(2010.1.19)
アメリカの戦略態勢<America's Strategic Posture>

Appendices − 8.Commissioner Biographies 
(各委員の履歴)

アメリカの戦略態勢議会委員会 各委員の履歴


 この記事は、『アメリカの戦略態勢』(ペリー報告)に附属する「各委員の履歴」をベースにして作成する。というのは各委員の履歴を知る事は、この報告書の理解に奥行きと広がりを与える事になるからだ。しかしながら、こうした「公式履歴」は概してつまらないものだ。この「各委員の履歴」もご多聞に洩れない。特に委員長のウィリアム・ペリーに関する記述などは、どうしたらつまらなく人の履歴を書くかの見本のようなものだ。

 そこで、インターネット上で利用できる情報も合わせて盛り込む事にした。「各委員からの略歴」からの直接の引用は「」にして引用する事にし、他資料からの引用は()で引用元を明示しながら記述する。特に引用がなければ私の見解、見方、地の文である。

 冒頭にも紹介したように委員は12名である。上下両院の各軍事委員会の指名であり、民主党・共和党推薦各3名ずつで選任された。ところがどの記述を見ても委員長のウィリアム・ペリーがいかなるいきさつで委員長に選任されたかがわからない。ペリーくらいの大物になると、選任理由は要らないという事であろうか?

 
ウィリアム・J・ペリー (William J. Perry) 委員長(Chairman)
ジェームズ・R・シュレジンジャー(James R. Schlesinger) 副委員長(Vice-Chairman)
ハリー・E・カートランド (Harry E. Cartland) 委員(member)
ジョン・S・フォスター (John S. Foster) 委員(Member)
ジョン・S・グレン (John H. Glenn) 委員(Member)
モートン・H・ハルペリン (Morton H. Halperin)委員(Member)
リー・H・ハミルトン (Lee H. Hamilton) 委員(Member)
フレッド・チャールス・アイクル(Fred Charles Ikle) 委員(member)
キース・B・ペイン (Keith B. Payne) 委員(Member)
C.ブルース・ターター (C. Bruce Tarter) 委員(Member)
エレン・D・ウイリアムス (Ellen D. Williams) 委員 (Member)
R・ジェームズ・ウールジー (R. James Woolsey)委員 (Member)


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ウィリアム・J・ペリー (William J. Perry) 委員長(Chairman)

 ペリーはアメリカの軍産複合体制の申し子のような人物の一人だろう。1927年生まれのペリーは今年10月で83才になる。ペンシルバニアの田舎町の雑貨店の息子として生まれたペリーは、いかなる意味でも後ろ盾を持たずに徒手空拳で世の中に出なければならなかった。地元の高校を出るとすぐに、1945年米国陸軍に志願兵として従軍。日本占領軍にも加わっている。47年に除隊。48年には予備役士官訓練部隊に参加、50年から55年まで陸軍中尉だった。49年にはスタンフォード大学を卒業、50年に修士号を取得。57年にはペンシルバニア州立大学で博士号を取得している。いずれも数学での取得である。大学を卒業した後は、カリフォルニア州本拠のGTE/シルバニアに入社。54年から64年まで同社の電子防衛研究所の部長をつとめている。博士号はこの時期に取得している。一方、64年には自らも出資したエレクトロニクス分野の軍事企業、ESL社の社長に就任、77年までその職にあった。
(以上英語Wiki<http://en.wikipedia.org/wiki/William_Perry>による。)

こうしてみると、後ろ盾を持たない青年が軍隊を足がかりに、優秀な頭脳と飽くなき向学心だけを財産に、出世の階段を一歩一歩登っていく姿が見えてくる。

 ESL社は1964年シリコンバレー、パロ・アルトに設立されたベンチャー企業で、電子偵察システムに優れた技術をもった。ペンタゴンを顧客として急成長した。その後TRWに買収され、2002年にはTRWごとノースロップ・グラマン社(戦後急成長したノースロップとグラマン社の合併企業。いずれもペンタゴンが最大の顧客だった。)に買収されている。』
(以上「核兵器のない世界」
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/A_World_Free_of_
Nuclear_Weapons.htm>
による。)

 ペリーは後にビル・クリントン政権で国防長官をつとめ、アメリカの軍事力の近代化、言い替えればエレクトロニクス化、コンピュータ化を推進するのだが、その思想は、すでに彼の出自の中に芽生えていたと云うべきであろう。

 1977年から1981年カーター政権の時に、研究および実施設計担当国防次官に就任。兵器体系の調達および研究開発に責任を負うことになった。この時の彼のもっとも大きな成果は、ステルス航空機技術の開発だろう。かれはこの技術開発の中心人物だった。

 1981年国防総省をいったん後にする。その後サンフランシスコに本社を置くハムブレット・アンド・クイストというハイテク企業を専門とする投資銀行の役員となる。その後、1993年にペンタゴンに戻る間、テクノロジー・ストラテジー・アライアンス等位会社の会長を務める傍ら、スタンフォード大学の工学大学院の教授に就任、またスタンフォード国際関係協力センターの防止防衛計画の共同所長も務めている。ある意味典型的に軍産学複合体制を一人で集約した人物ということができる。』(前出「核兵器のない世界」より)

 こうしてペリーはアメリカの国防分野で、産業界、中央政府、学界のトライアングルをしっかり繋ぐ重要人物の一人にのし上がっていく。

 ペリーは、第19代国防長官に就任、1994年2月から97年1月までその任にあった。その直前は国防担当の副長官だった。』(「各委員の履歴」より。)

 ここで注目しておかなければならないことは、ペリーが冷戦終結後の国防長官であり、ポスト冷戦のアメリカの国家防衛モデルを案出したキーパーソンの一人だったことだ。

 ペリーは国防長官を引き受ける動機として3つのポイントをあげている。
1. 冷戦時代へ戻ることを回避しつつ、アメリカへの核兵器の脅威を終了させること。
2. 大統領に対し、いつ、いかなる形で軍事力を使用すべきか、またその使用を拒否すべきかについてアドバイスを送ること。
3. ポスト冷戦時代における軍事力削減を運用管理すること。』
(前出「核兵器のない世界より」

 アメリカの核政策は、この時ペリーが描いた方向へと紆余曲折を経ながらも進んでいるように見える。注意しておかねばならないのは、ペリーは決して「地球に対する核兵器の脅威」を心配したわけではなく、「アメリカに対する核兵器の脅威」を終了させようとした、と言う点だろう。私の推測だが、ペリーの理想はアメリカだけが核兵器や核分裂物質を保有し、アメリカ以外の諸国は全く持たない状態、すなわち「核の独占」の状態だった。

 06年1月ジョージ・ブッシュ政権の時、ホワイト・ハウスに元国防長官、元国務長官経験者が一堂に会し、長期的なアメリカの防衛体制について協議したと伝えられている。そして07年1月、4人の元高官及び元上院軍事委員長の共同論文「核兵器のない世界」が発表され、ペリーもその4人の中に名前を連ねる。08年1月には同じ4人が今度は「核のない世界」(原水協サイト資料保管庫内より。原水協訳は「核兵器のない世界」となっているが、原文タイトルは「Toward Nuclear-Free World」なので『核のない世界』と訳すのが正しい)を発表し、「核兵器廃絶」を謳い上げながら、その実「世界のすべての核」を独占管理状態におこうという意図をあらわにする。同じ08年には、「戦略態勢議会委員会」が組織され、ペリーを委員長として検討が進められ09年5月に最終報告書が議会に提出される。その1ヶ月前の4月には新任大統領のオバマが、内容的にはほぼ同一の「プラハ演説」を行っている。


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ジェームズ・R・シュレジンジャー(James R. Schlesinger) 副委員長(Vice-Chairman)

 ウィリアム・ペリーに匹敵するアメリカ軍産複合体制の大物である。ペリーが民主党を代表する人物であるのに対してシュレジンジャーは共和党を代表しており、バランスを取ったものだろう。民主党・共和党というが政策的には、特に外交政策、軍事政策においては、私から見るとさほど大きな違いはない。「核兵器は危険なので、すぐに廃絶交渉に入ろう」などという人物は、アメリカの権力中枢には絶対にいない。1929年生まれで、この2月に81才になる。ペリーに較べると2才若いが、印象として彼の方が早い世代に属していると感じるのは、シュレジンジャーがニクソン政権・フォード政権の時の国防長官(第12代)だったせいだろう。国防長官就任の時、シュレジンジャーが44才だったのに対して、クリントン政権の国防長官にペリーが就任したのは、67才の時だった。ペリーがポスト冷戦時代のアメリカの軍事政策を構築したのに対して、シュレジンジャー「はポスト・ベトナム戦争」の軍事政策を模索したといってもいいだろう。

 最初に「各委員の履歴書」からの引用。

 ジェームズ・R・シュレジンジャーの時間は、最近2つの部分に分けられている。一つはMITRE(註1)。現在理事会会長として勤務している。もう一つは、彼が上級顧問をつとめる投資銀行のバークレイズ・キャピタル(註2)。である。彼はまたアメリカ国防省の顧問であり、また国防政策委員会(註3)、国際安全保障諮問委員会(註4)の委員でもある。

 シュレジンジャーは国家公共行政アカデミーのフェローでもあり、またアメリカ外交アカデミーの理事及び会員でもある。
この後彼が役職や会員になっているアメリカの支配的機構の名称が続くがカットする。私が知りたいのは彼が外交問題評議会のメンバーなのかどうかと言う点だが、インターネット上では確証がなかった。状況証拠は多いのだが・・・)

 シュレジンジャーは、最初のエネルギー省長官でもある。(後で詳述)カーター大統領が新省創立の法案に署名した1日後に、長官就任の宣誓を行った。彼は1977年8月5日から1979年までこの職にあった。その前の年(1976年)、大統領予定者だったカーターは、エネルギー省創設に関する基本設計とアメリカのエネルギー政策に関する大統領補佐官に就任するように要請している。

 1973年7月から1975年11月シュレジンジャーは国防長官だった。その直前の職はCIA長官だった。1971年ニクソン大統領によってアメリカ原子力委員会の委員長に選ばれた。73年2月までその職にあった。

 シュレジンジャーは、1969年連邦予算局(その後予算運営局と名称を変える)の局長補に就任してその連邦政府行政官としてのスタートを切った。1963年から1967年まではランド・コーポレーション(註5)の上級スタッフであり、67年から69年までは、同じくランドの戦略研究所の所長だった。また彼は連邦準備制度理事会や予算局の顧問だったこともある。

 1955年から63年まではバージニア大学の経済学助教授及び准教授だった。
その後、シュレジンジャーが持っている肩書きや勲章が長々続くがカット。
ただNNDBというデータベースを見ると彼は、アトミック・ヘリテージ・ファウンデーション
(註6)(Atomic Heritage Foundation)の諮問委員会メンバーでもある。これは興味深い。)

 1950年、シュレジンジャーはハーバード大学経済学部を卒業後、52年にハーバード大学で修士号、56年に博士号を取得している

 代表的著作は「国家安全保障の政治経済学」(the Political Economy of National Security 1960)、「今世紀末におけるアメリカ」(America at Century's End 1989)など。』

 以上が「各委員の履歴」の内容である。ハーバードで優秀な成績を納め若い教師から、国防省と深くつながっている軍事シンクタンクのランド研究所で頭角を現し、連邦予算局を皮切りに国防省と核政策を取り仕切る原子力委員会から国防長官に就任、その後エネルギー省創設に関わるなど、核兵器を含めたアメリカの核政策と深くかかわりながら、大物にのし上がっていく、というのが大まかな略歴だ。

 しかしシュレジンジャーの核政策の本質は一体どこにあったのだろうか?次に英語版Wikipedia<http://en.wikipedia.org/wiki/James_R._Schlesinger>の記述を中心にシュレジンジャーを見ておこう。

 シュレジンジャーは1929年、ロシアからのユダヤ人移民の父とオーストリアのユダヤ人の母の間にニューヨークで生まれた。ハーバードで教育を受けた後、しばらく教鞭を執り、有名な軍事シンクタンク、ランド研究所に入る。ランド研究所では、戦略研究所の所長までつとめたのだから、相当名の知られた研究者だった考えていい。1969年にはニクソン政権入りして予算局長に就任する。生年からみてこの時40才。英語Wikiは『予算局長としてほとんどの時間を防衛問題に費やした。』と書いている。

 1971年、ニクソンはシュレジンジャーを原子力委員会の委員に指名し、委員長とする。アメリカ原子力委員会は「原子力の平和利用の推進機関」と勘違いする人もいるかも知れないが、そうではない。原爆開発を担当した陸軍の「マンハッタン計画」が、1946年原子力委員会が創設された時に、人員ごとそっくり移行する。その後、核兵器の開発、実験を積み重ねて、アメリカの核兵器開発の推進力となった。原子力の平和利用問題に本格的に着手するのはアイゼンハワー政権以降である。

 この時のシュレジンジャーの役割について英語Wikiは次のように書いている。

シュレジンジャーは、原子力委員会の法制定機能を改善するため、原子力委員会の運営と機構的改革に着手した。』

 これだけではわかりにくいが、乱暴に云ってしまうと、原子力の平和産業応用分野は、「マンハッタン計画」時代と違って、GEやユニオン・カーバイドなど民間企業が手掛けられるレベル、言い替えるとビジネス・レベルに達していた。政府の役割を縮小して、逐次民間産業に移行しようとしていた。しかし、その特許権などを含めた技術やノウハウの民間移行やさらに管理・監督などの強化のためには、数多くの立法化が必要だった。原子力委員会ではその事態の流れに対応できなかった、ということだ。

 25年前のトルーマン政権の時に作られた、核政策に関する暫定委員会では、原子力の平和利用問題は、

ブッチャー氏(ウエスティングハウス社長)は、現在の機構(陸軍所管のマンハッタン計画で核開発を推進していく仕組みの事)は少なくとも後1年が継続すべきだと奨めた。更なる基礎開発の必要性は、特に(核エネルギーの)「パワー」の点でその必要性が高まる、そしてそれは産業界においても十分に有用性が出てくるだろうと指摘した。カール・T・コンプトン博士は、特定の民間企業が核に関する研究人材を保持し、公開の形で政府予算に支えられて継続し、この分野の潜在力を評価するのが望ましい、と指摘した。』
(暫定委員会1945年6月1日議事録
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee
1945_6_1.htm>

 とされ、政府の予算で開発を進め、その成果は人材を中心に民間に蓄積し、この市場を大きく育てていこう、という結論が引き出されていた。

 それから25年経過し、いよいよ民間が本格的に原子力の平和利用産業をテイクオフさせようという時期に、シュレジンジャーが原子力委員会の委員長に指名され、その体制作りをすることになる。

 1973年2月、シュレジンジャーはCIA長官に任命される。これは前任者のリチャード・ヘルムスが、「ウォーターゲート事件」の調査を妨害しろ、というニクソンの指示を拒否し、そのためにニクソンがクビにしたからだと伝えられている。CIA長官に就任したシュレジンジャーの第一声は、「私は君たちがニクソンに手を突っ込まないようにするため、ここに来た。」だったとも伝えられている。CIA内部で散々の不評だったシュレジンジャーは、わずか半年で今度は国防長官に任命される。44才に若差にもかかわらず、この人事は、各方面から好評だった。それは彼の経歴が国防長官にふさわしいものだったからだ。

 国防長官としてのシュレジンジャーは決して「核抑止論」に全幅の信頼を置いていなかった。もっともアメリカの国防省関係者は伝統的にみなそうだ。核兵器は最初に使用して相手を叩いてこそ軍事的価値がある。これは「核抑止論」という一種の詭弁論法を排除した軍事関係者のまっとうな軍事理論だ。

 英語wikiは次のように書いている。

 シュレジンジャーは次のように信じていた。「核抑止論は国防に取って代わるものではない。防衛能力こそが抑止の基本的要素だ。」彼は、敵の都市工業地帯に大量の核攻撃を行うという考え方に基づいた「相互確証破壊理論」に重大な疑いを抱いていた。』

 しかしこれは当然の考え方だろう。敵は大量の核兵器による報復を恐れるが故に核兵器攻撃をしない、とする核抑止論は軍事専門家からみれば、とんだお笑いぐさである。

 1974年、シュレジンジャーは、核攻撃に際してコントール出来ない相互エスカレーションの機会を限定するための能力が必要である、と述べた。相互に広がる損害を排除するため、有意味な敵の目標を叩かねばならない。』

 こうしてシュレジンジャーはNATOを巻き込んで、大陸間弾道ミサイルによるソ連包囲網を構築していく。またこの目的のため、NATO諸国に対して、もっと防衛予算を増額するようにと要求し、それぞれ国内総生産の5%を防衛予算に割くようにと説くのである。

 シュレジンジャーは国防長官時代、第4次中東戦争(1973年)、キプロス紛争(1974年)、カンボジア紛争にも積極的に介入していく。

 1977年、ジミー・カーター政権時、シュレジンジャーは初代エネルギー省長官に就任する。エネルギー省は、アメリカのエネルギー政策全体の変換の中で創設されたが、原子力委員会が持っていた核兵器政策全般をエネルギー省は引き継ぎ、原子力の平和利用目的で必要な法的整備・規制は、新たに原子力規制委員会が創設されて、原子力委員会は解体される。

 エネルギー省長官退任後は、隠然たる影響力を保ちつつも、執筆や講演活動、民間企業の顧問職などに勢力を注ぐ。なかでも注目されるのは、リーマン・ブラザーズやクーンローブなどという投資銀行の上級顧問に就任している事だ。

 2007年、石油業界の集まりの中で、「世界の石油産業はその生産のピークを迎えている。」と講演していることは注目して良い。

 これまでの断片的な事実を繋ぎ合わせると、核兵器産業を含む原子力産業全体をリードしてきたシュレジンジャーは、本格的に原子力平和産業(直接的には原子力発電産業)をテイクオフさせるため、エネルギー長官退任以降、アメリカと世界の体制を構築してきたのではないか、ということがいえよう。

 そして今回ペリーと共同で、「アメリカの戦略態勢」報告書をまとめた、こういう文脈でシュレジンジャーの役割を捉える事が出来よう。


註1  MITRE:Mitre Corporation。1958年に設立された非営利法人(NPO)。マサチューセッツ州ベッドフォードとバージ二ア州マクリーンの2本部制。従業員数約7000名で2008会計年度の総収入は12億3500万ドル。仕事は100%連邦政府向けR&D運営・支援業務。現在の重要な顧客は、連邦基金R&Dセンター(国防省を支援)、連邦航空局(FAA)、内国歳入局(IRS)、退役復員省(the Department of Veterans Affairs)。2009年5月には国土安全保障省の契約も取っている。歴史的にはアメリカ空軍の仕事の一貫として、関係する企業や従業員に対する全般的指示を与える仕事を受注したところから出発している。シュレジンジャーは理事会会長だがCEOではない。理事会メンバーには退役海軍提督なども名を連ねている。
以上<http://en.wikipedia.org/wiki/Mitre_Corporation>
<http://www.mitre.org/>による。)

註2  バークレイズ・キャピタル:Barclays Capital。イギリスの最有力金融グループの一つバークレイズ(Barclays plc)の投資銀行部門会社。バークレイ・キャピタルは大企業、機関投資家、政府などに金融サービスやリスク・マネジメント・サービスを提供している。アメリカ財務省債券やヨーロッパ各国国債の第一次ディーラー。リーマン・ブラザーズ倒産時その業務の一部と従業員2万人を買収して以来、北アメリカ市場における存在感を高めている。シュレジンジャーは、エネルギー省長官を辞めてから、リーマン・ブラザーズの顧問をつとめていた。
(以上<http://en.wikipedia.org/wiki/Barclays_Capital>
<http://www.barcap.com/About+Barclays+Capital/Our+Firm>など)

註3  国防政策委員会:The Defense Policy Board。正確にはアメリカ国防省のDefense Policy Board Advisory Committeeのこと。委員会としては自由裁量権がある。本来は国防省の一諮問機関であるが、この委員会は強力で外交問題にも容喙している。イラク戦争を強力に推進した事でも知られている。ウィリアム・ペリー、ヘンリー・キッシンジャー、ハロルド・ブラウンなどといったそうそうたるメンバーと並んで、スティーブン・ビドル(Stephen Biddle)が外交問題評議会代表として名を連ねているのが印象的。
(以上<http://en.wikipedia.org/wiki/Defense_Policy_Board_Advisory
_Committee>


註4  国際安全保障諮問委員会:The International Security Advisory Board。国務長官に対する国際安全保障問題に関する全般的な諮問提言機関。以前は「The Arms Control and Nonproliferation Advisory Board」(軍備管理及び不拡散諮問委員会)という名称だったようだ。現在委員は19名いると云うが、国務省の関連サイトを見てみると現在の委員名は表示されないで、前委員の名簿が公開されている。
<http://www.state.gov/t/isn/isab/index.htm>

註5  ランド・コーポレーション:Rand Corporation。有名なアメリカを代表するシンクタンク。1948年、ダグラス・エアクラフト社(=当時)が、陸軍航空隊(当時空軍はまだ創設されておらず、陸軍に所属していた。)の研究開発のために設立した。その後ダグラス社から切り離され、独立の非営利法人となった。2008年度従業員約1600人、総収入約2億3000万ドルと意外と少ない。現在は、アメリカ連邦政府、各基金、製薬会社、大学、各個人からの資金で運営されている。後で見るように、顧客も世界中に広がっている。もともとは直接軍事研究機関の性格が強かったが現在は、研究テーマは幅広く拡大している。同社の年次報告書によれば、「芸術」「こども政策」「公共正義」「教育」「エネルギーと環境政策」「健康と健康増進」「国際問題」「国家安全保障」「人口及び高齢化問題」「公的安全」「科学技術」「物質濫用」「テロリズムと国土安全保障」「輸送とインフラ」「労働人口と労働環境」などを核研究テーマとしているという。しかしだからといってこれらが軍事研究ではないということにはならない。ランドに関係した仕事でノーベル賞を受賞した学者も多く、30人以上を抱える。シュレジンジャーもランドで有名になった研究者だが、有名なところではハーマン・カーン、フランシス・フクヤマ、カツミ・テラサキなどがおり、国防関係者ではドナルド・ラムズフェルドなど数多い。またマーガレット・ミードなどの文化人類学者もいる。

(そういえば、ルース・ベネディクトの「菊と刀」も軍事研究の一環だったなぁ。)

(ランド全体は次。
<http://www.rand.org/about/glance.html>
<http://en.wikipedia.org/wiki/RAND>
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3
%83%89%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80>


ランドのリーダーたちは次。
<http://www.rand.org/about/organization/leadership.html>

ランドの顧客は次。
<http://www.rand.org/about/clients_grantors.html>

なおこの中には日本の三菱総合研究所の名前も挙がっている。このリストはじっと眺めるだけで面白い。)

註6  アトミック・ヘリテージ・ファウンデーション:Atomic Heritage Foundation。2002年に設立された非営利法人。「マンハッタン計画」と「核時代」の意義を顕彰し、次世代に伝えていく事を目的にしている。英語Wikiでは「マンハッタン計画を承継したエネルギー省と密接に連動している。」と説明している。マンハッタン計画、509混成航空群など広島、長崎に対する原爆投下についてはマニアックなほど詳しい。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Atomic_Heritage_Foundation>
直接のサイトは<www.atomicheritage.org>だが最近開かない事が多い。)


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ハリー・E・カートランド (Harry E. Cartland) 委員(member)

 カートランドはローレンス・リバモア研究所(註1)出身の物理学者である。「各委員の履歴」を引用する。

 ハリー・カートランドは独立の技術コンサルタントであり、また防衛、宇宙開発、更新可能エネルギーなどの分野におけるアントレプレヌールでもある。カートランドは最近まで下院議員ダンカン・ハンター(註2)の個人スタッフの中で上級メンバーだった。この枠内でカートランドは、下院軍事委員会ランキング・メンバー(註2)とカリフォルニア第52選挙区(註2)のために、国防と国境安全保障の問題について課題をこなしてきた。2005年から2007年の間、カートランドは下院軍事委員会の上級専門スタッフだった。この時、委員会委員長のための特別全体チームを率いると同時に予測軍事力小委員会のスタッフを管理した。

 2004年から2005年の5月まで、カートランドは技術プロジェクトと公共政策に関するコンサルタントだった。特にミサイル防衛分野が専門だった。2001年6月から3年間、下院軍事委員会の専門スタッフとして公職にあり、2003年に戦略軍事力小委員会が設立されると、そのスタッフの管理にあたった。彼は国家防衛問題の極めて幅広い課題に対してその専門性をもって委員会スタッフに貢献した。

 1993年4月、カートランドはカリフォルニア州リバモアにある国立ローレンス・リバモア研究所でプロジェクト・リーダー及び物理学者として勤務した。リバモアにおける技術工学部でいくつかの特別プロジェクトのリーダーだった。そしてリバモア研究所における戦域及び国家防衛ミサイルの計画能力がどの程度あるかという議会の諮問に対して回答すべく国防省を援助し、このプロジェクトを組織したのである。

 1992年9月から1993年3月までは、彼はデューク大学物理学部の客員研究員だった。そしてノース・カロライナ州にある米国陸軍研究所でコンサルタントをつとめた。ここでは、陸軍研究所に対してナノテクノロジー分野などのアドバイスをした。カートランドはこれ以前に陸軍に実際に勤務した事があり、この時は米国陸軍アカデミーのある部門で任務に就いたほか、陸軍弾道研究所のスタッフでもあった。

(この後はカートランドが受けた賞や所属学会が続くがカット。)

 カートランドは1958年ケンタッキー州フォート・ノックス生まれ。1980年にコーネル大学で最優秀で化学の学士号を取得した後、1985年カリフォルニア州バークレイ校で物理化学の博士過程を完了している。』

註1  ローレンス・リバモア研究所:Lawrence Livermore National Laboratory。1952年にカリフォルニア大学が設立した、核物理を中心とする科学研究所。現在はエネルギー省の予算でまかなわれている。年間予算は約16億ドル。スタッフは約6800人。運営はローレンス・リバモア・ナショナル・セキュリティという有限責任法人(LLC)が運営している。

 元来はマンハッタン計画で有名なロス・アラモス国立研究所の補助研究所としてカリフォルニア大学バークレイ校が設立したが、その後熱核融合爆弾の研究にも力を注ぎ、ロス・アラモス研究所とならぶ有力研究所となった。核分裂爆弾を主張するオッペンハイマーと激しく対立したエドワード・テラーもここの所長をつとめたことがある。名前は共同創立者の一人、マンハッタン計画での有力科学者の一人、アーネスト・O・ローレンスに由来している。

 冷戦時代数多くのミサイル用核弾頭がこの研究所で開発された。現在厖大な量の兵器級核分裂物質が貯蔵されており、この移転計画が進んでいる。またこの研究所の核兵器開発事業に対する反対運動も近年起こっており、正門付近での抗議行動のため、07年には64名、08年月には一度に80名以上の逮捕者が出た。またプルトニウムの研究でも大きな成果をあげている。近年は、エネルギー、ナノテクノロジー、バイオなどの分野へ研究の幅を広げている。またコンピュータ研究でも評価が高い。しかし、一言で云えばアメリカの核兵器開発の最重要拠点研究所の一つ、ということができる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Lawrence_Livermore_National_
Laboratory


註2  ダンカン・ハンター、ランキング・メンバー、カリフォルニア第52選挙区:Duncan Hunter。ダンカン・ハンターは永年共和党選出の下院議員だった。選挙区はカリフォルニア第52選挙区。2008年の大統領選挙に共和党指名候補になろうとしたが早い機会に撤退した。2009年1月下院議員を引退、第52選挙区を自分の息子に世襲させている。2007年まで下院軍事委員会委員長だったが、民主党がマジョリティをとったので委員長を辞任。ランキング・メンバーとなった。ランキング・メンバーはアメリカの議会の委員会で、少数派の筆頭議員のことをいう。たとえば上院軍事委員会におけるランキング・メンバーは、オバマと大統領選挙を争った共和党のジョン・マケインである。カートランドの経歴を見ると有名大学を優秀な成績で卒業し、ローレンス・リバモア研究所やランド研究所など有名シンクタンクや研究所へはいって研究者や政策立案者として実績を積んで、軍部と関係をもち、軍事専門家となって出世し、有力議員のアドバイザーや政策スタッフになる、というのは一つの出世パターンである。


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ジョン・S・フォスター (John S. Foster) 委員(Member)

 1922年生まれのジョン・フォスターは、ペリーやシュレジンジャーなどより、若干早い世代に属する。有名大学を出てローレンス・リバモア研究所に入り、軍部と関係をもちつつ、専門家として行政官となり、その後軍事産業関連の企業で余生を過ごす、というパターンを作った、もしかすると第一世代に属するのかも知れない。以下は「各委員の履歴」からの引用。

 ジョン・S・フォスター・ジュニアは、GKN航空宇宙トランスペアレンシー・システム社(註1)の取締役会会長であり、核戦略フォーラム(註2)共同議長、ワケンハット・サービス社(註3)の取締役、ノースロップ・グラマン社(註4)、シコースキー航空社(註5)、インテレクチュアル・ベンチャーズ(註6)、デフェンス・グループ社(註7)のそれぞれコンサルタントをつとめている。

 1988年、TRW(註8)の科学技術担当の副社長(註9)を退いてからもなお、1988年から1994年まで同社の取締役だった。1942年フォスターはその職業経歴をハーバード大学の無線研究ラボラトリーからスタートさせた。1943年から44年まで第15航空隊の顧問をつとめ、地中海空域作戦におけるレーダーと対レーダー対策を専門とした。1946年と47年の夏には、カナダ・チョークリバーにおける国家研究評議会にも参加した。1952年、フォスターはローレンス・リバモア研究所に参加し、核爆発物の設計に携わり、1961年から65年までローレンス・バークレイ・ナショナル研究所(註9)の准所長をつとめている。それから1965年から73年までの8年間、共和・民主両党政権下で、国防省の国防技術研究局の局長をつとめた。

 1956年まで空軍科学諮問委員会で勤務し、それから1958年まで陸軍科学顧問団で勤務、弾道ミサイル防衛諮問委員会の委員になり、1965年には先端研究計画局のメンバーにもなっている。この間、大統領科学諮問委員会に断続的に顧問として参加もしている。1973年から1990年までは、彼は大統領国外諜報委員会のメンバーだった。現在フォスターは国防科学委員会の上級研究員であるが、1990年から1993年までは、国防科学委員会の委員長もつとめている。また彼は最近では「アメリカの戦略態勢議会委員会」の委員もつとめている。同時にDARPA(註10)の局長諮問委員会のメンバーでもある。

 フォスターは1922年9月18日、コネティカットのニュー・ヘイブンで生まれた。カナダ・モントリオールのマッギル大学の科学で学士号を、1948年に取得、カリフォルニア大学バークレイで、1952年物理学の博士号を取得している。

(以下彼が取得した勲章や表彰、所属学会などが続くがカット。)


 シュレジンジャーが「核抑止論」に深い疑いを抱き、またアメリカの軍人が常に「核兵器先制使用論者」であることは、前にも述べた。フォスターもまた「核先制使用論者」のようだ。1972年に第一次戦略兵器制限協定(「SALTT」Strategic Arms Limitation Talks T。アメリカはニクソン政権、ソ連はブレジネフ政権だった。)が締結された時、時の国防長官メルビン・レアードは議会に対して「SALTに関して修正すべき戦略計画」のリストを提出した。9つの新たな計画を推進する内容だったが、この時国防技術研究局長だったフォスターは、この計画を次のように説明している。

アメリカはSALTを発行させるにあたって、協定の期限が切れたり廃棄される時に備えて、引き続き強力な立場を保ち、いつでも役立つ信頼できる逃げ道をつくっておくべきだ。』

 要するに、SALTの抜け穴探しをやろうという計画だが、その内容はすべて核の先制使用につながる計画だった。相互確証破壊理論に基づく核抑止論では、敵国は核兵器の大量報復攻撃を恐れて、核兵器の先制使用を行わない、だから大量の核兵器を保有すると相手の核兵器の使用を抑止する事になる、という理屈だ。こんな屁理屈は、外交官や政治家の間でならともかく、軍事関係者の間では通用しない。相手が使用する前に核兵器を使用して相手を潰せばいい。SALTで相手を縛ると同時に自分も縛られる事になる事態においては、アメリカの国家防衛は出来ない、だからその抜け穴を見つけて対処しておこう、というのが、フォスターの理論である。
ここの記述は岩波新書「核先制攻撃症候群」C・ R・オルドリッジ著<1978年6月>による。)


註1  GKN航空宇宙トランスペアレンシー・システム社:GKN Aerospace Transparency System。GKN社はイギリスを代表する軍需企業。アメリカのデフェンス・ニューズ社のランキングでは2007年世界第40位。
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Military-industrial_
complex/defense_news_features_top100_2007.htm>

GKN航空宇宙トランスペアレンシー・システム社はGKNのアメリカのおける子会社で航空機のコックピットの風防システムや氷結防止システムを専門としている。「トランスペアレンシー」はコンピュータの世界でいう「透過性」のことではなく、文字通り「透明性が高いこと」の意味だと思われる。
<http://www.gknact.co.uk/>

註2  核戦略フォーラム:Nuclear Strategy Forum。アメリカの非営利法人、国家公共政策機関(National Institute for Public Policy)が主宰するフォーラム。具体的な中身はわからない。もうひとりの共同議長キース・ペイン( Keith B. Payne)もアメリカの国防サークルの中で生き抜いてきた一人。アメリカでもあまり知られているフォーラムではない。興味深いのは、この履歴書は当然本人から提出されて、本人の承認を得てから公表されているだろう。現在の身分にこのフォーラムの共同議長の記述を上位にしていたのもフォスター自身だろうという点だ。

註3  ワケンハット・サービス社:Wackenhut Services, Inc.。フロリダ州軍事警備会社。軍事トレーニングや海外派兵も行っているようだ。イラクにも派兵している。同社のサイト<http://www.wsihq.com/default.asp>を見ると大きく「アメリカ連邦政府の業務」と謳ってある。上場会社ではなく、売り上げ、株主構成などはわからない。会社の経営陣や役員に関する情報も一切ない。上場していなくても主要人物は提示するものだが・・・。

註4  ノースロップ・グラマン社:Northrop Grumman Corp.。アメリカを代表する軍事企業。デフェンス・ニュースは同社を2007年世界第4位の軍事企業にランキングしている。世界の軍事企業がその資本の集中と集積を強めていく流れの中で、1994年ノースロップ社とグラマン社が合併して成立した。同社のサイトを見るとトップに、「5億7700万ドルの軍事統合指揮系統システム受注」と最近の受注実績が表示してある。
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Military-industrial_complex
/defense_news_features_top100_2007.htm>

<http://www.northropgrumman.com/>
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3
%82%B9%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%
BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3>


註5  シコースキー航空社:Sikorsky Aircraft Corp.。軍事受注額としては世界第10位(2007年)のユナイティッド・テクノロジーズ社の子会社。会社の設立としては1925年で古い。ヘリコプターの開発製造メーカーとしては有名。陸軍で採用しているブラックホーク(UH-60 Black Hawk など)や海軍で採用しているシーホーク( SH-60 Seahawkなど)はいまだに現役である。近年は他のヘリコプターメーカーを買収して肥大化しつつある。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Sikorsky_Aircraft>
<http://www.sikorsky.com/vgn-ext-templating-SIK/v/index.jsp
?vgnextoid=162f45d57ef68110VgnVCM1000001382000aRCRD>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%B3%E3%
83%AB%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%BB
%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%8
3%95%E3%83%88


註6  インテレクチュアル・ベンチャーズ:Intellectual Ventures。発明特許権で収入を得るとして2000年の元マイクロソフト社の幹部が設立した会社。しかし実際は、自社開発特許よりも特許を買いあさっているようだ。会社の内部については余りよくわからない。
<http://www.intellectualventures.com/>
<http://japan.cnet.com/news/biz/story/0,2000056020,2009
0403,00.htm>
など。
アジアなどにも力を入れており、日本事務所がある。
<http://www.intven.jp/contact.aspx>

註7  デフェンス・グループ社:Defense Group, Inc.。安全保障や警備に関する、コンサルタントやトレーニング、ソフトウエアの研究開発、販売。
<http://www.defensegroupinc.com/index.html>
アメリカ国外における業務よりも国内業務の方にウエイトを置いているようだ。どちらにせよ「テロ戦争」ビジネスの一つ。

註8  TRW:TRW Incorporated。アメリカの大手自動車部品メーカーだが、今はノースロップ・グラマン社の子会社。従業員約15万6000名。自動車部品以外では防衛産業とくに人工衛星などの航空宇宙産業に実績があった。2002年ノースロップ・グラマンが買収してからは、その軍事産業部門はノースロップ・グラマン本体が吸収、現在は民需用自動車部品分野へ特化している。フォスターがTRWに在籍した時は、TRWが軍事産業部門に拡大していった時期と重なる。<http://en.wikipedia.org/wiki/TRW>

註9  ローレンス・バークレイ・ナショナル研究所:Lawrence Barkeley National Laboratory。1931年、アーネスト・ローレンスがカリフォルニア大学バークレイに、物理学部の付属施設として設立した研究所。現在はアメリカエネルギー省が所有する研究所になっているが、運営はカリフォルニア大学バークレイがあたっている。年間予算約5億ドルで場所は同大学敷地内にある。ローレンスは当初この研究所でサイクロトンの研究にあたっていた。当時物理学部長だったロバート・オッペンハイマーがこの研究に着目し発展させる。この研究が電磁分解式のウラン濃縮法の突破口となり、のちにテネシー州オークリッジにサイトY−12を建設し、原子爆弾用のウラン濃縮工場になる。オッペンハイマーもローレンスもマンハッタン計画の主要科学者となる。しかし50年代を通じてこの研究所は、非秘密研究を実施するものとされ、核技術や核兵器に関する研究は、ロス・アラモス研究所やローレンス・リバモア国立研究所に移管されていくといういきさつをたどる。フォスターがこの研究所の准所長だったころは、もう非秘密研究に特化していたころと考えられる。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Lawrence_Berkeley_National_Laboratory>

註10  DARPA:Defense Advanced Research Projects Agency。国防省の部局で、軍事目的に応用するのだが実に幅広い分野から、多種多様な発想で基礎研究を手掛けることを特徴とする。日本では「国防高等研究計画局」と訳されているようだ。
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%B
2%E9%AB%98%E7%AD%89%E7%A0%94%E7%A9%B
6%E8%A8%88%E7%94%BB%E5%B1%80>

ソ連のスプートニク人工衛星打ち上げに刺激されて、1958年に創設された。部局員240名に対して年間予算は32億ドルと巨額である。これは幅広く研究テーマを募って審査の上、予算をつけるというやり方を取っているため、実際の研究は外部委託である。だからここから資金を得て研究する科学者や研究者の中には自分が軍事研究をしているという自覚を持っていないものも多い。
<http://en.wikipedia.org/wiki/DARPA>



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ジョン・S・グレン (John H. Glenn) 委員(Member)


初期の宇宙飛行士で、後にオハイオ州選出民主党上院議員になって25年間つとめたジョン・グレンである。1921年生まれだから今年89才である。以下は「各委員の履歴」の引用。

 ジョン・H・グレンは1921年7月、オハイオ州ケンブリッジに生まれた。子供時代、彼の家族はオハイオ州ニュー・コンコードに移転、そこでグレンは小学校、中学校時代を過ごした。ニュー・コンコード高校卒業後は、マスキンガム・カレッジに入学、ニュー・フィラデルフィア飛行場で飛行の訓練を受けた。1941年に飛行士免許を取得。パールハーバーの後、カレッジをやめて海軍航空候補生プログラムに志願。1943年海兵隊に入隊した。1962年マスキンガム・カレッジから工学分野の科学学士を授与されている。第二次世界大戦中は、グレンは南太平洋で59回の戦闘出撃を行った。戦争後は、軍隊に残って海兵隊のパイロットになった。そして高級飛行訓練の教官もつとめた。朝鮮動乱の時には、海兵隊第311飛行大隊で63回、空軍に出向して27回出撃した。

(受勲の記述があるがカット)

 1954年、グレンは海兵隊テストパイロットに任命され、57年ロスアンジェルスからニューヨークまでの最初の大陸間横断超音速飛行の記録を達成した。59年、508名の候補者の中から7名のNASAマーキュリー計画宇宙飛行士の一人に選ばれた。3年後の1960年2月20日、地球を軌道飛行する最初のアメリカ人となる歴史を作った。そして5時間にわたって3回の地球軌道飛行を行い、生還して英雄として迎えられた。

 1965年大佐で海兵隊を退役し、ロイヤル・クラウン社の取締役に就任、後にはロイヤル・クラウン・インターナショナルの社長となった。
(ロイヤル・クラウン社は飲料のコーラの製造販売会社)

 この時、彼は民主党の活動家となり、オハイオ州で早い時期に環境保護問題に力を尽くした。1974年、上院議員に当選しオハイオ州88郡すべてを遊説した。1988年オハイオ州で最大の勝利を収めて上院議員に再選された。オハイオ州民は、1986年に3回目、1992年に4回目の再選でグレンを迎えた。彼はオハイオ州初の4期連続上院議員となって再び歴史を作った。彼は1998年上院議員を引退した。

 グレンは、1998年10月29日から11月7日の間、NASAのスペースシャトルSTS−95ディスカバリーの乗組員として宇宙に戻り、他の乗組員と共に宇宙飛行と加齢に関する83件の研究と探査を行って、地球を134回軌道飛行をし、213時間44分宇宙にとどまった。

(この後は、記念館開設の話なのでカット)

 ジョン・グレンは大統領選挙の民主党候補指名選挙に出馬した事にも触れないし、上院議員としての実績にも全く触れていない。事実さして実績はなかった。他の委員の経歴と事績と比較して、何故彼が委員の一人に選ばれたのかは私などには理解に苦しむが、それなりの内部事情があったのだろう。
<http://en.wikipedia.org/wiki/John_Glenn>


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モートン・H・ハルペリン (Morton H. Halperin)委員(Member)

 アメリカの政治学者。専門は外交政策論、核戦略論。ペンタゴン秘密文書事件の時、ダニエル・エルズバーグに文書を渡したのは彼ではないかという説もある。当時大統領ニクソンの「敵リスト」に名前が載っていたとされる。ニクソンに盗聴されていた事は事実のようだ。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Morton_Halperin>
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%
BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%
8F%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%B3>


 外交問題評議会と関係が深い。同じく外交問題評議会の重鎮、ヘンリー・キッシンジャーとはハーバード大学時代の同僚にあたる。以下は「各委員の履歴」の引用。

 モートン・H・ヘルペリンは、オープン・ソサエティ・インスティチュート(註1)及びオープン・ソサエティ政策センター(註2)のコンサルタントである。また彼は「アメリカの進歩」センター(註3)の上級研究員でもある。

 ヘルペリンは、クリントン、ニクソン、ジョンソン政権の時に連邦政府で働いていた。これら3政権の時いずれも担当は核政策及び軍備管理問題に関わっていた。1998年12月から2001年まで、彼は国務省政策立案局長をつとめた。1994年2月から1996年3月まで大統領特別補佐官であり、また国家安全保障会議(註4)の民主主義担当上級ディレクターだった。1993年、国防長官顧問及び政策担当国防次官をつとめ、さらに大統領指名による民主主義と平和維持担当の国防長官補佐官をつとめた。1969年、国家安全保障政策立案担当の国家安全保障会議スタッフの上級スタッフメンバーだった。1966年7月から1969年1月までは国防長官副補佐官(国際安全保障問題担当)、として政治軍事計画及び軍備管理問題に責任を負った。

 ハルペリンは96年3月から98年12月まで及び2001年1月から2003年12月まで外交問題評議会の上級研究員(核政策プロジェクトを指揮)だった。97年7月から98年12月まではセンチュリー財団/20世紀基金(註5)の上級副理事長だった。1992年11月から94年2月までは、カーネギー財団(註6)国際平和担当の上級メンバーだった。69年9月から73年12月まではブルッキングス研究所の外交政策研究の上級研究員だった。

 核政策、軍備管理及びその他外交問題に対する関与について付け加えるならば、ヘルペリンはアメリカ市民自由ユニオン(ACLU)で永年働いた。84年から92年までACLUワシントン事務所の所長だった。また75年から92年まで国家安全保障センターの所長だった。

 1960年から66年まで、ヘルペリンはハーバード大学で教鞭をとり、連邦政府学部の助教授、国際問題センターの上級研究員、ハーバードーMIT軍備管理セミナーの執行ディレクターなどを歴任した。ハルペリンはコロンビア大学、ハーバード大学、MIT、ジョージ・ワシントン大学、ジョン・ホプキンス大学、エール大学などで客員教授として教鞭を執ってもいた。

 ハルペリンは、単独または共著あるいは編著で、核政策や軍備管理に関するテーマで、1ダース以上の本を出版している。その中には「戦略と軍備管理」(1961年。トーマス・シェリングとの共著)、「核時代の限定戦争」(1963年)、「中国と核爆弾」(1965年)、「近代軍事戦略」(1967年)、「官僚政治と外交政策」(1974年)、「核の誤謬」(1987年)などがある。』

 またとりわけ国際開発協会(IDA)や国際戦略研究所(IISS)などに核問題に関する専攻論文を数多く著している。また文庫、新聞、雑誌、定期刊行物などに数多くの記事を寄稿している。こうしたものには、ニューヨーク・タイムス、ワシントン・ポスト、ニュー・リパブリック、ハーパーマガジン、フォーリン・アフェアーズ、フォーリン・ポリシーなどが含まれている。

 1938年ニューヨーク・ブルックリン生まれ。1958年にコロンビア・カレッジで学士を取得、1961年イエール大学において国際関係論で博士号を取得している。彼は外交問題評議会の会員であり、アメリカ市民の自由ユニオンの会員である。


註1  オープン・ソサエティ・インスティチュート:The Open Society Institute。有名な投資家ジョージ・ソロスが設立者で会長の社会改良主義的な研究基金。1993年、ジョージ・ソロスが中央ヨーロッパ、旧ソ連、東ヨーロッパに持っていた別財団を支援する目的で設立された。先行財団はこうした諸国から「共産主義」を取り除く目的で設立された、と英語wiki
<http://en.wikipedia.org/wiki/Open_Society_Institute>は説明している。
日本語では「開かれた社会」財団という言い方もされている。
<http://blog.livedoor.jp/ajf/archives/50935419.html>
オープン・ソサエティ・インスティチュート(OSI)自体は、その後ソロス財団と一体化する形で世界展開をはじめた。本部はニューヨーク。「民主主義的な政府の確立」「人権擁護」「経済発展」「教育推進」などの世界的普及をその旗印にしている。
<http://www.soros.org/>

註2  オープン・ソサエティ政策センター:The Open Society Policy Center。名前は似ているがOSIとは全く別組織。本部はニューヨーク。設立は2001年「9・11」以後としている。オープン・ソサエティ政策センター(OSPC)のCEO兼理事長はアライエ・ナイエル(Aryeh Neier 音の日本語表記については全く自信がない)で、OSIの理事長と同一人物である。(なおナイエルはナチス下のドイツで生まれ、2才の時にアメリカに移民した人権派の法律家)OSPCは自身のことを、「市民の自由、多国間主義(multilateralism)、経済発展、民主主義的権利、人権擁護、女性の人権、法の下の正義などの諸問題に関して主唱者になる。」と規定している。
OSPCのサイト
<http://www.opensocietypolicycenter.org/index.php>を見ると財政的な背景が全く不明。ジョージ・ソロスの金で運営していると推測する以外にはなさそうだ。

註3  「アメリカの進歩」センター:The Center for American Progress。2003年設立。本部はワシントンDC。サイトを見ると、「思想と行動を通してアメリカ人の生活を改善することを目指したシンクタンク」と自らを規定し、「セオドア・ルーズベルトやフランクリン・ルーズベルト、ジョン・ケネディ、マーチン・ルーサー・キングなどが示した進歩の思想の上に構築する。」といっている。超党派を標榜しているが、現在の理事長兼CEOは、ジョン・ポデスタ(John Podesta)である。ポデスタはクリントン政権の時のホワイト・ハウス主席補佐官だった。(首席補佐官の正式役職名は“White House Chief of Staff”である。これは日本風に理解すると、大統領府官房長ということになるが・・・)サイトを見る限り財政的な背景がわからない。一般から寄付金を募るという形式だが、英語Wikiを見ると、ジョージ・ソロスら一部の富豪家が資金をまかなっているという話があるそうだ。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Center_for_American_Progress>
<http://www.americanprogress.org/>
<http://en.wikipedia.org/wiki/John_Podesta>

註4 国家安全保障会議:The National Security Council。ホワイト・ハウスに設置されている事実上のアメリカ最高政策決定執行機関である。1947年トルーマン政権の時に国家安全保障法に基づいて設置された。常時メンバーは大統領、副大統領、国務長官、国防長官。適時大統領補佐官や統合参謀本部議長などがメンバーになる。
英語WIKI

<http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_National_Security_
Council>
は網羅的で大変参考になる。

註5  センチュリー財団/20世紀基金:The Century Foundation/Twentieth Century Fund。1919年創設のアメリカ公共政策シンクタンク。20世紀基金の運用で運営されている。著作、報告、出版物も数多い。英語Wikiは「アメリカの繁栄と安全保障は、効率のよい政府、開かれた民主主義、そして自由市場の混成の結果保たれる、という信念に基づいている。」と説明している。
<http://en.wikipedia.org/wiki/The_Century_Foundation>
本部はニューヨークでワシントンDCに事務所がある。
理事会会長はアラン・ブリンクリー(Alan Brinkley)、
理事長はリチャード・レオーネ(Richard C. Leone)。
<http://www.tcf.org/about.asp><http://www.tcf.org/>
これまでの理事の中で、著名な人物はアーサー・シュレジンジャー(Arthur M. Schlesinger, Jr.)ジョン・ケネス・ガルブレイス( John Kenneth Galbraith)、デビッド・リリエンタール( David E. Lilienthal)、ロバート・オッペンハイマー( J. Robert Oppenheimer)などの名前が見える。

註6  カーネギー財団:Carnegie Endowment。正式にはCarnegie Endowment for International Peaceでカーネギー国際平和財団と日本語で表記されていることもある。カーネギー財団(Carnegie Corporation of New York)とは別組織。本部はワシントンDC。1910年アンドリュー・カーネギーによって設立された国際平和問題シンクタンク。サイト<http://www.carnegieendowment.org/>を見ると、「グローバル・シンクタンクのパイオニア」というキャッチが見える。2008年まで機関誌「外交政策」(Foreign Policy)を定期刊行していた。初代理事長がエリヒュー・ルート、また歴代の会長の中にはジョン・フォスター・ダレス、ハーベイ・バンディなど、外交問題評議会との人的重なりあいが多いし、ハルペリンに代表されるように研究者も相当重なっている。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Carnegie_Endowment_for_International_
Peace>

http://icnndngojapan.wordpress.com/2009/02/19/%E3%
82%AB%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%AE%E3%83%
BC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%B9%B3%E5%92%8C
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リー・H・ハミルトン (Lee H. Hamilton) 委員(Member)

 ハミルトンは34年間にわたってインディアナ州から選出された民主党下院議員だった。1931年生まれ。1999年に引退。現在はウッドロー・ウィルソン国際研究者センター(註1)の理事長である。下院議員時代は、イラン・コントラゲート事件に関係した武器密輸に関する調査委員会の委員長をつとめた。また9/11調査委員会の副委員長をつとめ、最終報告書作成に関わっている。下院議員時代は国際問題の専門家だった。以下は「各委員の履歴」の引用。

 1999年1月、リー・H・ハミルトンはウッドロー・ウィルソン国際研究者センターの理事長に就任した。その以前はインディアナ州選出のアメリカ議会下院議員を34年間にわたってつとめた。その任期中、彼は下院国際問題委員会(現在の外交関係委員会)の委員長並びにランキング・メンバーだった。また1979年代初頭から1993年までヨーロッパ及び中東小委員会の委員長もつとめた。また諜報問題特別永久委員会、対イラン秘密武器調査特別委員会の委員長をそれぞれ歴任した。ハミルトン氏は国際問題に関する下院の声を主導する一人としての地位を築いた。特に民主主義の推進、旧ソ連や東ヨーロッパにおける市場改革、中東における平和と安定化、アメリカ市場と海外取り引きの拡大、アメリカの輸出及び外国援助政策を精査検証するなどの分野において実績があった。(註2)

 ハミルトン氏(原文にすべてMr.がついているのでこうしておく。)は、また一貫して議会機構や経済政策に関するリーダーの一人だった。議会機構に関する上下合同委員会の委員長として、また下院公式運営委員会の委員の一人として、彼はいくつかの倫理的改革に関する、主要な起草者だった。そして議会を一つの組織としてより効率的かつより統合的に改革する事を推進した。

 彼の出身州においては、教育の改善、職業訓練の改善、社会基盤の改善に力を尽くした。またインディアナ大学において議会センターを設立、その理事に就任した。

 ハミルトン氏は、国際関係問題、アメリカの国家安全保障問題に関する重要かつ能動的な存在の一人であり続けている。「21世紀国家安全保障アメリカ委員会」(ハートーラッドマン委員会)の委員、前上院議員のハワード・ベーカー氏と共同議長で、ロス・アラモスにおける安全保障に関する問題調査委員会(ハワードーハミルトン委員会)なども手掛けた。「アメリカに対するテロリスト攻撃国家委員会(9/11委員会)の副委員長に指名され、2004年7月報告書を提出、さらにトム・キーン知事と共に「9/11公共談論計画」の共同議長もつとめた。2006年3月「イラク研究グループ」の共同議長に指名された。2007年7月には国家戦争能力委員会委員に指名された。同委員会は超党派で組織された私的な評議会で、元国務長官のジェームズ・ベーカー三世とワレン・クリストファーが率いていた。

 ハミルトン氏はその政府における卓越した働き、公職活動及び人権擁護活動によって数々の賞を受けると共に、名誉学位も受けている。彼は「創造的緊張―大統領と議会の外交政策の役割」(2002年)、「いかに議会は機能するかそして何故注意を払わねばならないか」(2004年)の著者であり、また「もし大統領がなければ:9/11委員会の内幕」(2006年)、イラク研究グループ報告(2006年)の共著者でもある。

 フロリダ州デイトナ・ビーチで生まれ、家族とともにテネシー州、それからインディアナ州エバンズビルに移り住んだ。デ・ポウ大学、インディアナ大学ロースクールを卒業、またドイツのゲーテ大学に1年間学んだ。高校バスケットボール、大学バスケットボールのスターであり、インディアナ州バスケットボール名誉の殿堂入りをしている。下院議員になる前は、シカゴとインディアナ州コロンバスで法律事務所を開いていた。

(家族構成があるがカット)

 イラン・コントラゲート事件に関して当時レーガン大統領及びハーバート・ブッシュ大統領を訴追しようという声もあったがハミルトンは、「大統領にそうすべきでない。」と押しとどめたといわれている。「9/11報告書」「イラク研究グループ報告書」はまだ十分に批判検討されたとはいえない。


註1  ウッドロー・ウィルソン国際研究者センター:The Woodrow Wilson International Center for Scholars。サイトは<http://www.wilsoncenter.org/>。たまたま1月の論考で「イランと対話は可能か?」「南アジアにおける核抑止に対するアメリカの役割」という興味深い記事が載っている。核問題に関する論考はアメリカの核シンクタンク、研究所で一斉に議論されており、5月のNPT再検討会議へ向けて着々準備が整いつつあるように見える。同センターはワシントンDCにあり、1968年議会が、スミソニアン・インスティチュートの一部門として設立した。ウィルソン大統領を記念して命名された。なおウイルソンは博士号をもつただ一人の大統領だそうだ。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Woodrow_Wilson_International_Center
_for_Scholars>


「ウイルソン大統領の理念を実現するため、内外の研究者が共に切磋琢磨する」(大意)のが設立の趣旨。連邦政府と民間の共同運営の形を取っており、年間予算の1/3は連邦政府から支出され、残りはスミソニアンの基金、後は個人・法人の寄付、発行物収入などで運営されている。

註2  「特に民主主義の推進、旧ソ連や東ヨーロッパにおける市場改革、中東における平和と安定化、アメリカ市場と海外取り引きの拡大、アメリカの輸出及び外国援助政策を精査検証するなどの分野において実績があった。」の文章は恐らくハミルトンの考え方を表現している。アメリカによる「民主主義の推進」とは「自由な経済活動」が第一義的であり、それは世界における金融市場、投資市場、商品市場の拡大に他ならない。


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フレッド・チャールス・アイクル(Fred Charles Ikle) 委員(member)

 1924年生まれ。ソ連のアフガニスタン侵攻はアフガニスタン人民の粘り強い戦いで失敗に終わったが、戦術的にはアメリカが、アフガニスタンの対ソ連ゲリラに対して携行式地対空ミサイル(スティンガー)を大量共与した時がターニング・ポイントだとされる。当時レーガン政権の国防次官だったアイクルの強い進言で、CIAの反対を押し切って、アメリカはスティンガーミサイルの共与に踏み切った。以下は「各委員の履歴」の引用。

 フレッド・C・アイクルは戦略国際問題研究所(註1)の「碩学」(Distinguished Scholar)の一人である。最近国家安全保障及び民主主義に与える技術の強い影響についての研究に従事している。現在国防政策諮問委員会(シュレジンジャーの項註3参照)の委員、スミス・リチャードソン財団(註2)理事、北朝鮮人権問題アメリカ委員会(註3)の理事、アメリカ外交政策諮問会(註4)顧問委員会委員などでもある。

 1988年、戦略問題研究所に参加する前は、第1期及び第2期レーガン政権の政策担当国防次官だった。1987年、超党派で結成された統合長期戦略委員会の共同委員長だった。この委員会は「差別の抑止」(Discriminate Deterrence)という報告書を出版した。アイクルは国防省で文民が受ける最高の賞を受賞している。

(後2つ受賞の記述があるがカット)

 1973年から77年まで、アイクルはニクソン、フォード両大統領に仕え、アメリカ軍事軍縮局局長をつとめた。77年・78年は共和党全国委員会の国際安全保障諮問委員会の委員長をつとめた。1979年から80年にかけてはロナルド・レーガン知事外交政策顧問団のコーディネーターだった。

 アイクルは9年間民主主義のための全米財団の理事をつとめ、99年から00年はテロリズムに関する全米委員会の委員をつとめた。彼はテロス・コーポレーション(註5)の取締役会長、チューリッヒ・ファイナンシャル・サービス(註6)の取締役を歴任。1968年から72年まではランド・コーポレーション(シュレジンジャーの項註5参照)の社会科学部門の長をつとめた。1964年から67年まで、マサチューセッツ工科大学政治科学の教授、ハーバード大学国際問題研究所(62年―63年)、ランド・コーポレーション(54年―61年)、コロンビア大学応用社会研究局(50年―53年)などに籍を置いた。

 アイクルは「爆弾破壊の社会的影響」(58年オクラホマ大学出版)、「いかに国家は交渉するか」(ハーパー&ロウ64年)、「内からの残虐」(コロンビア大学出版06年)、などの著作がある。アイクルは「フォーリン・アフェアーズ」「フォーチュン」「ナショナル・インタレスト」及び各新聞の意見欄に数多くの記事を書いてきている。』


註1  戦略国際問題研究所:The Center for Strategic and International Studies CSIS。もともとはジョージタウン大学の研究所として1964年、元海軍提督のアーレイ・バークと外交官のデービッド・アブシャイアが設立した。1987年ジョージタウン大学との関係はなくなった。本部ワシントンDC。「政府などの政策決定者に戦略的視点と政策的解決方法を提供する」(大意)というのが使命だとしている。有名な割にはスタッフ200名、年間予算規模約3000万ドルと規模は小さい。75%は法人、財団、個人からの寄付。残りは基金運用、出版物販売、政府との委託契約などから得ている。ただし、バックにいる人脈は凄い。会長は長く上院軍事委員長を務めた軍産複合体制のドン、サミュエル・ナン。理事会にはキッシンジャー、ズビグニュー・ブレンジンスキー、ウイリアム・コーエン、ジョージ・アギュロス、ブレント・スコウクロフトなどがいる。過去にはマデレーン・オルブライトなども関係していた。オルブライトは元国務長官といよりも、外交問題評議会の有力メンバーである。日本語Wikiは小泉進次郎が一時籍を置いた事がある、と書いているがどうだろうか?本人がそう言っているなら何をしていたかをよく聞いてみなければならない。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Center_for_Strategic_and_Inte
rnational_Studies>

<http://csis.org/homepage>
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/CFR/02.htm>
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E7%95%A5
%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%95%8F%E9%A1%8C%
E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80>


註2  スミス・リチャードソン財団:The Smith Richardson Foundation。1935年スミス・リチャードソンとその妻によって設立された財団・基金。リチャードソンは対面販売のドラッグ・ストア経営から大衆保健薬のメーカー、ビックス・ケミカル社を設立した。「ビックス」ののど飴で有名な会社である。その後リチャードソン家はこの会社をプロクター&ギャンブル社に売却した。スミス・リチャードソン財団は、「アメリカ国内外で当面する公共政策に関して広く論議をおこし世論を喚起する。」(大意)がその使命だとしている。本部はコネティカット州ウエストポート。07年の基金総額は8億2700万ドル。主として民間研究所や大学に対して資金提供を行っており、07年約2350万ドル。資金提供先には、外交問題評議会、戦略国際問題研究所、ブルッキングス研究所、ランド・コーポレーションなどの名前が見える。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Smith_Richardson_Foundation>
<http://www.srf.org/>

註3  北朝鮮人権問題アメリカ委員会:the U.S. Committee for Human Rights in North Korea。2001年10月、著名人グループによって設立された委員会で、北朝鮮における人権迫害状況について広く世論を喚起し、その人権状態の改善を模索することを目的としている。本部はワシントンDC。夥しい数の出版物を出している。ただサイトを見ると、メンバーが誰なのか、財政状況がはっきりしない。
<U.S. Committee for Human Rights in North Korea>
<http://www.hrnk.org/>

註4  アメリカ外交政策諮問会:the American Foreign Policy Council。1982年設立された外交政策に関するシンクタンク。専門家の意見や提言を連邦政府や政府各部局に推進する事、また世界のリーダー(特に旧ソ連諸国)に伝える事を目的としている。本部はワシントンDC。サイト(<http://www.afpc.org/>)を見てみると、理事会メンバーのリストはなく、諮問委員会のリストが掲載されている。諮問委員会は元国務省高官、国防省高官、元アメリカ議会議員で占められている。
<http://en.wikipedia.org/wiki/American_Foreign_Policy_Council>

註5  テロス・コーポレーション:Telos Corporation。非上場のコンピュータ・ソリューション会社。製品は空軍向けソリューション、国防省購買本部向けソリューション、陸軍向けコンピュータ製品やネットワークなど明らかに防衛産業企業である。テロスはかつてナスダックに上場していたが、98年にコンテル・コーポレーションがテロスを買収する形で合併している。
<http://www.encyclopedia.com/doc/1G1-7934142.html>
<http://www.telos.com/>

註6  チューリッヒ・ファイナンシャル・サービス: Zurich Financial Services AG。1872年創立。本社をスイス・チューリッヒにおく世界的な総合保険会社。現在は持ち株会社化している。グループ全体の従業員は、全世界で57600名、総資産は約3280億ドル。年間総収入は約320億ドル、30億ドルの赤字を出した。(いずれも08年)日本でも「チューリヒ」の名前で保険事業を展開している。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Zurich_Financial_Services>
<http://www.zurich.com/main/home/welcome.htm>
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5%
E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E4%
BF%9D%E9%99%BA>


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キース・B・ペイン (Keith B. Payne) 委員(Member)

 キース・ペインの生年は確認できなかったが、1976年にカリフォルニア大学バークレイの政治科学の学士号を得ているので1950年代半ばの生まれと思われる。博士号は81年南カリフォルニア大学で取得(国際関係論)している。ブッシュ政権時、兵員政策担当の国防長官副補佐官に就任している。核戦略政策の専門家と見なされている。以下は「委員の履歴」の引用。

 キース・ペインは、バージニア州フェアファックスに本部を置く、非営利法人の研究所、全米公共政策研究所(註1)の共同創立者であり、現在理事長である。同研究所では、アメリカの戦略政策、軍事態勢問題、軍備管理、ミサイル防衛(BMD)、ロシア外交政策などのテーマで研究に参加、統括している。またペインはミズーリ大学の国防戦略研究大学院(ワシントン・キャンパス)の長をつとめている。また2005年、ジョージタウン大学で21年間教鞭を執ったことに対して、バイセニアル賞を受賞している。

 2002年と03年、いったん公共政策研究所を離れて、兵員政策担当の国防長官副補佐官をつとめた。ラムズフェルド国防長官(=当時)から「卓越せる公職章」を授けられた。またペインは同盟国からの諮問に関してその代表団団長を数多くつとめた。またロシア連邦とのミサイル防衛協力交渉の代表団長もつとめた。

 ペインは「比較戦略:インターナショナル・ジャーナル」誌の編集長であり、戦略命令上級諮問団政策部会部会長、アメリカ核戦略フォーラムの共同議長、また国務省国際安全保障諮問委員会委員(シュレジンジャーの項註4参照)などをつとめている。またペインは政府や民間の研究に参加したり、そのリーダーをつとめている。ホワイト・ハウスの「アメリカーロシア協力関係研究」や国防省の「ミサイル防衛・軍備管理・拡散研究」、国防省の「抑止概念諮問グループ共同議長」などがそうである。彼はまたホワイト・ハウスの科学技術政策室、軍備管理軍縮局のコンサルタントであり、また1998年ミサイル拡散に関する“ラムズフェルド研究”にも参加した。

 ペインはまたしばしば、議会委員会での証言に立っている。(註2)また北米、ヨーロッパ、アジアの各カレッジ、大学において防衛・外交政策問題で講演を行っている。彼は著者または共著者として100本以上の記事と16冊の本と論考を発表している。彼の最近の本は「偉大なアメリカのギャンブル:冷戦から21世紀への抑止政策と理論」である。

 ペインの記事は主要なアメリカ、ヨーロッパ及び日本の専門紙誌、「フォーリン・アフェアーズ」「フォーリン・ポリシー」「オービス」「ポリシー・レビュー」「ストラテジック・レビュー」「ワシントン・クオータリー・レビュー」「ジャンのインテリジェンス・レビュー」「ミリタリー・スペクテイター」「エア・ユニバーシティ・レビュー」「パラメーターズ」「コンパラティブ・ストラテジー」「エア・フォース・マガジン」「科学と技術問題」「ハーパーズ・マガジン」「ウォール・ストリート・ジャーナル」「クリスチャン・サイエンス・モニター」「USAツデイ」などに登場している。』

註1  全米公共政策研究所:外交問題、国際安全保障などに関するシンクタンク。本部はバージニア州フェアファックス。サイト<http://www.nipp.org/>を見るとどうもこれはペインの個人的研究所らしい。ペイン自身が「所帯20人の小さな研究所」と書いている。アメリカには、こうした個人の見過ぎ世過ぎのためのシンクタンクが無数にある。

註2  たとえば次。<http://foreignaffairs.house.gov/111/pay062409.pdf>


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C.ブルース・ターター (C. Bruce Tarter) 委員(Member)

ターターは元ローレンス・リバモア・研究所所長。所長としては第8代目。以下は「各委員の履歴」の引用。

 C.ブルース・ターターはローレンス・リバモア・研究所及びカリフォルニア大学の名誉理事であり、1952年創設の同研究所を8代目の所長として率いていた。彼は経験と訓練による理論物理学者であるが、その物理学者としての職歴をほとんど同研究所で過ごしている。所長として、その難しい時代における重要な諸問題に対して科学と技術を応用して国家の安全保障を確かなものとする使命に基づいて研究所を指導した。(註1)研究所は、アメリカの核兵器貯蔵計画と大量破壊兵器によって引き起こされる世界の危険を削減するというエネルギー省の計画の主要な貢献者の一つだった。

 ターターはマサチューセッツ工科大学で学士号を取得し、コーネル大学で博士号を取得した。ローレンス・リバモア研究所における職歴は1967年、理論物理学家部門におけるスタッフとして始まっている。彼の研究はスーパーコンピュータを使った計算に集中された。高温・高熱における領域の計算で、これは核兵器、融合、エネルギー、宇宙物理学に応用された。1978年には理論物理学部門長になった。

 1980年代を通して、彼はカリフォルニア大学とより鞏固な結びつきと相まって、研究所全体の指導者の一人になっていく。彼は数多くの機関設立委員会や作業部会で働いた。そして研究所を長期計画委員会のメンバーの研究所として、研究所の戦略的方向性を計画委員会に合致させるよう定式化するよう支援した。1988年、彼は物理学担当の准理事として研究所の上級経営階層に参加した。この地位で、彼は、兵器物理学、月面着陸を果たした「クレメンタイン・ミッション」を導く事になった宇宙工学、地球的な気象や環境研究に基づいた幅広い諸計画などに、その範囲を拡大していった。

 ターターは1994年、短い副所長及び所長代理の時期を経て、1994年所長に選任された。彼は「ポスト冷戦時代の核兵器世界」への移行期間中研究所を指導し、アメリカの核貯蔵を遵守していくという近年の計画の基礎を築いた。彼はまた不拡散及び抗テロリズムに対応した諸計画作成、またエネルギー、環境、バイオ科学に関する諸計画作成にも働いた。(註2)以来2002年前半まで所長として勤務し、それから1年半の無任所准所長(Associate Director At Large)を経て、2004年所に退職した。

 彼の研究所時代の活動について付け加えるならば、彼はその専門性を活かして数多く研究所外活動を行っている。たとえば6年間の陸軍科学団(註3)、カリフォルニア大学デイビス校での臨時教授、カリフォルニア科学技術諮問委員会、研究所運営委員会(エネルギー省長官諮問委員会)、太平洋国際政策評議会(註4)、核エネルギー研究諮問委員会(註5)、外交問題評議会、国防科学委員会(註6)、ドレイパー研究所(註7)の理事会理事などの活動がそうである。

(以下所属学会や受勲、受賞などの記述なのでカット)。』

註1  マンハッタン計画時代の多くの科学者は、自分たちが「人類絶滅兵器」の開発に携わっていることをよく理解していた。そしてそのことと科学者としての使命=人類の発展に寄与すること、との間の矛盾に深刻に悩んでいた。そして科学者もまた地球市民の一人であり、その立場から「原爆の使用」やその開発に大きな疑問を抱いていた。
(たとえば「フランク・レポート」「シラードの大統領請願書」
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/flanc_report.htm
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/seigansho.htm>
これに対して、恐らく彼らの次の世代の科学者の一人であろうターターには全くこうした葛藤は見られない。このことには注目しておく必要がある。

註2  対テロ戦争は「9/11」の後、突然浮上してきたテーマのように思われがちであるが決してそうではない。90年代を通して「冷戦に替わりうる戦争」として着々と準備されていた。数多くの証拠がある。

註3  陸軍科学団:Army Science Panel。陸軍長官への科学者諮問機関。第二次大戦前は、軍部と科学者の間には一定の垣根があった。第二次世界大戦がはじめるとアメリカの軍部は戦争遂行のための科学的R&Dの必要性に迫られた。1944年、陸軍長官ヘンリー・スティムソンの主導で「陸軍科学諮問団」が設立された。その後1947年の国家安全保障法に基づいて、国防省が創設され陸軍省が国防省の1部局となり、1977年連邦諮問法が成立した時に、それまでの科学諮問団が現在の陸軍科学団に改編された。

註4  太平洋国際政策評議会:Pacific Council on International Policy。1995年に設立された非営利法人で、一種のシンクタンク。
サイト<http://www.pacificcouncil.org/Page.aspx?pid=326>を見るとエネルギー問題、環境問題に力が入っているようだ。カリフォルニア州を中心として問題を捉えている。
英語Wiki(<http://en.wikipedia.org/wiki/Pacific_Council_on_
International_Policy>
)は設立当初から外交問題評議会とパートナーシップをもっていると書いている。会長は電力会社大手のエジソン・インターナショナルの会長、ジョン・ブライソンと元国務長官のワレン・クリストファー。理事会メンバーの中には日本人で唯一、岡本行夫
<http://www.yukio-okamoto.com/index2.html>)が入っている。財政的な基盤は全く不明。

註5  核エネルギー研究諮問委員会:Nuclear Energy Research Advisory Committee。エネルギー省の諮問委員会。直接的には担当長官補佐官に答申する。
(http://www.ne.doe.gov/neac/neNeacOverview.html)

系統的にはエネルギー省の核エネルギー局に属する。

註6  国防科学委員会:Defense Science Board。国防長官に答申する科学者の諮問委員会。
1956年設立。メンバーは指名された科学者であるが、軍人は除外される。

註7  ドレイパー研究所:Draper Laboratory。1930年代、マサチューセッツ工科大学教授、チャールス・スターク・ドレーパーはMIT内に精度の高い科学機器の設計や飛行機の動きを調べ学生に教える研究所を作った。第二次世界大戦中、連邦政府から慣性航法装置の研究委託を受けこの誘導システムの研究を発展させる。この技術は弾道ミサイルなどに使われる。こうして国防省との結びつきを深め大きく発展するが、1973年、反戦運動の厳しい批判を受けてMITから切り離して独立の非営利法人となった。本部はマサチューセッツ州ケンブリッジ。現在では研究の幅が広がっているが、国防省が最大の発注先であることは変わらないようだ。
サイト(<http://www.draper.com/>)を見ると、主要な分野は「戦略システム」「戦術システム」「バイオケミカル工学」などが業務分野としてあがっている。従業員約1400名。


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エレン・D・ウイリアムス (Ellen D. Williams) 委員 (Member)

 エレン・ウイリアムスは、1953年生まれの物理学者。メリーランド大学が主として彼女のホームグラウンドである。全米科学アカデミーのある記事<http://www.pnas.org/content/105/43/16415.full>は、「彼女は有機エレクトロニクス材料分野に精力を費やした。こうした材料はプラステック材料や新しい電子材料分野に対して、伝統的なシリコンを基礎においた材料よりたやすく結合できる。」と評している。以下は「各委員の履歴」からの引用。

 『  1953年、ウィスコンシン州オシュコシュの生まれ。ミシガン州リボニアで育った。1976年ミシガン州立大学で科学学士を取得。1981年カリフォルニア工科大学で博士号を取得している。それからメリーランド大学物理学部に参加。メリーランド大学では、国防省と米国国立科学財団(註1)から資金を得て、走査型トンネル顕微鏡(註2)を定量分野や構造的変動の解析分野に応用する研究を開拓した。現在ではこのアプローチを、ナノエレクトロニクス(註3)応用のための新しい電子材料の開発に応用している。彼女の研究は180種類の関連出版物に発表されており、数々の賞で認められている。

(以下受賞歴が並ぶがカット)

 2003年にはアメリカ人文科学アカデミー(註4)の会員に、また2005年には米国科学アカデミー(註5)の会員に選出された。

 1995年米国国立科学財団(NSF)の支援を得て、メリーランド大学に材料研究工学センターを開設した。この研究所は連携研究計画を支援し、科学・工学・技術・材料工学の分野でこれから自分の職歴を築こうとしている大学入学前の学生を励まし支援する外延計画を進展させている。彼女は引き続きこのセンターの所長をつとめるかたわら、各種専門委員会や再検討及び諮問会議など専門分野でも活発に行動している。また物理学会賞選考委員会委員(1996年、1998年、2008年)、サイエンス・マガジンの再検討編集者委員会委員(2008年から現在まで)、「ナノ・レター」の編集委員会委員(2001年から現在まで)、凝縮系物理学年鑑委員(2008年から現在まで)などの編集編纂委員会も活発である。

(以下全米有名大学での外部諮問委員会の役職が並ぶがカット)


 1993年、ウイリアムスは独立型政府諮問グループである「JASONs」(註6)に参加した。そして、兵器貯蔵防護、エネルギー資源、ナノ技術、通常兵器即時地球規模攻撃(註7)、知的生産向上(註8)、位相配列レーダー・システム(註9)など極めて幅広い研究に携わった。これに関連した公的活動は、カリフォルニア大学学長諮問委員会の国家安全保障会議メンバー(2000年―2007年)、NNSA助言委員会委員(註10)(2001年・2年)、アメリカ情報統合情報機関のためのNRCナノテクノロジー委員会(註11)(2003年・4年)、アメリカ科学振興協会核兵器複合体評価委員会(2006年・7年)、NRC通常兵器即時地球規模攻撃能力に関する委員会(2007年・8年)、NRC軍事科学委員会(2007年―09年)などの各委員、メンバーなどがある。』


註1  米国国立科学財団:National Science Foundation NSF。日本語では「アメリカ国立科学財団」「全米科学財団」の訳語も当てられているが、同財団は東京事務所ももっており、そのサイト(<http://www.nsftokyo.org/index-j.htm>)では、「米国国立科学財団」と表記されているのでそれに従う。1950年米国科学財団法に基づいて設立された連邦政府機関である。非医科学系の基礎科学分野全般のレベルアップのために資金供与するのがその基本機能。全米の大学における基礎科学(非医療系)に必要な研究資金の約20%をまかなっているという。本部はバージニア州アーリントンで職員数は1700名。年間予算規模は約60億ドル。予算規模に対して職員数が少ないのは自前の研究設備を持たず、申請審査と資金供与、研究結果の評価に徹しているためである。なお医療系では、アメリカ国立衛生研究所が同等の機能を果たしている。財団は所長・副所長が執行機関、政策決定機関は24名からなる理事会で、いずれも大統領が直接任命する。この財団の設立前史を調べていくと、「マンハッタン計画誕生」の背景に根拠が求められるので面白いがここでは割愛。近年その予算規模を増強しており、1983年の10億ドルから2008年の60億ドルに加速度的に増やしている。設立当初の51年の予算規模は、わずか17万1000ドルだった。この状態を見て、日本の識者の中には、「アメリカは基礎科学に厖大な資金を投入している。日本は立ち後れている。」と指摘する人もいる。しかし私はアメリカと日本の間にはアメリカ主導の、一種の「科学投資水平分業」が行われており(勿論それは秘かな水平分業であるが)、日本はアメリカの先端技術開発の成果を受けてその応用技術開発に資金を投下しているのではないかと疑っている。「アメリカ従属下の科学技術開発」と言い替えてもいいかもしれない。特に医科学分野ではその傾向が顕著である。以下のサイトが参考になろう。
<http://en.wikipedia.org/wiki/National_Science_Foundation>
<http://www.nsf.gov/>
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%
E3%83%AA%E3%82%AB%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E
7%A7%91%E5%AD%A6%E8%B2%A1%E5%9B%A3>


註2  走査型トンネル顕微鏡:Scanning tunneling microscopy。「物質の表面を原子レベルで画像化する極めて強力な機器。発明者のゲルト・ベーニッヒとハインリッヒ・ローラー(IBMのチューリヒ研究所)はこの発明でノーベル賞を受賞している。」
<http://en.wikipedia.org/wiki/Scanning_tunneling_microscope>は参考になる。
日本語Wiki<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B0%E6%9F%BB
%E5%9E%8B%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D
%E3%83%AB%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1>
は読めば読むほどわからなくなる。書き出しは「走査型トンネル顕微鏡(そうさがたトンネルけんびきょう、Scanning Tunneling Microscope)は1982年、ゲルト・ビーニッヒ(G. Binnig)とハインリッヒ・ローラー(H. Rohrer)によって作り出された実験装置。STM、走査トンネル顕微鏡とも言う。」である。この註の冒頭の「」内は実は英語Wikiの書き出しの翻訳である。「説明」という作業は「本質」を抽出する作業である。一つの事象には無限の本質がある。その無限の本質の中から、重要度に応じて叙述するのが説明であろう。私は特に科学技術・医学分野で、日本語の説明を読んでもわからないが、英語の説明を読むとわかる、という経験を何度もした。これは日本語が科学的説明に適さない言語なのだろうとも思った。しかしそうではなく、日本語の科学者が予備知識を持たない一般市民を対象にした説明作業を不当に等閑視している結果だ、と思うようになっている。

註3  ナノエレクトロニクス:nanoelectronics。適当な訳語が見つからなかったのでやむを得ずこうした。「nano-」はラテン語に語源をもつ接頭語で「10億分の1」という意味をもつ。

註4  アメリカ人文科学アカデミー:The American Academy of Arts and Science AAAS。アメリカ独立戦争時の1780年ボストンに設立された。複雑で集合的な諸問題を、集学的(学際的)アプローチで研究することを目的としている。「利益、名誉、尊厳、自由で独立しかつ美徳をもった人々の幸福を、前進させるすべての人文科学を涵養する」がモットー。アメリカ独立時のほとんどの分野における指導者が結集している。現在までに200人のノーベル賞受賞者を出しているという。現在約4000名の会員と600人の名誉外国会員がいる。
<http://www.amacad.org/>

<http://en.wikipedia.org/wiki/American_Academy_of_Arts_and_Sciences>

<http://www.amacad.org/about/council.aspx>

<http://www.amacad.org/about.aspx>

本部は現在はマサチューセッツ州ケンブリッジ。
なお日本語Wiki
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A
1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%8A%B8%E8%A1%
93%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%82%A2%E3%82%
AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC>
)は「アメリカ芸術科学アカデミー」としているが、これはどうだろうか?ここでいう「Arts」は、複数形になっており芸術だけをさすのではなく広く人文科学一般を指すのではないだろうか?その方が趣旨からしても、歴史からしても、会員構成からしても、活動内容からしても適切だと思える。

註5  米国科学アカデミー:United States National Academy of Sciences  NAS。科学、工学、医学の分野で公共の利益(Pro Bono)のために働き、国家に有益な助言のできる科学者の集まりとされている。その起源を南北戦争前に持つが、現在の体制が出来たのは、1863年リンカーン大統領の時で、議会憲章が制定する団体に指定された。アメリカ人文科学アカデミーが、議会や政府から全く独立した集まりであるのに対して、米国科学アカデミーは議会の指定したアメリカ国家の科学者の集まりである。2009年の春現在会員は、2100名。外国賛同会員は360名。約200名近くがノーベル賞受賞者という。自然系科学者の集まりとしてはアメリカ国内でもっとも権威ある団体といってよかろう。なお日本語Wikiは、日本人賛同会員をリストアップしている。
(<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E7%B1%B3%
E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%82%A2%E3%82%AB%E
3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC
>)
<http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_National_Academy
_of_Sciences>

<http://www.nasonline.org/site/PageServer>

註6  JASONs: JASON Defense Advisory Group。JASONsは科学者のアメリカ連邦政府に対する研究・諮問グループの総称。主として夏の機関に集まり討論する。スポンサーになっているのは、1960年に作られ、費用は主として、国防省(といってもDARPA=ジョン・S・フォスターの項註10参照の事、や海軍省であることが多い。)やエネルギー省、アメリカの情報諜報統合機関である事が多い。ほとんどの報告は非公開であるという。また現在メンバーは30人から60人というが、指名されるのは、科学者の重鎮クラスではなくその次世代の若手中堅科学者が中心。英語Wiki
<http://en.wikipedia.org/wiki/JASON_Defense_Advisory_Group>
を見ると、彼らの研究リストのうち公開分が掲載されている。圧倒的に非公開のものが多い。エレン・ウイリアムの履歴と合わせ読むと、ウイリアムスは中堅科学者の時に研究者として注目され、JASONsのメンバーに指名され、そこで幅広く軍事関連の研究を行って頭角を顕したという事になる。

註7  通常兵器即時地球規模攻撃:Conventional Prompt Global Strike。「非核迅速広域空爆」と訳されていることもあるが、この「prompt」は迅速という意味よりも「迅速かつ即時」という意味が強いのでこう訳した。要するに核兵器を使わずに、通常兵器で敵の核施設を地球規模で即時攻撃するという考え方。ブッシュ政権の時に急に云われたように思っていたが、今回調べて見て実に長い歴史があるのだとわかった。通常兵器といっても、単に核爆弾や核弾頭を使わないというだけで、中身はハイテク近代兵器を使う。
<[PPT] Global Strike - National Defense Industrial Association (NDIA) -。>
<http://www.dtic.mil/ndia/2001missiles/bille.pdf>
<http://www.nap.edu/catalog.php?record_id=11951>など多数。
日本語のものでは
<http://crds.jst.go.jp/watcher/data/494-002.html>
<http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5235045.html>などが参考になる。

註8  知的生産向上:human performance。Human performance Technology(知的生産向上技術)とかHuman performance Improvement(知的生産能力改善)という風に使っているケースが多い。エレン・ウイリアムは単にhuman performanceと記している。英語Wiki
<http://en.wikipedia.org/wiki/Human_performance_technology>
を見てみると、「知的生産向上技術とは個人または組織の生産性を改善するシステム的なアプローチ」とした上で、「これは、行程改善、シックス・シグマ(<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%83%E
3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%
82%B0%E3%83%9E
>)、シックス・シグマ学習、組織改善、意欲、指導技術、人的要素、学習、支援システム能力、知的管理法、訓練などに関連した研究分野で、組織レベルの成果改善、行程レベル、また個人レベルの成果改善にその狙いをあてている。」と説明している。日本語サイトを見てみると、早速このハイカラな学問で、一山あてようという「ランドリー学者」先生がうようよいる。
(日本語にクリーニングするにもコツがいるが・・・)

註9  位相配列レーダー・システム:phased-array radar system。
日本語Wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%
83%BC%E3%82%BA%E3%83%89%E3%82%A2%E3%
83%AC%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%
83%80%E3%83%BC
>を参照の事。
なおこの記事で、「位相配列レーダーにはアクティブ(信号を送受信する)とパッシブ(信号を受信)だけするものと2つある。アメリカでは普通パッシブだけを指す。」といっているが、これはこの技術が、アメリカでは軍事用レーダーに応用されているからである。パッシブでは敵方から探知されないが、アクティブでは逆探知される恐れがあり、軍事技術には不適切である。

註10  NNSA助言委員会委員:NNSA Advisory Committee。NNSAはNational Nuclear Security Administrationの頭文字でエネルギー省の一部門で国家核安全保障局と訳されている。
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%
B6%E6%A0%B8%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF
%9D%E9%9A%9C%E5%B1%80>

2000年ブッシュ政権の時に新設された。
英語Wiki
<http://en.wikipedia.org/wiki/National_Nuclear_Security_
Administration>
)の書き出しは、「核エネルギーの軍事的応用(要するに核兵器のことである)を通じてアメリカの国家安全保障状況を改善する。またNNSAはアメリカの核兵器貯蔵の安全性、信頼性、働きを維持向上することもその機能である。こうした活動には、国家安全保証の要求を満たすための(核兵器の)設計、製造、実験能力維持向上させる事も含まれる。」である。そしてアメリカの国家安全保障に関する4つの使命を次のように記している。

アメリカ海軍に安全で、軍事効率に優れた推進力工場を提供し、それらの工場の安全で信頼性の高い運営を保証する事。
国際的に核の安全と不拡散を推進する事。
(カン違いしないで欲しいのは、世界のために行うのではなく、アメリカの安全保障のために必要な使命であることだ。)
大量破壊兵器による地球規模の危険を削減する事。
科学技術の分野におけるアメリカのリーダーシップを支援する事。』

 現在職員数は少なくとも1500名、年間予算規模は91億ドル(いずれも2006年)。なお「マンハッタン計画」の時に電磁分解法でウラン濃縮を行ったテネシー州オークリッジ工場はサイトY−12として現在も同局の傘下にある。ウイリアムスの履歴書は単にNNSAの助言委員会の委員だったというだけでどの委員会なのかはわからない。

註11  アメリカ情報統合情報機関のためのNRCナノテクノロジー委員会:NRC Committee on Nanotechnology for the Intelligence Community。NRCは米原子力規制委員会(Nuclear Regulatory Commission)。アメリカ情報統合機関というのはアメリカ政府部内にある情報部局や諜報部局を統合した機関名のことで英語の「The U.S. Intelligence Community」は一般名称ではなく、固有名称である。1981年レーガン政権の時に大統領令で新設された。傘下には関係部局、CIA、国防省(8部局)、エネルギー省(1部局)、国土安全保障省(2部局)、法務省(2部局。これはFBIと麻薬取締局)、国務省(1部局)、財務省(1部局)の16部局が参加している。この履歴書で言っている事は、米原子力規制委員会の中に「ナノテクノロジー」に関する委員会があって、その委員会は情報統合機関へむけての情報提供や研究を実施する、私はその委員になりましたよ、という事だ。
<http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Intelligence_
Community>

<http://en.wikipedia.org/wiki/Nuclear_Regulatory_Commission>
<http://intelligence.gov/1who.shtml>
<http://www.nrc.gov/>


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R・ジェームズ・ウールジー (R. James Woolsey)委員 (Member)

 ウールジー(Robert James Woolsey Jr.)は、ビル・クリントン政権の時の第16代CIA長官である。1941年生まれ。
英語Wiki(<http://en.wikipedia.org/wiki/R._James_Woolsey,_Jr.>)はウールジーを外交政策の専門家と位置づけている。それ以上にウールジーが不思議な存在なのは、民主党員でありながら、ネオコン的傾向を持っている事である。従って共和党にも受けがよい。英語Wikiは、「ウールジーは、第一義的にはネオ保守主義の民主党員として知られている。外交政策問題に関してはタカ派、しかし経済、社会問題についてはリベラル派。彼はジョン・マケインを大統領にする動きに参加し、マケインの外交政策に関する顧問の一人だった。」と書いている。しかし、アメリカは「金融資本主義党一党独裁国家」であり、共和党・民主党も金融資本主義党の別々の政治的看板だと考えれば、ウールジーのような存在がいても少しも不思議ではないのかも知れない。以下は「各委員の履歴」からの引用。

 R・ジェームズ・ウールジーはカリフォルニア州サン・ブルーノに本社を置く、バンテージポイント・ベンチャー・パートナーズ(註1)の共同パートナーの一人である。またスタンフォード大学にあるフーバー研究所(註2)の「アネンバーグ著名客員フェロー」でもある。また未公開株を対象とする投資ファンド、パラディン・キャピタル・グループ(註3)の戦略諮問グループ議長である。コンサルト会社ブーズ・アレン・ハミルトン社(註4)の上級執行アドバイザーでもある。またボストンに本拠を置く法律事務所、グッドウイン・プロクターのワシントン事務所顧問である。

 ウールジーは、以前に5回の異なるポジションで連邦政府に奉職した。2回は共和党大統領による指名、2回は民主党大統領による指名であった。もっとも直近はCIA長官(1993年―95年)であった。2002年7月から2008年の3月まで、ウールジーはブーズ・アレン・ハミルトンの副社長だった(註5)。また以前はワシントンに本拠を置く法律事務所シェア・ガードナーのパートナーであり、22年間民事訴訟、仲裁・調停・斡旋などの分野で法律実務を行った。シェア・ガードナーは今グッドウイン・プロクターとなっている。

 CIA及び連邦政府統合情報機関を率いたことに付け加えるなら、12年間連邦政府で働いていた期間に、ヨーロッパ通常兵力交渉(ウィーン:1989年―1991年)のアメリカ大使であり、海軍省次官(1977年―79年)、上院軍事委員会の全般顧問(1970年―73年)などを歴任した。また1983年―86年にジュネーブで開かれた米ソ戦略兵器削減交渉(START)及び核宇宙兵器交渉(NST)では、半駐在ベースで大統領指名による無任所代表だった。米国陸軍の士官だった時は、ヘルシンキ及びウィーンで開かれた戦略兵器制限交渉(SALTT)(1969年―70年)でアメリカ代表団顧問だった。

 ウールジーは政府、企業、非営利団体と幅をもった分野で働いてきた。ワシントンの企業、エグゼクティブ・アクション有限責任会社(LLC)の会長、全米エネルギー政策委員会委員、「現在の危険」委員会共同委員長(もう一人の委員長は元国務長官ジョージ・シュルツ)、クリーン燃料財団諮問委員会委員長などがそうである。

(以下、各機関・法人の役員、顧問、理事、委員職が列記されているがカット。)


 ウールジーは、過去に上場・非上場会社の役員をつとめた。総じて技術、防衛関連の会社である。そうした会社の中には以下のものがある。マーチン・マリエッタ(註6)、ブリティッシュ航空宇宙(註7)、フェアチャイルド・インダストリーズ、ユーリエ・システムズなどである。

 ウールジーはオクラホマ州タルサ生まれ。タルサの公立小学校に通ったのち、タルサ中央ハイスクールを卒業。スタンフォード大学で学士号を取得。(1963年)オクスフォード大学で修士号を取得。(1963年―65年)、イエール大学法学大学院で法学士の資格を取得している。

(家族構成や寄稿記事が多い事が出てくるがカット)


註1  バンテージポイント・ベンチャー・パートナーズ:VantagePoint Ventures Partners。カリフォルニア州サン・ブルーノにおくベンチャー・キャピタル。パートナーシップであるが別に法人格はないようだ。1993年設立。総資産45億ドル。従業員数40名。北京と香港に事務所を持つ。クリーン・環境分野、健康医療分野、アジア分野に積極的に投資をするという。別にウールジーの会社というわけではなく、単なるパートナーのようだ。不思議な事に「CrunchBase」という業界サイト
<http://www.crunchbase.com/financial-organization/
vantagepoint-venture-partners>
)で、同社を調べるとウールジーの名前はどこからも出てこない。<http://www.vpvp.com/>

註2  フーバー研究所:The Hoover Institution on War, Revolution and Peace。 スタンフォード大学内にある公共政策研究所・図書館。アメリカを代表するシンクタンクのひとつ。1919年、後に大統領になるハーバート・フーバーが5万ドルを拠出して第一次世界大戦関連の資料の収集と保存整理をスタンフォード大学に依頼したのが羽始まり。当初は同大学図書館の中にあったが、資料が厖大になるにつて独自の建物を持つようになった。第二次世界大戦関連の資料も厖大に有している。

 昨年(09年)11月、北京の中国科学院中国近代史研究所の中で開かれたあるシンポジウムに参加した折、別室で中国人歴史学者とスタンフォード大学の歴史学者の間で「中国国民党政権時代」の共同研究会が開かれていた。中国の先生に、「何故スタンフォード大学と?」と聞いてみたら、スタンフォードには、抗日戦争中の厖大な中国側資料が集められており、その資料なしには国民党時代の分析が出来ないからだ、という答えだった。その資料とはフーバー研究所のコレクションである事は云うまでもない。

 1956年、この図書館の機能拡充が進められ、1957年現在の「フーバー戦争・革命・平和研究所」の形ができあがった。アメリカの保守派政権の外交政策に強い影響を与えていると云われる。

(どうだろうか?保守派もリベラル派の政策に大した違いはないと思えるが・・・。)
英語Wiki(<http://en.wikipedia.org/wiki/Hoover_Institution>)によれば、名誉フェローに元英国首相だったマーガレット・サッチャー、著名フェローにジョージ・シュルツ、上級フェローにミルトン・フリードマン、ウィリアム・ペリー、コンドリーサ・ライスなどの名前が見える。ウールジーが自分もその一人だというアネンバーグ著名客員フェローには、元軍部将官、元長官などの名前が並んでいる。08年同研究所の年次報告書を見てみると
<http://www.hoover.org/about/report/18978274.html>)などの名前は見えるが、ウールジーの名前はない。09年以降の指名かも知れない。

註3  パラディン・キャピタル・グループ:Paladin Capital Group。ワシントンDCに本部をおく、非上場の投資グループ。
同社のサイト(<http://www.paladincapgroup.com/portal/index.php>)を見ると、「国安全保障分野で急成長する企業に投資する」とある。

註4  ブーズ・アレン・ハミルトン社:Booz Allen Hamilton。バージニア州タイソン・コーナーに本社を置く非上場のコンサルティング会社。1914年、エドウィン・ブーズがシカゴに作ったアメリカ最古のコンサルタント会社のひとつ。現在はアメリカの投資グループ、カーライル・グループの傘下に入っていると考えられる。なおカーライル・グループの共同創立者の一人、デイビッド・ルビンシュタインは外交問題評議会の理事の一人。
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/CFR/02.htm>

 設立当初、ブーズ・アレンはシカゴを中心とする一般企業のコンサルタントだった。1940年海軍省の戦争準備計画のコンサルティング業務を受注してから急速に連邦政府の仕事の受注が増え、現在も大きな柱になっている。たとえばアメリカのディフェンス・ニュースはブーズ・アレン・ハミルトン社を世界第24位の軍需企業にランクしている。
(07年<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Military-industrial_complex
/defense_news_features_top100_2007.htm>
)。

 現在も一般企業に対するコンサルティングとアメリカ政府に対する軍需を中心としたコンサルティング業務が2本の柱になっている。東京にも事務所がある。なお日本語Wikiは同社が軍需企業である事にまったく触れていない。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Booz_Allen_Hamilton>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Booz_Allen_Hamilton>
<http://www.boozallen.com/>

註5  副社長:Vice President。Vice Presidentは日本語に訳せば副社長だが実際には、「担当部長」程度の役職。役員クラスはSenior Vice Presidentあるいはその上のExecutive Vice Presidentと表記するのが普通。
実際ブーズ・アレンの08年年次報告
<http://www.boozallen.com/media/file/ar-08-booz-allen-annual
-report.pdf>
)をみても Vice Presidentは100名以上もいる。不思議な事にこのリストにもジェームス・ウールジーの名前はない。

註6  マーチン・マリエッタ:Martin Marietta Corporation。アメリカを代表する航空宇宙産業企業だったが、1995年世界的な軍需産業合併統合の流れの中で、ロッキードと合併、現在世界第一位の軍需企業ロッキード・マーチン社
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Military-industrial_
complex/defense_news_features_top100_2007.htm>
)になっている。

註7  ブリティッシュ航空宇宙:British Aerospace。イギリスを代表する航空宇宙産業、軍事企業。1977年4社が統合して誕生した。99年には改組されてBAEシステムズになった。だからウールジーが取締役だったといっているのはBAEになる前ということになる。なおBAEはその後も旺盛な吸収合併を進め現在世界第3位の軍需企業になっている。
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Military-industrial_
complex/defense_news_features_top100_2007.htm>
)。
日本語Wikiは大いに参考になる。
<(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E
3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83
%A5%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%AD
%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B9
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