(2010.7.18)
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ
トルーマン政権、日本への原爆使用に関する一考察

8.対日原爆使用の政策意図−陸軍長官声明から読み取れること

「対ソ冷戦説」と「実戦実験説」

 1945年8月、トルーマン政権が日本に対して原爆の使用を決定し、広島と長崎に原爆を投下した政策意図は一体なんだったろうか?

 アメリカの歴代政権の公式見解に従えば、「対日戦争を終結させるため」ということになるがこれはこれまで見てきた通り、戦後すぐに作られた「創作ストーリー」、有り体に言えばデマだった。「対日戦争を終結させるためには、原爆投下は不必要だった。」とする「原爆投下不必要論」も、「対日戦争終結」というトルーマン政権の政策意図そのものは承認している点で、「原爆正当論」の亜流である、ことも見た。

 しかし、不思議なことではある。これほどの歴史的大事件でありながら、その時の政権の政策意図が、その後65年経ても定説が定まらない。

 アメリカ歴代政権の「対日戦争終結のために原爆投下を行った」という説がデマであるとするなら、それ以外にどんな説があるのであろうか?

 一番有力な説は「戦後ソ連との冷戦を有利に展開するため」と云う説である。この説は当時のトルーマン政権内部の政策決定文書に一定の根拠を持っており、一番説得力のある説である。しかし不十分という感じは免れない。

 アメリカだけが原爆を保有し、しかもその原爆はすでにアラモゴードで想像を絶する破壊力を見せている。「原爆カード」を切り札に、戦後体制構築にあたってソ連との関係を有利に運ぼうというのが政策意図だとするなら、日本に対して原爆の使用を行わずに、アラモゴードの実験結果を詳細に公表すれば、それで済んだと思われる。

 実際に実験の詳報を受け取ったトルーマンは、ポツダム会談でスターリンに対して高圧的・支配的態度に出ている。
このシリーズの「3.ソ連参戦が対日戦争終結の決め手」
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/03.htm

の「原爆実験成功の詳報がポツダムに到着」の項参照のこと)

 だから、「人道主義国家アメリカ」の看板を投げ捨ててでも、「日本に対する原爆の使用」を実施しなければならないトルーマン政権の政策意図が、その背後にあったと感じる。

 また「原爆投下人体実験説」もある。この人体実験説は大きくまとめれば、「実戦実験説」と云うことになろう。トルーマン政権は確かにアラモゴードの実験で大成功をおさめた。しかしこれは実戦使用ではない。現実に実戦で使ってみるとどのような戦果と効果があるかこれを試してみたかった、とする説である。これも魅力的な説であり、特に長崎への原爆投下はそのフシがある。ただこの説の弱みは、当時の政策文書から裏付けが取れないという点だ。大きくは想像と推測から成り立っている。


荒唐無稽で悪質な「20億ドル説」

 「20億ドル説」というのもある。これは「マンハッタン計画には20億ドルという巨費が投じられた。これだけの巨費を投じて何の実績も上げられないとすると、納税者たるアメリカ国民に説明責任が果たせない。その説明責任を果たすために原爆を投下した。」とするものであり、誰が言い出したのか知らないが、全く荒唐無稽と云わざるを得ない。

 「20億ドル」という数字の根拠は、恐らくトルーマンの「原爆投下直後の大統領声明」であろう。トルーマンはこの声明の中で次のように述べている。

われわれはこの歴史上最大の科学的ギャンブルに20億ドル遣い、そして、勝った。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/touka_hapyo19450730.htm>)
  
 だから「マンハッタン計画」では20億ドルの予算が投じられた、というのが定説になっているし、大きく云えば誤りとはいえない。

 広島への原爆投下直後に出されたこの大統領声明に続いて、陸軍長官ヘンリー・スティムソンの「陸軍長官声明」も出されている。トルーマンの大統領声明では、アメリカ国民に対して十分な説明責任が果たされていないとして準備されたものだ。そこでは次のように述べている。

(マンハッタン計画の)基金の予算化の問題に置いては、議会は陸軍長官と陸軍参謀総長の、予算は国家安全のためには絶対に必要とする保証を受け入れた。陸軍省は、その信頼が決して間違ってはいないということに議会が合意することに確信をもっていた。と言うのは議会が、1945年6月30日現在で19億5000万ドルにものぼるこの計画に必要な予算を精査することは不可能だったからである。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/rikugun_chokan_seimei.htm>)
  
 ここで陸軍長官が云っていることは、「マンハッタン計画」の予算について議会は陸軍省と陸軍を100%信頼してくれて、その中身に全く容喙しなかったし、またその内容を理解して中身を精査するなどは不可能な状況だった、その予算は45年6月までで19億5000万ドルだった、ということだ。

 問題は、予算の始まりはいつかということだ。これはマンハッタン計画のスタート時だと考えれば、1942年9月ということになる。アメリカのエネルギー省が作成した「アメリカ連邦政府の原子力エネルギー計画への投資」という資料(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/kono/AEC_27P.htm>)を見ると、マンハッタン計画全体への資金投資は22億1830万ドルとしている。この場合始まりは42年9月としている。「マンハッタン計画」という陸軍の事業がアメリカ原子力委員会に移管されるのは1946年8月のことだから、42年9月から46年8月の間に22億1830万ドルの連邦予算が使われたことになる。

 エネルギー省の資料通りマンハッタン計画の開始を42年9月からとすると、45年6月までの予算19億5000万ドルは34ヶ月で使われたことになる。、12ヶ月ベースにならしてみると年間平均約7億ドル弱と云うことになる。これは当時の軍事兵器開発予算として突出して大きい、というわけではない。たとえば、税金の無駄使いと酷評されたB-29の開発費は30億ドルだった。(製造費は別)。「20億ドルは巨額」という思いこみにつけ込んだ説だ。

 また、1945年会計年度(44年10月から45年9月)、アメリカ連邦政府の総歳入は451億5900万ドルだった。それに対して総歳出は948億4600万ドルで、496億8700万ドルの赤字だった。もちろん戦争のためである。歳入欠陥は「戦時国債」などの発行で埋めた。
(<http://www.whitehouse.gov/omb/budget/fy2011/assets/hist.pdf>による。)

 これら年間戦費からみて、年間7億ドル弱の軍事兵器開発費はそれ自体巨額ではあるが、それが無駄でなかったことを証明するために日本に対して原爆を使用しなければならないほどの数字でもない。

 また、すでに45年7月16日にはアラモゴードで原爆の実験は成功している。この実験データを公表しさえすれば、「マンハッタン計画」自体が無駄な投資でなかったことは十分証明される。これが単独の理由で、「人道主義国家アメリカ」の看板と引き替えにするほどのことでもない。

 次に、広島への原爆投下そのものが「20億ドル説」を否定している。広島型の原爆はウラン型で実験なしのぶっつけ本番だった。失敗(不完全爆発)の可能性もあったのである。もし失敗すれば、「無駄な投資」だったことを自ら裏付けることになる。もし「20億ドル」の効果を実戦で立証しようとするなら、実験で成功済みのプルトニウム型の原爆を最初に使用したはずだ。

 さらに、この説を裏付けるトルーマン政権内部の政策文書がまったく見当たらないことがあげられる。これは「実戦実験説」同様の最大の弱点である。

 私個人は、この「20億ドル説」は、前二説とは違って「日本への原爆使用」の真の政策意図から人の目を遠ざける目的をもった悪質な説だ、と疑っている。
(広島の原爆資料館では、一つの有力な説として「20億ドル説」を紹介している。)


「原子力エネルギー開発」の経緯

 日本に対して原爆を使用することの政策意図は、トルーマン政権内部に必ず存在していなければならない。それには、戦後夥しくこの問題に関して発表された回想録や、学者・研究者の考察に頼るのではなく、トルーマン政権内部の文書を見てみることが正しい方法論だと思う。幸いにして、トルーマン政権の「原子力エネルギー政策」は当時徹底的な機密事項だった。ということはこの問題を扱った議事録や政策文書、連絡文書の数量も少ない。つまり絞りやすいのである。しかも重要な機密文書は、ほぼ戦後20年から30年を経て機密解除になり、今日われわれはそれを読める。

 中でも重要な文書は、1945年5月にトルーマン政権内部に設立された「暫定委員会」(Interim Committee)の議事録である。
私は議事録としたが英語のもとの言葉は“Note”である。だから詳細な記録ではない。が、重要な議論や決定の経過についてはおおむね把握できる。)

 その前に、「日本への原爆使用」に至るまでのアメリカの「原子力エネルギー開発」の経緯を見ておこう。われわれ日本に暮らしてきた人間には、「マンハッタン計画」は軍事計画であり、それは第二次世界大戦において「核兵器」を保有し、戦局を圧倒的に有利に進めるためだった、という理解が刷り込まれている。

 たとえば、日本語Wikipedia「マンハッタン計画」という項目を見てみると、

マンハッタン計画(マンハッタンけいかく、英: Manhattan Project)とは、第二次世界大戦中、枢軸国の原爆開発に焦ったアメリカが原子爆弾開発・製造のために、亡命ユダヤ人を中心として科学者、技術者を総動員した国家計画である。計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。」
(<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3
%83%8F%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%B3%E8%A8
%88%E7%94%BB>

 と記述している。

 この理解が間違いとはいえないが、ものごと全体のより重要でない側面にばかりスポットを当てた理解だ、ということはいえるだろう。こうした理解で暫定委員会の議論やスティムソンが当時書き残した政策文書、あるいはシカゴ大学冶金工学研究所の科学者たちが残した「フランク・レポート」などを読んでも正しい理解には達しないだろう。

 正しい理解は、「マンハッタン計画」は、フランクリン・ルーズベルト政権時にスタートした全く新しいエネルギー開発計画、すなわち「原子力エネルギー開発計画」の一部だった、という理解である。

 アメリカの「原子力エネルギー開発計画」はまず軍事利用という形でスタートした。それは当時が戦争中だった、という理由もあるし、「原子力エネルギー開発」は「軍事利用」の方が、「平和利用」より着手しやすいという側面があるからだ。もちろん「軍事利用」は、兵器級燃料の製造や兵器そのものの設計・製造など固有の難しさはある。しかし「原子力エネルギー」の利用という点に絞って云えば、「平和利用」は「軍事利用」よりはるかに難しい。「核の連鎖反応の制御」という技術的にはるかに高度な問題があるからだ。


科学研究開発局

 こうした理由でアメリカの「原子力エネルギー開発」という国家事業は、まず軍事利用という形でスタートした。その計画は、ルーズベルト政権時、1940年、国家防衛研究委員会でスタートした。それが科学研究開発局(the Office of Scientific Research and Development−OSRD)に移管されるのは1941年である。当時科学研究開発局はアメリカの戦時軍事研究を一手に総括していたといっていい。局長はバニーバー・ブッシュである。

 英語Wikipedia“Vannevar Bush”の項目を見てみると、

全体的に見れば、OSRDは3万人の人員に指示を出しており、200種類の兵器や軍事装備の開発を監督していた。この中には、レーダー、ソナー、近接電波信管(proximity fuze。ミサイルなどの頭部に装備した電波信管で、目標に近づくと破裂させる装置。)、水陸両用車、ノルデン型航空機爆撃標準器などが含まれている。そのどれもが戦争への勝利と言う点では、決定的役割を果たしている。ある時期には、アメリカの2/3の科学者が、ブッシュの指示のもとにあった。付け加えて言えば、OSRDは、ペニシリンやサルファ剤の大量生産を含む医薬品分野、物理科学分野にも多大な貢献をしている。』

 と述べている。この時代の「原子力エネルギーの軍事利用開発」、すなわち「核兵器開発事業」は、他の分野同様、請負発注システムが採用された。すなわち民間企業に一定のプロジェクトを発注して請け負わせるのである。ここに軍需企業発生の起源がある。

 後年、アイゼンハワーが第34代アメリカ大統領を退任する時、

 最後の世界戦争までアメリカには軍事産業が全くありませんでした。アメリカの鋤(平和利用目的の産業製品のこと)の製造者は、時間をかければ、また求められれば剣(軍事兵器のこと)も作ることができました。しかし今、もはや私たちは、国家防衛の緊急事態において即席の対応という危険を冒すことはできません。私たちは巨大な規模の恒常的な軍事産業を創設せざるを得ませんでした。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Eisenhowers_
Farewell_Address_to_the_Nation_January_17_1961.htm
>)

 と述べているのは、この間の事情を物語る。アイゼンハワーが指摘するように、第二次世界大戦前には軍需企業と呼べる企業はアメリカには存在しなかった。第二次世界大戦が、アメリカに軍需企業を作った、この軍需企業が連邦政府や地方政府、議会や学界と結びついて「軍産複合体制」ともいうべき新たなシステムを作りあげ、それがアメリカの民主主義にとって脅威になっている、とアイゼンハワーが警告したのはあまりにも有名な話である。


「マンハッタン計画」への移管

 戦争の進展と共に、「科学研究開発局」の核兵器開発事業は、陸軍に移管された。法制的に見れば42年6月のことである。グローブスが開発責任者として着任し「マンハッタン計画」がスタートした時をとれば42年9月になる。

 この間一貫してルーズベルト政権内で、「原子力エネルギー開発事業の一環としての原爆開発」に責任を負ってきたのは、陸軍長官ヘンリー・スティムソンであった。グローブスを陸軍原爆開発の総責任者に任命したのもスティムソンだった。

 その後、「マンハッタン計画」(原子力エネルギー開発の一環としての原爆開発計画)がどう発展したかは、スティムソンの「陸軍長官声明」が、割と手際よく説明している。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/rikugun_chokan_seimei.htm>)


 この声明の日付は大統領声明と同じ45年8月6日(ワシントン時間)になっている。

 なかでスティムソンは、原爆の完成とその使用を「歴史上最高の業績」と自画自賛した上で、次のように述べている。

 安全保障への要求の観点から見て、原爆を製造する方法そのものやその機能原理を明らかにすることは現在の所、許されない。しかし、国家の安全を脅かさないかぎりで、国民全体に情報を開示するという政策に従って、陸軍省としては戦争終結を早めるため極めて効率的に開発されたこの驚異的な兵器について、現在のところで許される限り、また多角的に、明らかにしたいと考えている。』

 「戦争終結を早めるため極めて効率的に開発されたこの驚異的な兵器」が原爆だ、というのである。原爆の開発とその日本への使用が、「戦争終結を早めた」ことは事実としても、「戦争終結のために原爆が開発された」というのは、「暫定委員会議事録」の内容や、歴史的事実関係などからしてウソである。その意味では、アメリカの「原爆投下に関する公式見解作り」は、広島への原爆投下直後から始まっていることになる。

 原爆を生み出し得た一連の科学的発見は、20世紀が始まる時点で放射性物質が発見された時に始まっている。1939年までは、この分野での仕事は世界中で、特にアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、デンマークなどの諸国で続けられていた。』

 ここではマリー・キュリーの発見、核分裂など、一連の核物理学上の発見とそれに続く研究のことを云っている。この時点では、世界の物理学者や化学者は、お互いに意見交換をしながら、いわば共同して純学問的研究を続けていた。

 ヨーロッパの灯が消えるまで、また戦争の進行によって、安全上の規制を余儀なくされるまで、アメリカが原爆を実用化するに至った原子力エネルギーの基礎的知見は、連合国、枢軸国を問わず多くの国に広く知られていた。しかしながら、戦争はこの問題に関する科学的情報交換を終わらせた。ただし合衆国、イギリス、カナダ間は例外であった。』

 原爆の原理そのものについては何の秘密もなかったこと、またマンハッタン計画が、アメリカ、イギリス、カナダ三国の共同研究による開発事業だった側面を説明している。


後の軍産複合体制の萌芽

 この分野におけるその他の国々の状況は、よく分かっていない。しかし、日本がこの戦争期間中に原爆を使用できる立場にないことは断言できる。ドイツがそのような兵器の開発に熱心に取り組んでいたことはよく知られている。が、今回の敗北と占領によって、そのような危険は根元から取り除かれた。戦争が始まった時、そのごく近い将来に置いて、戦争目的の原子力エネルギーが開発されるだろうということは明らかだった。問題はどの国がその発見を支配するかであった。』

 ・・・その後ルーズベルト大統領とチャーチル首相の間で、この計画をもっとも早急かつ効率的に成果を出させるために全ての研究をアメリカに集中し、そうすることによって緊密な共同研究を保証し、また同じことの同時並行作業を避けることで合意を見た。この結果1943年の後半には、この問題に関わってきたイギリス側の科学者がアメリカに移転し、その時以来彼らもアメリカで計画進展に参加するようになった。』
  
 この時、ナチス・ドイツの追及を逃れてイギリスでの原爆開発計画「チューブ・アロイ計画」に従事していた、ほとんどヨーロッパ全体の有名な科学者、例えば、エンリコ・フェルミ、ニールス・ボーア、レオ・シラードなどもほぼ同時期にアメリカに移りマンハッタン計画に参加した。だからマンハッタン計画はドイツやソ連など極一部諸国を除けば、世界中の有名な物理学者や化学者のオールスター開発事業だった。このことが、マンハッタン計画を大きく進展させることになる。ここで、陸軍長官の説明はやや時間的に交錯しながら、アメリカのマンハッタン計画のスタートの経緯について述べている。

 ・・・1941年の終わりには、全面的な研究体制への移行が決定され、科学研究開発局(the Office of Scientific Research and Development-OSRD)の下に、著名なアメリカの科学者グループが指示し、全ての計画がOSRDとの請負契約下に移行した。OSRDの局長・バニーバー・ブッシュ博士は直接大統領に報告を上げることとなった。その間、ルーズベルト大統領は、全体政策グループを発足させ、ヘンリー・A・ウォーレス元副大統領、ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官、ジョージ・C・マーシャル陸軍大将、ジェームズ・B・コナント博士そしてブッシュ博士を(そのメンバーに)任命した。』

 マンハッタン計画スタート直前の状況について述べている。このうちウォーレスは第33代副大統領で当初はルーズベルトの良きパートナーだった。そのルーズベルトと意見が合わず、44年暮の大統領選挙の時には副大統領候補とならず、ハリー・S・トルーマンが副大統領候補になってルーズベルトが四選を果たす。ウォーレスは新たなルーズベルト政権の商務長官に就任したものの、政権中枢から外れ、以後「原爆開発計画」にはタッチしていない。マーシャルはその後陸軍参謀総長に就任し、スティムソンと共に「原爆開発計画」の中枢グループの一員に止まり続ける。ジェームズ・コナントは当時ハーバード大学の学長だった。バニーバー・ブッシュとも親しく、科学研究開発局のもとで現業事務所長を務め、アメリカの軍事研究の要にいる人物だった。

 この時代、議会が予算を確保し、政府がその割り振りを決めて、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、シカゴ大学、カリフォルニア大学などアメリカ有数の大学が軍事研究に協力し、その成果を産業界が享受して請負契約のもとに軍事生産を推進していくという、後に「軍産複合体制」と呼ばれるシステムの骨格ができあがっていく。


原爆開発計画の課題は兵器級燃料の製造

 スティムソンの陸軍長官声明を続けよう。

 1942年6月には研究の大幅拡大と主要な部分の陸軍省移管を勧告した。陸軍長官は、レスリー・R・グローブス少将をこの計画全体の執行責任者に任命、報告を直接陸軍省長官と参謀総長に上げる体制を敷いたのである。計画を軍事的見地から検討し続ける目的で大統領全体政策グループは、軍事政策委員会を発足させ、委員長をブッシュ博士、コナント博士を代行としてウルへルム・D・スタイヤー陸軍少将、ウイリアム・R・パーネル海軍准将を委員とした。この委員会は、原材料の開発生産、原子核分裂爆弾そしてその兵器としての使用など、計画に関連した軍事政策の検討・企画立案全体に責任を負っていた。』

 グローブスが就任するのは前述の如く、42年9月だからマンハッタン計画がスタートするのは42年9月という言い方もできようが、大した問題ではあるまい。ここでの問題はもしルーズベルトが45年4月に急死しなかったら、上記の体制で終戦を迎えただろうと云うことだ。つまり大統領政策グループは軍事政策委員会を傘下において、マンハッタン計画を支援する体制で十分機能したであろう。原爆開発に伴う政治的諸問題はルーズベルトを中心にしてスティムソンがこれを補佐する形で十分であり、特別な委員会は必要なかった。

 そして、42年12月には、3つの基幹工場の建設に着手している。すなわちワシントン州ハンフォード工場とテネシー州クリントン第1工場、第2工場だ。ハンフォード工場は兵器級プルトニウム生産工場として建設された。そしてこの兵器級プトニウムが45年7月16日の最初の原爆実験、8月9日の長崎原爆で使用された。ハンフォード工場はその後名称を変えつつもアメリカ・エネルギー省傘下に入り、1977年閉鎖された。現在も放射能汚染などの環境問題を抱えており未解決のままだ。
(この点は英語Wikipedia<http://en.wikipedia.org/wiki/Hanford_Site>に詳しい。)


 クリントン第1工場、第2工場はK-25、S-50、Y-12と呼ばれる製造工場群から成り立っていた。K-25はガス拡散法によるウラン濃縮、S-50は液体熱拡散法によるウラン濃縮、Y-12は電磁分解法によるウラン濃縮を手掛けていた。だからクリントン工場は兵器級ウラン濃縮工場だった、といっていい。この生産施設は戦後も継続され、現在はエネルギー省国家核安全保障局の核兵器施設として健在であり、現在は「Y-12国家安全保障複合施設」と呼ばれている。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/obama/obama_21.htm>)

 スティムソンの陸軍長官声明を続けよう。

 クリントン工場は、テネシー州ノックスビル市から西に18マイルほど離れた連邦政府所有地区内に5万9000エーカーの敷地を占めた。・・・オークリッジという名前の連邦政府所有運営の新しい都市が、そこで働く従事者を収容するために連邦政府所有地内に建設された。・・・オークリッジは総人口約7万8000人。建設労働者、工場操業従事者とその直近の家族より成り立っている。その他の人々もすぐ隣接した回りに取り巻く地域に居住した。』

ハンフォード工場は、ワシントン州パスコ市から西北に15マイル離れた連邦政府所有地内に43万エーカーを占めた。ここでは連邦政府所有運営になるリッチモンドという町が作られ、約1万7000人が居住した。工場運営従事者とその直近の家族よりなる。』

 私事になって恐縮だが、5年前に「トルーマンと原爆」というテーマで勉強をはじめた時、マンハッタン計画に関するいろいろな文献を読んで理解を深めようとした。その時日本語の資料、英語の資料の表現がまちまちで大いに混乱した記憶がある。いわく「ハンフォード工場」「オークリッジ工場」「リッチモンド工場」「Y-12施設」などいろいろな名称が出てきて、しかもそれぞれが何を作っているのか、どんな役割を果たしているのか、こんがらがってきていた時に、この陸軍長官声明を読んですっきりした記憶がある。

 そしてマンハッタン計画では、大きく2つの主要生産設備があった、一つは兵器級プルトニウムを製造したハンフォード工場であり、もう一つは兵器級ウランを製造したクリントン工場だった。それぞれ家族を含めて厖大な人員を要したので、ハンフォード工場にはリッチモンド、クリントン工場にはオークリッジという新たな住宅都市が造られた、つまりリッチモンドやオークリッジは、工場サイトの名前ではなく、労働者用住宅都市の名前である、と理解できてその後の頭の整理が進んだ。と同時に早くこの陸軍長官声明を読んでおけば回り道は避けられたのに、と後悔した記憶もある。


その他の施設は広く北米に分散

 陸軍長官声明を続けよう。

 効果的爆弾と密接に関連した部品に関係する技術的諸問題を取り扱うために特別研究所が、ニュー・メキシコ州サンタフェ市の地域内で、孤立した地区に立地している。この研究所はJ・ロバート・オッペンハイマー博士が計画、組織化し自ら采配をふるった。原爆そのものの開発は、彼の天才と着想、それに彼の同僚たちへのリーダーシップに大きく負っている。』

 これがロスアラモス研究所で、主とした役割は原爆の兵器としてのメカニズムを開発するところにあった。なかでも困難を極めたのは、プルトニウム原爆の起爆から核の連鎖反応を持続する仕組み(爆縮の仕組み)の開発だった。

 このロスアラモス研究所は現在も健在で、エネルギー省・国家核安全保障局傘下の「核兵器複合施設」の一つ、ロスアラモス国立研究所である。

 規模に置いて小さいその他の工場は、・・・合衆国内及びカナダにあった。計画に必要な特殊機器、原材料、処理装置などを開発したり、研究するのに大きく貢献した研究所は、コロンビア、シカゴ、カリフォルニアの諸大学内、その他の学校内、あるいは民間企業の研究所内に置かれた。またカナダには研究所が置かれ、・・・試験工場が設置された。この研究は合衆国とイギリスの適切な現地支援とともに現在カナダ政府に引き継がれている。』

 つまりマンハッタン計画の諸施設は、研究所や小規模工場と共に全米及びカナダにばらまかれた、全米の有名大学や一般企業の研究所にも置かれた、ということである。中でも有名なのがシカゴ大学の冶金工学研究所やカリフォルニア大学バークレイ校内にあったリバモア研究所である。冶金工学研究所のトップがアーサー・コンプトンであり、リバモア研究所のトップがアーネスト・ローレンスであった。


原爆開発計画の企業群

デュポン・ド・ヌムール・カンパニーはワシントン州ハンフォード工場の設計建設とその運営を担当した。ニューヨークのM・W・ケロッグズ・カンパニーはクリントン工場の設計をし、そのクリントン工場はJ・A・ジョーンズ・カンパニーが建設し、ユニオン・カーバイド&カーボン・カンパニーが運営した。クリントン第二工場はボストンのストーン&ウエブスター・エンジニアリング・コーポレーションが設計建設をし、テネシー・イーストマン・コダック・カンパニーが運営した。装置機器類についてはほとんどアメリカの全ての主要な企業が供給した。代表的なところではアライド・ケミカルズ、クライスラー、ジェネラル・エレクトリック、ウエスティングハウスなどである。大企業、小企業を取り混ぜてこれらは文字通り、計画成功に貢献した何千もの企業のほんの数例である。この兵器開発の成功に与って力のあった産業界の貢献を詳細に語ることのできる日がやってくることを希望する。』

 つまりこの時期、アメリカの大手企業はほとんどすべて何らかの形で「マンハッタン計画」に関与したのである。そしてのちに「原子力エネルギー産業」を形成していく。特にGEやウエスティングハウスはマンハッタン計画に参加したことで、原子力機器・装置関連メーカーとして後の発展の基礎をこの時築く。

 しかしここでスティムソンが希望したように「この兵器開発の成功に与って力のあった産業界の貢献を詳細に語ることのできる日」はついにやってこなかった。

 「原爆投下」という汚い仕事に手を貸したことを公にすることをこれら企業が嫌ったためである。一般消費者向けのコダックの社史を私は以前調べたことがあるが、子会社の一つ、テネシー・イーストマン・コダックがクリントン工場の一部を委託運営していたことなどは一行も書かれていなかった。

 ここで考えてみて欲しい。これだけ多くの企業が関わり、多くの研究者や科学者がタッチし、家族を含め7万8000人がオークリッジで、また1万7000人がリッチモンドで働いていて、「マンハッタン計画」の秘密がどうやって保たれるというのであろうか?

 計画のごく当初から、最高限の機密と保安手段がこの計画を取り巻いていた。これはルーズベルト大統領の個人的な命令でありまたその命令は厳格に守られた。研究は完全に分割・分業で進行し、そのため何千もの人々がこの計画に関与しながらも、その関わり方は縦割りで、またその仕事にどうしても必要な情報しか供与されなかった。その結果、政府内でも科学者内でも最高位に属するほんのわずかな人間しか、その全体観がつかめなかった。』

 ことは当然としても、

もちろん、これだけ大きなプロジェクトだから人々の好奇心が大きくなってくるのは避けがたいことだったし、一般市民が議会に対して問い合わせを出すことも避けがたかった。』

 議会ももちろん陸軍に協力したが、

 アメリカの新聞やラジオは、その他で見られるケース同様、検閲局( the Office of Censorship)の要求に誠心誠意応え、この話題のいかなる段階に置いてもその報道を抑制した。』


体制に取り込まれる大手メディア

 つまりアメリカの大手メディアは、ほとんどすべて政権と陸軍に協力し、それぞれ応分の利益を得たのである。その代表例が、ニューヨーク・タイムスの科学記者、ウイリアム・L・ローレンスであろう。L・ローレンスはグローブスと親しく、ジャーナリストとして、原爆開発計画では特権的地位にいた。暫定委員会にも出席し、7月16日アラモゴード原爆実験後の政府声明の原稿の下書きもしたし、のちに触れるが「原爆投下直後の大統領声明」の下書きも書いた。

 広島への原爆投下の後、ウィルフレッド・グラハム・バーチェットは、9月2日、ミズーリ号上の降伏調印式を抜け出し列車を乗り継いで、広島を訪れた。当時占領軍は厳重な報道管制を敷いて、特に南日本にはジャーナリストの立ち入りを禁止していたから、バーチェットの行動は正確に言えば潜入である。バーチェットはそこで、自分の見たままの広島の惨状を書き、また生存した被爆者が原因不明の病気にかかってバタバタ死んでいく様子を書いた。この原稿は「The Atomic Plague」(原子の伝染病)と題されて、45年9月5日付けのロンドン、デイリー・エクスプレス紙に掲載された。この記事が世界的に大反響を呼ぶ。原爆の悲惨が英語で世界にはじめて報道された瞬間である。バーチェットが検閲を免れたのは彼がモールス信号発信器を携行し、独自に打電できたからだと云われている。
以上「トルーマンは何故原爆投下を決断したか?V.投下を推進する勢力」
http://www.inaco.co.jp/isaac/back/009/009.htm>による。)

 この記事が、アメリカ陸軍を慌てさせた。特にアメリカ国民には知られたくないことがバーチェットの記事に詳細に書かれていた。放射線の人体に対する影響である。グローブスは直ちに反撃に出た。アメリカの当時一流ジャーナリズムから30人選りすぐって、アラモゴードの原爆実験場に集め、「実験場には残留放射能はない。」とするデマ報道をさせた。この時の陸軍プレス・リリース(報道陣向けのニュース下書き記事)を書いたのもこのL・ローレンスである。ついでにいうとこの時、グローブズは、マンハッタン計画における自分の片腕、トーマス・ファレルを日本に派遣して、「広島には残留放射能はない。死ぬものは死に絶えた。」というデマ声明を発表させている。占領下とはいえ広島地元の中国新聞を始め日本のマスコミは、この時期ファレルの声明をほぼ無批判に報道した。戦前は軍部に協力し、戦後は占領軍に協力した。なんのことはない、何も変わっていなかったのである。変わったのは親分だけだ。

 こうして第二次世界大戦を一つのきっかけとして、アメリカの支配的メディアが、後にアイゼンハワーが「軍産複合体制」と呼んだ一つの支配システムの中に取り込まれ、ジャーナリズムではなく一つの巨大なプロバガンダ装置に変質していく素地ができあがる。


暫定委員会の機能と役割

 さて、陸軍長官声明はこの後、アメリカ、イギリス、カナダ3国間の協力関係の概要に触れた後、アメリカの原子力エネルギー政策全体の展望について語る。

 「マンハッタン計画=原爆開発=戦争終結」というイメージを刷り込まれている立場からすると、原爆投下直後の陸軍長官声明のこの部分は異質な、浮き上がった記述ととらえられるかも知れない。

 しかし、「アメリカの原子力エネルギー政策は軍事利用から始まった。それがマンハッタン計画であり、日本への原爆使用は、アメリカの原子力エネルギー政策の一環だった。本当の政策意図の実現はマンハッタン計画の後、原子力エネルギー産業の創設であり、エネルギー革命を世界規模でおこすことだった。」ととらえる立場からは、以下は当然の認識となる。

 平和が到来すると、まだ開発がほとんど手つかずの原子核分裂平和利用は、われわれの文明をさらに豊かにすることが大きく約束されている。しかし必要性から戦争優先となっており、この新知見を平和目的で利用しようという全面的な探索は今除外されてしまっている。しかしながら現在時点で手中にしている確証からみて、もし世界情勢が、科学と産業がこのポイントに集中できる暁には、人類の幸福にこの新しい知見が大きく有益な貢献をなすであろうことは、ほとんど必然的と言っていい。

 原子力エネルギーが原爆に置いて極めて大規模なエネルギーを解き放っている事実から見て、平和産業目的でこのエネルギーを利用できるとの観点からの課題が提起されている。すでにその要素の一つを製造している中で、大量のエネルギーが、爆発という形でなしに、調整された量として放出されている。しかし、このエネルギーは、従来型の発電所で実用的に運用するには温度が低すぎる。(まだ実用的ではない。)

 原子力を有用な力として転用していくための機器・装置類の設計は、これからの更なる研究開発の問題である。どれくらいの時間がかかるのかは誰にも分からないが、数年以内のことであることは間違いない。

 さらにまた、我が国や他の諸国で産業界の基本的動力源として使われている水力、石油、石炭を補完する動力源として原子力がどれほどのものかを論じる前に、経済的見地からの検討も必要である。われわれはまだ開発するのに多額の資金と何年もの時を必要とする新しい産業技術の門口にたっているにすぎない。』

 つまりスティムソンの理解では、原子力エネルギーの平和利用は、戦争が終わってからのことになるだろう、それには大きな開発コストとまとまった時間が必要だ、その意味で、われわれはまだ新たな産業技術のほんの入り口にたっているに過ぎない、原爆もその入り口に過ぎない、ということになる。

 これら原子力エネルギーの平和利用にアメリカが本格的に参入するのはアイゼンハワー政権になってからである。その後の経過と現在のオバマ政権の原子力政策との一貫性を考察するのは極めて魅力的なテーマであるが、今は割愛する。

 そうして陸軍長官の話はやっと暫定委員会にたどり着く。

 戦争前からこの課題に関する知識と関心が幅広く行き渡っていたため、長期にわたる秘密保持政策によって、この知識に内在する危険性を排除するわけにはいかない。またこのような考察を念頭に置きつつ、核兵器の制御に関する課題を提起するこのゆゆしき問題と同時に世界の平和のため、科学が示唆していることも念頭に置きながら、大統領の承認の元に、陸軍長官は、こうした諸問題を検討する暫定委員会(Interim Committee)を任命した。』

 つまり戦時中の暫定委員会は、単に軍事兵器としての原爆政策を考察するのではない、戦後に展開する原子力エネルギー政策全体の問題を考えるために設立した、というのである。

 そして、

 『  この委員会は、戦後アメリカが行う、この分野における全面的研究開発を統括管理する機構及び軍事的利用に関して大統領に対する勧告を形成することに責任を持つ。また、アメリカの国内外での統御問題に関しても大統領に勧告を行う。』

 と、暫定委員会の基本的性格を描写している。先走って云えば、アメリカ国内でこの問題を「統括管理する機構」として1946年にアメリカ原子力委員会が設立され、各国に同じ性格をもつ「原子力委員会」が設立された。日本原子力委員会もそうした組織の一つである。また国際的にその機能を持つ機関として設立されたのが、国際原子力機関(International Atomic Energy Agency -IAEA)である。

 だから、「日本への原爆の使用」のトルーマン政権の政策意図を知るには、暫定委員会で議論されたことを知る必要がある。

(以下次回)