(原文:http://www.doug-long.com/stimson6.htm)
(スティムソン日記の註)

1945年6月26日から30日
日本への警告問題



 今朝の3省会議は、フォレスタル、グルーそして私、それに記録係にマクロイ、海軍の法制顧問としてコリアが出席した。
私はすぐに、日本を十分叩いた後、S−1で叩くことになるが、警告を出して降伏させる議題を提起した。戦争を早期終結に持っていくためにあらゆる努力をつくしたということでなければ、アメリカが納得しない、ということを私が強く感じていた案件である。
私は大統領に対して出す手紙の原稿を書いておりこれをみんなに読み上げた。
そして長いしんどい議論が続いた。
議論が終わった後、フォレスタルとグルーの両者が、手紙で提言していたステップと一般的な原則について承認した。そして小委員会を任命した。
陸軍省からはマクロイ、国務省からはバランタイン、海軍省からはコリアを指名し、時期が来た時、日本に送る降伏勧告文の起草をすることになった。

(スティムソンの「手紙の原稿」は7月26日付けで、「日本に対する提言計画」と呼ばれている。
 内容的には、日本本土侵攻前に日本に降伏を勧告する内容を含んでいる。
 また警告の一覧リストも含まれている。その中でもスティムソンが進言しているのは、
   「私はもしアメリカが、日本の現在の体制の下で立憲君主体制を除外しないと付け加えれば、
    受諾の可能性を基本的に付加することになる、と思う」という点である。)


(6月26日は)ほとんど1日、7月2日に大統領に会う準備に当てた。
ハリソン、バンディとS−1の件や、マクロイとドイツ他諸問題について議論した。
(7月2日は、スティムソンがトルーマン大統領に日本の降伏勧告問題で大統領に面会する日だった。
 この降伏勧告はのちにポツダム宣言の内容になっていく。
 スティムソンがバンディとハリソンと議論をした45年6月26日のメモが中心だった。
 このメモでは、フランク・レポートの警告、すなわち第二次世界大戦中における原爆の使用は、核兵器
 の国際管理体制を作り上げ、核戦争を回避する機会を損なうと云う警告にも触れていた。
 またこの6月26日のメモでは、第二次世界大戦中の人的犠牲を少なくするため、原爆を使用すると
 いう科学顧問団の提言にも触れている。
 またこのノートでは、科学顧問団は、原爆の使用前にロシアと原爆に関する技術情報の交換をしない
 で、原爆計画をロシアに告げるべきと云うという意見にも触れている。
 科学顧問団は、核兵器の国際管理を達成するのに大きな助けになるだろうとしている。)