(2010.3.24)
オバマ政権と核兵器廃絶 ペリー報告 参考資料


脆弱な核抑止論と破れ傘


 彼らの考え方を知り、私自身の勉強と視点を得るため「アメリカの戦略態勢」(ペリー報告)の翻訳と批判的検討を進めている。現在第二章「核態勢論」(On the Nuclear Posture)にさしかかっているが、なかなか前に進めない。私の知識不足を補う仕事の方が、はるかに分量が多いからだ。また次のような、長たらしい(註)も現れて来て、ほとほと途方に暮れている。

 問題の箇所は、以下の記述だ。

 ・・・しかし、どんなに的を射た詳細であれ文脈であれ、それらを注意深く精査しても、抑止は不確かである。(註127)・・・

 もうひとつ追加的に(核態勢を)構築する際の議論すべき要素がここにある。

 :もし抑止が不確かなものであり、信頼するに足らざるものであることが証明されれば、戦争が開始されたとき、攻撃者からの損害を制限できるような目的を持った戦略的軍事力もまた構築しなければならないという点だ。

 そのような「損害限定能力」は重要である。というのは、国家であっても事故やあるいは違法な(核兵器の)発射がありうるし、またテロリストによる攻撃もありうるからだ。損害限定は、ミサイル防衛を含む能動的防衛(active defense)によって達成されるばかりではなく、アメリカやその同盟国に対してまさに発射されようとしている軍事力を攻撃する能力によっても達成される。(註128)

 私が入れた註は以下のようになった。


註127  「しかし、どんなに的を射た詳細であれ文脈であれ、それらを注意深く精査しても、抑止は不確かである。」:

 私も抑止理論は不確かなものと思う。今ここでの問題は何故その不確かな理論に、また歴史的に検証もされていない理論に地球と全人類の運命を賭けるのか、ということである。抑止は相手が攻撃しないだろうという期待に全運命を委ねている。どんなにその上部に精緻な理論を構築しても、理論の前提が希望的観測・期待値に依存している限り、まったく保証がない。

註128  核抑止理論は「戦争防止理論」として極めて脆弱な理論だし、歴史的にも検証されていない。核抑止論者はあるいは云うかも知れない。「1945年9月以降は、核戦争は起きなかった、これは核抑止論が有効だった証拠だ。」しかし同様に次のようにも言える。「1945年9月以降、核戦争は起きなかった。これはヒロシマ・ナガサキの惨禍がいかに深刻な事態をもたらすかを各国の指導者をはじめ、地球市民が骨身に滲みて理解した証拠だ。」また次のようにも云える。「広島と長崎の後、3発目の核兵器はまだいかなる都市の上にも落ちていない。ところで、これは人類が単に幸運だったに過ぎない。」

 第二次世界大戦後、曲がりなりにも核戦争が起きなかったことの説明は100通りも可能だろう。つまり核抑止論は、実際的に検証された理論ではないのだ。こうした脆弱な核抑止論に立脚して、核兵器を保有することは極めて危険だ。上記記述はその危険を率直に認めたものだ。自ら核抑止論の破綻を認めたものだ。人間はミスをする動物である。そのことから核兵器戦争が起こるかも知れない。またどの国家も盤石な民主主義が成立している訳ではない。クーデタで政権を取ったり、あるいは違法で狂信的な軍国主義者(それはテロリストよりもはるかにたちが悪い。)が、自国の核兵器を使用するかも知れない。(私はロシアや中国のケースではなく、アメリカやイスラエルのケースを想定している。実際その方がありそうだ。)

 またここで「テロリストの危険」がでてくるとは驚きだ。「テロリスト」や「ならずもの国家」に対しては、冷静な損得勘定は期待できない、とはこの報告書の一つの重要な主張ではなかったか。ここにテロリストが登場してくるのは、論旨として支離滅裂である。

 この報告書は、核抑止論の脆弱性は無視したまま、抑止が効かなかった時のことを論じている。それが「損害限定論」である。抑止が効かず、核攻撃されたら、損害を最小限に止めようという議論である。そしてそのための軍事力(核能力)が必要だと説く。それが「ミサイル防衛」だ。損害限定論の中には、さらに進んで先制攻撃論も含まれる。相手が攻撃して来る前に、先に攻撃する「能動的防衛論」(active defense)がそうだ。先制攻撃もまた「能動的防衛」なのだという。

 外交問題評議会・理事長、リチャード・ハースが最近発表した論文で、イランに対する軍事的攻撃を呼びかけ、「アメリカやイスラエルがイランを攻撃するのは、防護的攻撃だ。」と云った。(「イラン核疑惑:外交問題評議会理事長、リチャード・ハース、対イラン戦争を呼びかける」<http://www.inaco.co.jp/isaac/back/028/028.htm>を参照の事。) こうなると「アメリカとの戦争は日本の防衛戦争だ。」と主張した天皇制軍国主義日本の主張と寸分変わらなくなる。

 また彼らは無責任でもある。拡大核抑止力(核の傘)で日本を防衛する、それを保証すると云いながら、実はその保証は不確実なものだという。オバマも09年4月プラハでチェコの市民を前に「しかしご安心下さい。皆さんの安全はアメリカが守ります。」といった。
「アメリカ合衆国大統領 バラク・フセイン・オバマのプラハにおける演説」の「オバマの核抑止論」の項参照の事。
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/obama/obama_04.htm>

 しかしプラハでのオバマの約束も、日本の核の傘の保証も、その実不確実なものだというのだ。保証は保証ではない。

 たとえば、北朝鮮(朝鮮人民共和国)が日本に核兵器を撃ち込んだとしよう。(現実的にはおよそありようがないが・・・。)それは日米安全保障条約体制では想定されている事態だ。アメリカは「損害限定論」をもって、日本の核被害を最小限に止めたとしよう。そして、「ならずもの国家」北朝鮮が二度とこのようなことをしないように核兵器で大量報復したとしよう。そして北朝鮮という国がその国民と共に、この地球上から消え去ったとしよう。それでアメリカは日米安全保障条約に基づいて日本の安全を守ったというだろうか?われわれは安全を守ってもらったということができるか?一体これでわれわれは安全だといえるのか?

 よく考えて見て欲しい。そもそも自国の安全をアメリカに限らず他国に委ねようという発想が出発点から間違っていたのだ。われわれは、憲法の規定がどうあれもう二度と戦争はしない。これは固く固く決めたことだ。だから軍隊もいらない。といって、今まで見たように「抑止力」なるものも実は不確実だ。核の傘は、その実「破れ傘」だ。確かに他国から侵略されないという保証はない。しかしそれは抑止力に保証がないのと同量同質だ。ならば、戦争が起きないような、他国から侵略を受けないような国際的仕組み作りに精出すべきではないか。何より自分の運命を自分で決めることができる。

 「破れ傘」の中で自己欺瞞を延々と続けるよりはるかに意味があり、現実的、生産的ではないか。

 どうだろうか?もうわれわれ日本の市民は、こうした軍国主義者どもの主張に耳を傾けるのは、やめるべきではないか。彼らの主張に無批判でいることはやめるべきではないか?それがいかにアメリカの偉い政治家や理論家や大学の教授やシンクタンクの云うことで、科学的な外観で装いをこらそうが、彼らの主張の多くは、戦前の天皇制軍国主義者の主張とそっくりうり二つなのだ。舶来や唐渡りや南蛮渡りを無批判にありがたがるのはもうやめようではないか。

 そうではなくて、われわれの将来はわれわれ自身が、自分の頭で考えて、真剣に議論し、われわれの運命をわれわれが決めるべきではないか。