘したかったことは、アメリカ社会の上層では、さすがに「核兵器使用正当化論を大ぴらに主張する人はいませんが、底流ではどうでしょうか?

 英語版Wikipediaに「509作戦航空群」という項目があります。
日本語訳はhttp://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/509/509th_
operations_group.htm
、原文は
http://en.wikipedia.org/wiki/509th_Operations_Groupで読めます。)

 このサイトは見出し項目名こそ、「509作戦航空群」ですが、内容は60年以上も前の前身、広島・長崎に原爆を投下した「509混成航空群」に関する記述です。内容の的確さ、出典の明確さ、一次資料の豊富さ、使っている用語の的確さなど、「第509混成航空群の研究」とでも名付けたいほど優れた記述です。
 
 同時にこの記事の執筆グループについてもいろいろと推測のできる内容になっています。つまりこの記事の執筆グループは、509混成航空群関係の退役軍人グループあるいはそれを支持する研究者のグループではないか、ということです。

 この記事の最後の方に以下の記述があります。
 長崎ミッションの遂行中、509航空群の2機のB−29が、テニアンを離れウェントオーバー(*ユタ州。陸軍航空隊航空基地がありました。509混成航空群が編成されたもともとの場所でもあります。)に帰還した。航空群の副司令官でもあるクラーセン少佐はB−29「ルーク・ザ・スプーク」に乗って、B飛行中隊6名の乗務員、地上支援部隊員をともなって帰還したのである。これはさらなる原爆をテニアンに持って帰る局面に備えるためであった。しかし、プトニウム・コアは依然、「サイトY」にあった上、8月13日グローヴズ将軍は、原爆資材の出荷を停止する命令を出した。将軍の命令は三番目の爆弾がまさに出荷される直前にロス・アラモスに到着し間に合った。こうして「最初の原爆戦争」(The First Atomic War)は、8月6日にはじまり、8月15日まで9日間続いた。 』

 私は、この記事は「509グループ」によって書かれたと考えていますから、この部分を読んで衝撃を受けました。

 私は、「第二次世界大戦の終了時、広島と長崎に合計2個の爆弾が投下された。」と考えています。

 ところが彼らの見方は全く違うのです。

 すわなち、彼らは、「ヒロシマ」「ナガサキ」を「最初の核戦争」ととらえているのです。そしてその核戦争はヒロシマの45年8月6日にはじまって、日本がポツダム宣言受諾・降伏を発表した8月15日の間、9日間続いたと考えていること、これが彼らの歴史認識なのだ、と読み取った時に衝撃を覚えたのです。

 「第一次原子戦争は8月6日から8月15日までの9日間続いた。」と100年後の教科書にはかかれるのでしょうか?だとすれば第二次原子戦争はいつなのでしょうか?

 アメリカの底流には、間違いなく「アメリカに正義がある限り、ヒロシマ・ナガサキの教訓に従って、核兵器は使用すべきである。」とする勢力があります。

 そうした勢力が、2005年のスミソニアン博物館におけるエノラ・ゲイ展の展示設計変更を迫り、成功を収めたと考えることができるでしょう。

 安倍という日本の前の首相が、岸信介の亡霊に取り憑かれていたように、アメリカの原爆投下推進勢力はトルーマンの亡霊に取り憑かれているのです。



「心情的支持」の根拠は凶暴な天皇制軍国主義=日本型ファシズム

 こうした、アメリカ社会にある「心情的原爆肯定論」の背景にあるのが、太平洋戦争・日中戦争時における、凶暴な天皇制軍国主義(=日本型ファシズム)・侵略主義にあることはあまりにも明白です。

 いいえかえれば、凶暴な天皇制軍国主義・侵略主義が「心情的原爆投下肯定論」とセットになって、アメリカの市民社会の中に根強く、がっちりと定着しているのだと言うことになります。

 われわれ、日本の市民社会は、あの凶暴な天皇制軍国主義を克服し、批判しきったかという問題は当然出てくるわけですが、それは後で触れる機会があると思います。

 原爆投下に対する心情的支持は、凶暴な天皇制軍国主義の蹂躙にあった、中国、韓国をはじめとするアジア諸国の方が、アメリカ社会よりさらに幅広く、根強いのではないかと想像します。

 想像というのは判断する資料があまりに少ないからで、これは一度本格的な各国における世論調査を日本政府、あるいは国会の予算で実施してみては?と考える次第です。

 ただ以下のような、報道を見てみると、心情的な「原爆投下支持論者」は想像を越えて多いのではないかと存じます。

 2005年4月10日付朝鮮日報のキム・記者の「日本の若者も丸太を見たら驚愕」と題する731部隊博物館・王鵬館長インタビュー記事です。

 第2次世界大戦中、日本軍が残酷な生体実験を行った中国黒竜江省ハルビンの731部隊があった場所には今、博物館が建っている。中国はこの部隊が使った手術道具や生体実験のスライドフィルムなど約1,600点を発掘、1982年に建築した。この731部隊博物館の王鵬館長(45)が先日、訪韓した。今年8月から1年間、ソウルオリンピック公園をはじめ、全国を巡回して開かれる「731韓国巡回展示会」の準備のためだ(丸太:日本兵が「マルタ」と呼んだ捕虜で人体実験・生体実験を行った)。 』
 『  王館長は「約60年前に起きた戦争だがいつまでも覚えておかなければならない。そうすることで再び無惨な戦争が起きるのを避けられる」と話す。』
ハルビンの731部隊博物館には去年、約30万人の入場者が訪れた。「中でも日本人入場者は3万人にも達し、韓国人入場者2万人よりも多い」と王館長は言う。「博物館を訪れた日本人の若者たちは祖父の世代の人々がこうした無惨な行為を行なったという事実を目の当たりにし、驚愕(きょうがく)して帰ります」』
王館長は731博物館とその近辺を国連教育科学文化機構(ユネスコ)世界文化遺産に登録するため準備していると話す。「原爆が投下された広島の原爆ドームはすでに世界文化遺産に登録されている」と。 』
全文は次で日本語で読めます。http://www.chosunonline.com/article/20060510000033 )


『被害者の顔をする日本』という批判

 1995年、8月6日広島原爆50周年にはじめて、韓国KBSから特派員として広島にやってきたユ・スンジェ特派員は次のように本国へ向けて報告しました。

『 日本の広島では、今日原爆投下50周年にあたり、大々的に原爆犠牲者のための慰霊祭が行われました。

しかし、村山首相をはじめ政府要人がこぞって出席した今日の式典には、相変わらず過去の反省はおろか、歴史美化と自分たちの原爆被害のみに焦点を合わせた格好になりました。

 今日行われました日本人たちの式典内容は大きく二つに要約されます。

 第一に、原爆投下が非人間的な大量虐殺であったと強調し、第二は日本が唯一の被爆国家として何よりも平和を渇望していると言うことです。

 平和の鐘が鳴り響き、鳩が解き放たれ、子どもまでが平和を誓い合いますが、自責と反省の姿は一向に見られませんでした。
 
 今日の式典を見る限り、明らかに歴史の加害者であったはずの日本が、あたかも被害者であったかのように、見受けられます。
 
 原爆記念館を見て回っても、当時の日本軍部が最後まで抗戦を主張したと言う事実には一言も触れず、日本が被った惨い被害のみが強調されています。
 
 歴史の真実に背いたまま日本は戦後半世紀という歳月を送り、今また新しい半世紀を迎えようとしています。
 
 ただ今ご覧になりました広島追悼式典で確かめられたと思いますが、過去の歴史に対する反省をしない日本人の歴史認識によって敗戦50年が過ぎても真の戦後処理を通じた過去清算を未だに終わっていません。各国の被害者たちが日本政府を相手に補償請求を起こしていますが、日本政府は反省の兆しすら見せようとしていません 』

 河野議長、この手紙を書くために、今回広島の平和資料館を見て回りました。2年前とは違い、平和資料館では、広島原爆へ至るいきさつの中で、『南京大虐殺』、『朝鮮人強制労働』などに簡単にふれる様になりました。

 後でも見るように、このこと自体私は大きな進歩として評価したいと思います。

 しかし、「広島への原爆投下」と「日中戦争・太平洋戦争」との関係、原爆投下をめぐる近隣職国の人たちの思いと感情、原爆投下とその理由、など広島原爆をめぐる重要な社会・政治的諸問題については、ほとんど触れられていません。

 また被害の様相も、日本人中心の展示で、特に7万人に上る朝鮮人被害者の悲惨な状況、戦後朝鮮半島に引き上げた朝鮮人被爆者が、いまも援助と保護、補償の外にいること、などについても触れておりません。

 今時大戦で広島と長崎で被爆した朝鮮人こそ、最大の被害者でした。三重の被害者でした。第一、日本の植民地化による民族的被害を被りました。第二、青年達は強制連行による基本的人権侵害・奴隷労働の被害に遭い、若い女性たちは、旧日本軍性奴隷制度の標的とされ無惨な目に遭いました。第三、広島・長崎での被爆と被曝です。

 もし広島の平和記念資料館が、被爆者の惨状を世界の人に伝え、もって二度と核兵器の使用を許さないための「平和資料館」であるなら、朝鮮人被爆者こそもっとも悲惨な状況を体験したのではありませんか?



 将来は必ず変わると思いますが、現在の広島平和記念資料館は、原爆の投下を、依然、「アメリカによる日本への原爆攻撃」という視点に固定しています。したがって、日本人以外はどうしてもその視野からこぼれがちになります。

 スティムソンが45年9月、大統領に対して提出した「行動提言」の視点「フランクレポート」の視点、レオ・シラードが大統領宛に提出した「請願書」の視点、「私がマンハッタン計画に参加した目的は、原爆の実戦使用を食い止めるためだ。」というニールス・ボーアの視点、すなわち「原爆の出現は、人類史上の大きな問題である。原爆の出現によって、人類は破滅の危機に直面する。」という視点、この視点に立てば、広島への原爆投下は、「アメリカによる日本への原爆攻撃」などという生やさしいものではなく、「人類の人類による最初の核兵器攻撃」という視点が浮かび上がって参ります。

 こういう視点に立った時、先ほど紹介した英語Wikipediaの最後の記述、「1945年8月6から8月15日の9日間が、世界最初の原子戦争(第一次核兵器戦争)だった。」という見方が、核兵器保有論者からの見解だけに、一層生々しく、実感をもってわれわれに迫ってくるのです。
 
 この手紙の冒頭、私は、G8諸国は、世界の核兵器をほぼ独占している、というわかりきったことを申し上げました。その時、日本はアメリカの核の傘の下にいる、という、これまたわかりきった事も、もうし上げました。

 平和資料館の2階に上がると、戦後冷戦時における核軍拡競争のいきさつ、核実験の経過などが展示されています。その冒頭に、日本の「国是」とされる「非核三原則」が無批判に掲げられています。

 「核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませず」です。

 これを日本政府の「非核三原則」として定式化したのが、1968年、時の内閣総理大臣佐藤栄作です。彼のノーベル平和賞は、このことが受賞理由となりました。(釈迦に説法ですね。)

 またその2年前、時の外務省外務次官下田武三が、

日本などの非核保有国は、まず大国に核軍縮の履行を迫るべきであって、“他国の核のカサにはいりたい”などと言ったりすべきではない、と私は考えている。現在の日本は米国と安全保障条約を結んでいるが、日本はまだ米国の核のカサの中にはいってはいない。」

 と立派なことをいったので、「非核三原則」と「核の傘」の間の関係は矛盾なく整合すると、多くの日本人は安心したのでした。

ところが、実はすでに1960年、日米安保条約改定の時に、密約があり日本政府とアメリカとの間に、アメリカの日本領土内への核兵器持ち込みの権利を認めていました。これが有名な外務省密約機密漏洩事件と発展します。この時、すでに「非核三原則」は実質破綻していたことになります。)

 私はここの部分を、日本の支配層を代表する良心的な経済学者・都留重人の「日米安保解消への道」(岩波新書 1996年 第一刷)によって、書いています。

 その後、日本政府が「日本はアメリカの核の傘の下にいる」ことを公然と認めるようになりますが、「非核三原則」と「アメリカの核の傘」の間の矛盾は、長い間、問題視されてきませんでした。

 しかし問題視されてこなかったことと問題ではなかったこととは違います。

 都留に「非核三原則と核の傘にいることは矛盾する」といわれてみれば、なるほどそうだ、といわざるを得ません。

 「核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず(これも実はウソだったわけですが)」どころか、われわれは、核の傘の中にどっぷり漬かっているのです。

 「非核三原則」はアメリカの核の傘の中で「絞殺死」しています。

 平和記念資料館はこうした、核兵器廃絶をめぐる基本的事柄にも、依然盲目的でした。

 私は、平和記念資料館を一方的に非難しようとは思いません。広島平和記念資料館の見識のなさは、われわれ広島市民の見識のなさでもあるのです。

その見識のなさが、そのまま平和資料館の展示に表れているというに過ぎません。それはまたそのまま、この手紙の次のテーマになります。

 河野議長、せっかく広島で開かれるG8議長サミットです。下院議長といえば、近代民主主義革命が獲得したもっとも貴重な財産である「国民会議」の代表です。「原爆」の人類史的意味も合わせて話し合ってほしいな、と思います。

 政治とは一面現実の利害調整です。しかし、それは洞爺湖でやってもらいましょう。生臭いのが揃います。

 政治とは一面理想でもあります。戦後ある良心的な保守政治家が、たしか「政治とは倫理の近似値をもとめる作業である。」ということを言ったと記憶しています。(誰でしたか?お父さんではありませんね、これは確実です。)

 核兵器廃絶をめぐって、広島で、その現実的な倫理の近似値を求めるとしたら、どんな政策提言がでてくるでしょうか? 


(以下次回)