(2011.7.4) 
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ 
<参考資料>ECRR勧告:欧州放射線リスク委員会 第4章「放射線リスクと倫理原理」
放射能汚染は普遍的な人道犯罪−(上)
   
 90年代以降のゲノム研究

 欧州放射線員会(ECRR)2010勧告の第4章(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/pdf/ecrr2010_chap1_5.pdf>)は「放射線リスクと倫理原理」(Radiation risk and ethical principles)と題されている。
(英語原文は以下、<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/pdf/ECRR_2010_recommendations
_of_the_european_committee_on_radiation_risk.pdf
>)


 この章はICRPとECRRの哲学的・思想的背景に言及している点で特異な、しかし非常に興味深い内容になっている。

 『  放射性物質の環境への放出が生態系の汚染をもたらしている。環境中にあるその放射性物質がもたらす内部放射線被ばくと外部放射線とが、細胞に損傷を引き起こしている。

 ゲノム不安定性(genomic instability)とバイスタンダー信号伝達(bystander signaling)に関する最近の研究は、このような被ばくによって、放射線飛跡が1本通過した全ての体幹細胞が、または、そのような生殖幹細胞のおよそ3分の1が、死んでしまうか、あるいは突然変異を起こすことを明らかにしている。これがもたらす大きな衝撃的結果は、これらの照射された細胞の子孫のわずかな部分がガン細胞となり、その個体を死に至らしめる可能性があるということである。別の結果としては、その組織における全般的な細胞の喪失によって、特異的健康障害と一般的な健康障害の両方をもたらすであろうということがあるだろう。
 
 第三番目としては、細菌に見られるこれらの効果は、被ばくした個体に限定されてはおらず、次世代に受け継がれることが可能であることが確認されている。』

 これがこの章の書き出しである。

 環境に放出された放射能(放射性物質)は例えそれがどんなに微量であろうとも、確実に生体の(人間だけとは限らない。すべての生きとし生けるものに対して。)細胞を損傷させる。

 1990年代以降、「ヒトゲノム」の研究は驚異的な進歩を遂げた。

 『  古典的遺伝学の立場からは、二倍体生物におけるゲノムは生殖細胞に含まれる染色体もしくは遺伝子全体を指し、このため体細胞には2組のゲノムが存在すると考える。』
日本語Wikipedia「ゲノム」

 ここで長足の進歩を遂げた、というのはこうした古典遺伝学の立場ではなく、ゲノムを分子レベルあるいは細胞レベルで明らかにしていこうと研究のことである。

 『  分子生物学の立場からは、すべての生物を一元的に扱いたいという考えのもと、ゲノムはある生物のもつ全ての遺伝情報としている。 ゲノムには、タンパク質のアミノ酸配列をコードするコーディング領域と、それ以外のいわゆるノンコーディング領域に大別される。ゲノム配列解読当初、ノンコーディング領域については、その一部が遺伝子発現調節等に関与することが知られていたものの、大部分は意味をもたないものと考えられ、ジャンクDNAとも呼ばれていた。現在では、遺伝子発現調節のほか、RNA遺伝子などの生体機能に必須の情報が、この領域に多く含まれることが明らかにされてきている。』(同「ゲノム」)

 ヒトゲノムに関していうと、1990年に国際的「ヒトゲノム計画」がスタートし、2003年に完成版が発表され、ヒトゲノムのほぼすべての塩基配列が明らかになった。

 『  このプロジェクトは1990年に米国のエネルギー省と厚生省によって30億ドルの予算が組まれて発足し、15年間での完了が計画されていた。発足後、プロジェクトは国際的協力の拡大と、ゲノム科学の進歩(特に配列解析技術)、及びコンピュータ関連技術の大幅な進歩により、ゲノムの下書き版(ドラフトとも呼ばれる)を2000年に完成した。このアナウンスは2000年6月26日、ビル・クリントン米国大統領とトニー・ブレア英国首相によってなされた。これは予定より2年早い完成であった。完全・高品質なゲノムの完成に向けて作業が継続されて、2003年4月14日には完成版が公開された。そこにはヒトの全遺伝子の99%の配列が99.99%の正確さで含まれるとされている。』(日本語Wikipedia「ゲノム解析」)

 しかし、これはゲノムに含まれる遺伝情報とその働きが明らかになった、ということではない。単にゲノムの中の遺伝情報の「住所」が特定された、というに過ぎない。遺伝情報は、細胞に含まれる分子レベルのタンパク質(遺伝子)が直接には媒介しているが、その機能は極めて複雑かつダイナミック(動的)で、1つが解明されるとその10倍の新たな疑問が発生するという状況で、今全世界の医科学研究者たちが、一つ一つの動的な遺伝子間の働きを解明しようと競い合っている状況といっても過言ではない。


 ゲノムの不安定性

 こうした研究の中から「ゲノムの不安定性」という性質が明らかになった。「ゲノムの不安定性」とは、遺伝子の中の「塩基配列」が不安定、という意味が1つ。塩基配列が変化してしまうのだ。塩基配列が変化するということはすなわち遺伝子異常である。これは「がん」の発生原因となりうる。

 2つめには「染色体」の構造や数が不安定と云う意味でもある。染色体とは遺伝子情報をになう生体物質である。いわば遺伝子の「容れもの」、「家」みたいなものである。その構造や数までも変化してしまうというのだから、これも「がん」の原因になりうる。

  左のイラストは細胞の中の染色体(Chromosom)。染色体の中にDNA分子が格納されている。『染色体は非常に長いDNA分子がヒストンなどのタンパク質に巻き付きながら折り畳まれた構造体である。真核生物では核内に保持されている。』と日本語Wikipedia「染色体」は説明している。


 バイスタンダー効果

 バイスタンダー信号伝達は、「バイスタンダー効果」とも呼ばれている。

 『  直接照射を受けていない細胞において、直接照射を受けた細胞で見られる放射線影響が誘導される現象であり、その原因の一つとしてバイスタンダー効果が注目されている。このメカニズムは、照射を受けた細胞から何らかのシグナルが発生し、それが非照射(バイスタンダー)細胞に伝わることによって照射影響が発現することによると考えられた。・・・しかしながら低線量照射によって誘導されるバイスタンダー効果の液性因子を介するシグナル伝達機構は、未だ詳細には解明されていない。』
(「NMCC共同利用研究成果報文集16<2009>」の中の「低線量放射線照射によるバイスタンダー効果誘導機構の解析」)

 バイスタンダーとは「同伴者」、「傍観者」という意味である。この場合は低線量で放射線照射(被曝)を受けた細胞が「当事者」、そのとなりの照射を受けていない細胞が傍観者(バイスタンダー)である。放射線照射を受けた細胞の染色体が損傷を受け細胞異常を起こすのなら納得するが、その隣の傍観者までが細胞異常を起こすというのである。これが「バイスタンダー効果」だ。この原因は細胞間の信号伝達にあるという。つまり細胞間は常にコミュニケーションをしている。このコミュニケーションの過程で損傷を受けた細胞が、誤った信号を発信しており、その誤った信号に誘導されてバイスタンダー細胞までが異常を起こす現象で、これは発生は確認されているが、そのシグナル伝達の構造そのものはまだ解明されていない、というのがこの論文の骨子だ。

 体幹細胞は、体の中にある分化前の細胞のことで、それぞれ分化して特定の器官や組織になっていく。たとえば造血幹細胞・神経幹細胞・皮膚幹細胞などがそうである。何にでもなることの出来る幹細胞が万能幹細胞である。

 冒頭、引用した第4章の最初の記述は、放射線のたった1本の飛跡が体幹細胞や生殖幹細胞を死滅させるかあるいは突然変異(細胞異常)を起こさせることがわかってきた、と云う記述である。

 放射性物質は放射線を出している。その放射線の飛んだ跡を「飛跡」と呼んでいる。たとえば次の写真は、肺臓器に付着したプルトニウム酸化物から発せられる放射線の飛跡である。プルトニウム酸化物は常に放射線を出し続けているので、その飛跡は1本ではなく、写真のように星形に無数の飛跡になる。典型的に慢性内部被曝の状況である。このプルトニウム酸化物の大きさは2ミクロン(100万分の2m、あるいは1000分の2ミリメートル)である。



上の写真は、ECRR2003年勧告の表紙に掲載されていたものをコピー
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/pdf/ECRR2003_00-04.pdf>)


 人間偏重主義=ヒューマン・ショービニズム

 ECRR2010年勧告の第4章の問題提起は、これらゲノム研究の結果、わずかとも言える放射線の大気中への放出が人間の体に深刻な影響をもたらすことがわかってきているのになぜ、原子力産業はその操業をやめないのか、あるいは私たちはなぜやめさせないのか、その思想的背景を検討してみようと云うところにある。

 原子力産業を支える思想的背景の1つは西洋近代合理主義思想が資本主義の発達とともに産み出してきたヒューマン・ショービニズムにある、とECRRは云う。

 ショービニズム(chauvinism)とはいったい何だろうか?今手元にある辞書(研究社英和大辞典第6版)によって調べてみよう。

 『  1.盲目的愛国心、狂信的排外主義 2.(自分の属する集団、種族になどへの極端な一辺倒。 “男性優位主義”など』(同p427)

 だから「ヒューマン・ショービニズム」は、「人間優位主義」とか、あるいは原義に立ち返っていうなら「狂信的人間主義」とでも訳したいところだが、ここは翻訳者に従って「人間偏重主義」としておく。

 「人間は万物の尺度である」といったのは、古代ギリシャの哲学者プロタゴラスだが、人間が万物の尺度であることは間違いないにしても、それはあくまで「人間にとって」という但し書きつきである。この思想はヨーロッパ・ルネッサンスに受け継がれ人間主義(ヒューマニズム思想)が生まれた。ただしそれは人間性への抑圧思想として機能する中世的教会神学に対してであって、あくまで人間社会の中では正しい考え方であるが、地球や人間を含めた自然社会の中でも、そうかというとそうでもなくなる。本来人間は自然世界の一部であり、「人間主義」を自然世界全体に外延することは出来ないはずである。


 西洋思想の底に人間偏重主義

 そのことを「ルートレイ・アンド・ルートレイ」(「Routley and Routley」。これがいったいどの種の本なのか、あるいは人の名前なのか私にはさっぱりわからない。)と云う本を引用しながら、次のように云う。

 『 ほとんどのショービニズム(chauvinism)の形態が破棄された我々のこの啓発された代において、少なくとも理論上は、自分自身を進歩的だと考える人たちによって、西洋倫理学はいまだショービニズムの基本的な形式のひとつ、すなわち人間偏重主義を心の奥底では保持しているようである。よく知られた西洋思想とほとんどの西洋倫理理論との両者は、価値と道徳性との両方がともに、人類の利益と関心の問題に究極においては還元されうると仮定している。』

 男性優位主義(男尊女卑)にしろ、白人至上主義にしろ、人権思想と民主主義思想の普及した現在においては、少なくとも表面的にはほとんどの「ショービニズム」は放逐されたかに見える。しかし西洋近代合理主義思想の根底には「ヒューマン・ショービニズム」が今なお脈々と流れている。

 その思想に置いては、すべての価値体系と道徳観念が「人間中心」にできあがっていて、全ての利益は人間の利益に還元されて考えられ、だれもそのことに疑問を持たない。

 しかし、自然世界にとって「万物の尺度は人間」ではない。自然界にとって万物の尺度は「調和の取れた自然そのもの」である。

 人間中心主義は、19世紀以降急速に発展した資本主義と分かちがたく結びついて、すべての価値が人間にとっての利益に還元されることになった。そしてその利益は必ず価格の形で表現されることになった。ここで価値と価格の倒錯現象が起きる。

 価格は本来に価値に基づいて決定される筈だが、倒錯現象が起きた後では、価格がつかないものは価値がないものとみなされる。たとえば放射能に汚染されていない空気は、なにものにも代え難い“価値”を持つはずだが、価格がつかない故に無価値とみなされる。福島の海は、日本にとって、とりわけ福島県人にとって大切な財産だったが、価格で表現できない故にそれは価値のないものとみなされる。(福島の海が価値の高いものだと考えたとしたら、わずかばかりの交付金に目が眩んで原子力発電所をつくること、そこから“限度内”の放射能汚染水を海に流すことなど福島の誰も容認しなかっただろう。)

 こうして資本主義と分かちがたく結びついた人間中心主義は、簡単に「ヒューマン・ショービニズム」へと転化してしまう。

 ECRRは現在のICRPによる被曝限度の規制指針はそのようなヒューマン・ショービニズムの典型的な実例だ、という。

 『  ヒトよりも、全ての野生動物と大部分の家畜動物の方がより多くの時間を野外で過ごしている。したがって放射線により多く被ばくしているにもかかわらず、そのモデルは全てにおいてヒトの被ばく線量を定めるように設計されている。』

 そして「環境」にはそれ自体の道徳的地位(moral standing)があり、人間の功利(human utility)に優先させてそうした環境それ自体の地位を尊重しようとする傾向が出てきていることに注目している、とも述べている。

 そしてこのような考え方、自然に対して非人間中心主義的な考え方は、西洋合理主義よりはるかに合理的な考え方なのかも知れない、と述べその思想は西洋よりも東洋の哲学的、宗教的体系の中に見いだせる、と述べている。

 西洋近代合理主義が生んだ非合理、「人間偏重主義」が原発の哲学的背景のひとつである。

 功利主義の非合理

 私は読んでいないが、ICRP1990年勧告第101節に次のような記述があるという。

 『  人間の活動に関係するほとんどの決定は、費用や損失に対する便益(benefits)のバランスというある暗黙の形式に基づいており、ある一連の行為や活動が有益であるか、そうでないかという結論が導かれている。これほど一般的でないが、ある行為の実施は個人あるいは社会に対する正味の便益を最大にするように調整されるべきだということもまた認識されている。

 … 便益と損害(detriments)とがその集団(population)の中で同じ分布(distribution)になっていない場合には、何らかの不公平に必ずつながることになる。甚だしい不公平は個々人の防護に注意を払うことによって回避することが可能である。多く現在の行為が、将来において、時には遠い将来において受けることになる被ばく線量の上昇を生み出しているということもまた認識されなければならない。これら将来の被ばく線量は集団と個人の両方の防護において考慮されるべきである。』

 なんともわかりにくい文章だが、ICRPの1つの思想を表現した記述であろう。人間の意志決定の背後には、暗黙に費用対便益、あるいは損失対便益の計算が働いている、そしてその便益は社会全体で最大になるよう調整されるべきだということも共通認識だ、ということになる。

 ICRPは原発容認派というよりも推進派だから、原発に即して云えば、原発はいくらかの放射能を放出する、そのためにあるいは健康に障害が出てくる人もいるかもしれない(少数の不利益)、しかしそのために受け取る社会全体の便益(原発が産み出す電気エネルギー)が大きければ、社会全体の便益の最大化が優先されるべきだ、という考え方になる。

 しかし、社会の構成員全体が等しく便益や損害を受けなかった場合、そこに不公平が生ずる。こうした不公平(具体的には放射線による健康障害のことだが)が生じないように、十分な防護態勢が、個人および集団に対して取られるべきだ、とICRPの1990年勧告は記述している。


 ICRPの思想的源泉

 この記述を引用しているECRR2010年勧告は、次のようにコメントしている。 

 『  上に引用した第101 節は、そのICRP の倫理的な考え方の由来を暗黙裏に確認している。それは功利主義的伝統に固く根ざしているようである。そのような哲学的基礎からもたらされる意志決定の方法は、必然的に費用−便益分析の方法である。ICRP のメンバーは、そのような道徳的立場が一般的に受け入れられており、おそらく倫理的指針の唯一の源泉であると明確に仮定している。』

 「ICRPの思想的源泉の1つは、功利主義である。」 これこそがECRRの科学者たちがICRPを批判してやまない最大のポイントである。

 「功利主義」(Utilitarianism)と聞くと、ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham)の名前を思い出す。

 『  ベンサムは法や社会の改革を多く提案しただけでなく、改革の根底に据えられるべき道徳的原理を考案した。「快楽や幸福をもたらす行為が善である」というベンサムの哲学は功利主義と呼ばれる。ベンサムは、正しい行為や政策とは「最大多数の最大幸福」(the greatest happiness for the greatest number)をもたらすものであると論じた。 「最大多数の最大幸福」とは、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という意味である。しかし彼は後に、「最大多数」という要件を落として「最大幸福原理」(the greatest happiness principle)と彼が呼ぶものを採用した。ベンサムはまた、幸福計算と呼ばれる手続きを提案した。これは、ある行為がもたらす快楽の量を計算することによって、その行為の善悪の程度を決定するものである。功利主義は、ベンサムの門弟であるジョン・ステュアート・ミルによって、修正され拡張された。』
(日本語Wikipedia「ジェレミ・ベンサム」)

 ベンサムの功利主義はジョン・ミルの修整を加えて、政治の世界、行政の世界に大きな影響を与えた。驚くべきことに今日でもベンサム流の功利主義思想で政策の正当化が行われている。

 たとえば九州のある場所にダムが必要だと誰かが主張するとする。(たいていの場合そのダム建設で利益を受ける集団からなされる主張だが)一方でそのダム建設のために不利益を被る集団や個人がいる。たとえば永年住み慣れた住居や生活の母体である田畑や山林が水没する地域の人々がそうだろう。するとダム建設を推進する人たちは「公共の福祉、全体の利益のために我慢してくれ。十分な補償をするから」と説得する。多くはこの説得を受け入れるが、中には金はいらない、移りたくないと主張する人が現れる。すると行政側は「功利主義的政策思想」で法制化を行い、公権力で移転を強制する。また政治モラル上も「功利主義思想」が正当化する。

 (なお、ECRR2010勧告の日本語訳者は、moralを「道徳」と置き換えているが、またそうするしかないのであるが、道徳と云う日本語は、徳目の列挙という意味合いで使われることもあるので、私には異和感がある。そこで「モラル」とカタカナ語で表記する。)

 ベンサム流の功利主義思想は意外に根深く現代社会の政治思想に取り入れられているのだ。

 この退屈な一文をここまで読まれた方があるとするなら、すぐさま現在の首相菅直人が、首相就任直後「最少不幸原理社会」を提唱したことを思い出される方も多いと思う。菅直人は「不幸な人が一人でも少ない社会」を提唱した。このスローガンの後ろ向きな響きとともに、一抹の胡散臭さを感じたのは私一人ではあるまい。

 菅直人はベンサムの功利主義を裏返した「政治」を表現したに過ぎない。問題は最大か最小か、不幸か幸福かを問題にするのではなく(不幸か幸福かはその人が決める)、それを乗り越えた政治思想、すなわち「一人一人の人間の尊厳を最重要視する社会」「人間の生存権を最重要視する社会」を提唱すればよかったのだ。菅直人には思いもつかないのかも知れないが・・・。それはともかく。


 功利主義の落とし穴

  ECRRは次のように云う。

 『 それがそこに言う幸福の配分については、何も述べていないことをしっかりと把握しておくことが重要である。・・・それの関心は、平均において幸福を最大にすることである。これは核汚染に関する倫理学上の議論という文脈において興味深い。そこでは、公衆に与える被ばく線量もまた平均において考えられており、それは本報告の別の箇所で明らかにしている健康−リスクモデルに多くの不確さをもたらしているものである。したがって、それらの平均的な幸福の計算が政策に転換される政策メカニズムには、すなわち費用−便益分析には、この章の後半で探求される実際問題と同様な根本的な哲学的問題がある。』

 功利(Utility)とは、幸福の総量を最大化することである。しかし最大化した幸福の配分については何も述べていない。関心がない。

 もしベンサムが、18世紀最後半から19世紀初頭にかけてのイギリスの富豪階級(支配階級)に生まれていなかったら、「最大多数の最大幸福」などとは決して言い出さなかったであろう。彼の階級は最大幸福の恩恵を常に最大に受け取る立場だった。だから「最大多数の最大幸福」社会のなかで幸福の配分がもっとも少ない立場、場合によってはそのために生ずるかも知れない「少数犠牲者」の立場に自分が立たされるなどとは夢にも思わなかったにちがいない。まさに「存在は意識を決定する」である。

 原発のために生ずる核汚染、これは事故を起こすから核汚染に至るのではない。原発は常に正常運転の範囲でも、放射能を出し続けている。それはICRPのいう「規制限度内」の放射性物質である。しかしこれは安全なレベルの放射能という意味ではない。ICRP自身、「被曝量に安全値はない」と云っているのだから。従って安全という意味では「規制限度内」の放射線物質放出は常に「グレイゾーン」に位置することになる。また従って、ICRPの基準に従っても、正常運転の範囲で放出される放射能は核汚染と表現して構わないことになる。

 原発のために生ずる核汚染をいかに正当化するか?

 ここで登場するのが「功利主義思想」である。原発は厖大な電気エネルギーを創造する。これは社会全体に厖大な恩恵(最大幸福)をもたらす。この恩恵の前には正常運転中に発生する「核汚染」はものの数ではないし、仮にその「核汚染」にために放射線障害を受ける人があっても、全体の幸福の前には無視できるわずかな「不幸」である。


 『  功利主義的計算の欠点は、それが多くの市民にとって道徳的に不快な結果をもたらすということである・・・。例えば、ほとんどの市民は、早産児が死んでしまうのを容認することは、我慢ならないほど冷淡なことであると考えであろう。・・・このように市民は、「純粋な功利主義は、モラル思考の本質的な要素を消し去っている」と、生命倫理の分野での討論において主張した、アン・マクリーン(Anne Maclean)の結論に明らかに賛同することだろう(1993)。

 (イギリス)政府の文書を熟読すると、平均的な幸福への配慮は、確かに個々人の権利より優先されがちであることは明らかである。例えば、ゴミ埋め立て場の近くに住むことの健康に対する有害な影響について記している最近のある報告は、ゴミ埋め立て場に隣接していることと関連することが示されてきている実際に障害を持って産まれた子供達の人数が少なかったということに基づいて、その報告者自身によって軽視された。これは功利主義の計算の論理に沿っているけれども、我々のモラル感情にはそれは受け入れがたい。その結果として、南ウェールズのナント・イ・グヴィデン(Nant-y-Gwyddon)丘近郊の先天性奇形の発生群には全国的抗議がわき起こった。

  功利主義は、エネルギー源から得られる社会的利益や国防兵器のためのプルトニウムと引き替えに、核施設付近にすむ子供たちの白血病による死を許容する。何百万の家庭で電気の炎で得られた温もりは、原子力施設の風下に住む女性たちの乳がんと相殺できるのである。功利主義は、政策立案者には魅力的に見えるかもしれないが、それは市民のモラル感情には従っていない。』

 『  功利主義は、暗黙裏にあるいは明示的に、倫理学のねぐらを支配し、英国及び他の場所で一世紀もの間にわたって、政策立案の哲学的基礎になってきている。合衆国におけるその(功利主義の)人気は、権利の概念に基づく新しい倫理体系の人気の増大によって、堀りくずされている。もしも功利主義が、権利を福利(the good)に従属させることと特徴づけてよいとすると、権利に基づく理論は、それとは対照的に、福利が常に権利に従属するように保持することと考えられるだろう。

 この理論は、政策立案一般に対して、特に民生原子力計画に対して、広範な影響を及ぼすことになる。そのような理論の出発点は、共同体全体のより大きな福利のためならば、どのような所与の個々人の幸福であっても犠牲にする、功利主義の平均化原理を拒否することである。』


 功利主義を乗り越える思想

  功利主義の平均化原理を拒否する、とはいったいどうすることか?それは功利主義の対立概念を思い描いてみるといい。

 功利主義の対立概念とは人間個々の尊厳に基づく基本的人権を主張すること、権利主義に他ならない。

 福島の子供たちに即して云えば、福島の子供たちには安全に生活できる、そうしてまっとうな教育を受ける権利がある。この権利は日本国憲法に照らしてみれば、個人個人が有するそれこそ「神聖にして侵すべからざる権利」である。福島の子供たちは放射能の危険に曝されていると同時に彼らの基本的人権が侵されている。福島の子供たちにとって功利主義の平均化概念など何の意味も持たない。

 2010年のECRRも次のように述べる。

 『 権利に基づく理論は、それぞれの人間は個人としての侵すことのできない権利を持っており、国家はその個人の明白な許可を得たときのみこれらを無視することが許される、と主張する。』

 そして、 アメリカの憲法学者で哲学者のロナルド・ドゥオーキン(Ronald Dworkin)の『権利論(Taking Rights Seriously)』(1977)の一節を引用して次のように述べる。

 『 相対的に重要な権利の侵害は、極めて重大な事柄として扱わなければならない。それは人を人間未満として扱うことを意味しているのである。・・・国家は一般的な福利という想定された理由のために切り縮められるようなものとして市民の権利を定義してはならない。』

 再び福島の子供たちに即していえば、彼らは放射能の危険に曝されていると同時に、そしてそれ故に彼らの基本的人権は日本国政府の名において侵されているという認識が極めて重要になる。彼らの基本的人権を守ることは私たち市民の基本的人権を守ることと同義である。

 『 我々は、国連の世界人権宣言の中に、放射能で汚染されないための個人の権利についてのより一層明確な声明を見つけることができるであろう。その第3条は次のように述べている:「すべての者は、生命、自由及び、身体の安全についての権利を有する(Everyone has the right to life, liberty and the security of the person.)

 『 権利から展望する観点からすれば、原子力産業が合法的に営業を続けるためには、潜在的に汚染されているかもしれない全ての人々に、そのような原子力プロセスによる彼らの健康に対する本当のリスクが正確に知らされなければならず、そのプロセスを継続することに同意を得なければならなくなるであろう。』

 原子力産業は、「原子力プロセスによる彼らの健康に対する本当のリスク」を正直に告げた上で、その同意を得なければならない。彼らは正直に告げるどころか、「原発は安全だ」と言い続けてきた。しかし事故を起こさなくても原発は放射性物質を放出し続けている。そのことのリスクを正しく私たちは告げられてこなかった。


 ジョン・ロールズの「無知のヴェール」

  自身の政治哲学を「無知のヴェール」(veil of ignorance)というコンセプトを使って説明したのは、アメリカの政治哲学者、ジョン・ロールズ(John Rawls)だそうである。
 
 ロールズの中心的な関心事は「冨の配分」にあった。しかし一般大衆に「無知のヴェール」をかぶせたまま、「富の配分」を行うことは不正義であると彼は主張した。その意味で十分に知らされていることは(すなわち無知のヴェールを剥ぎ取ることは)、個人の権利を守る大前提になる。従って十分にその問題について理解し、知らされていることは「個人の権利」を守る大前提となる。そうしてロールズはその上で次のように主張しているそうだ。
 
 『  各個人は、たとえ全体としての社会福祉でさえも優先させることができない、正義に基づく不可侵性を所有している。(Rawls,1971: 3)』

 そしてこのロールズの言葉を踏まえた上でECRRは次のように断定する。

 『  現代国家の市民は、核廃棄物の日常的な放出によって彼らの身体が汚染されることに決して同意してきていない。(また、そのようなプロセスが日常ベースで生じていることに気づきすらしていないだろう)。そのような放射能放出は、権利に基づく理論によれば、不道徳以外のなにものでもない。』

 そしてICRPの主張はこうした社会的反モラルの上に成立していることを私たちは片時も忘れるべきでない。

 (「低線量の被曝は健康に害があると確認出来ていない。」というのがICRPの言い分だ。しかし「放射線被曝に安全値はない。」という彼らの主張と合わせて考えてみると、健康に害がないと確認できるまでは、低線量の被曝は危険である、とするのがモラルにかなった態度だ。「確認できていない」からある一定量の放射線放出を認めるのは反モラルの態度である。しかも「確認出来ていない」のは「確認したくない」からであり、目を見開いて見れば確認すべき、少なくとも考慮に値すべき事実がいくらでも転がっていることを考え合わせれば、ICRPの態度は反モラルを通り越して犯罪的ですらある。)

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