(2011.8.23)
追加補足2011.8.24
No.028

中川保雄の「放射線被曝の歴史」
-竜が口から炎を吹き出すようなICRP批判


ICRP的発想は私たちに刷り込まれている



追加補足(2015.8.17)
ある事情により、この記事が意外と多くの人に読まれていることを知った。
この時点では「放射線被曝の歴史」は絶版だったが、2011年10月に明石書店から復刊され「(増補)放射線被曝の歴史」として現在は入手が出来る。遅まきながらご案内する。なお、2013年12月6日に実施した第77回広島2人デモチラシでは、この明石書店版「放射線被曝の歴史」を引用・紹介している。中川保雄のこの本は、今では私のバイブルとなっている。

 追加補足:
 中川保雄の指摘するICRPの「ALARA-アラーラ」原則についてはその変遷を中川自身が、「放射線被曝の歴史」の中でわかりやすい表を作っている。正確を期すためその表を「ALARA」を中心に作成し直した表を関係箇所に追加して、記述の補足とする。


放射線被曝問題は民主主義の問題

 3・11以降、放射線被曝に関する私のにわか勉強が続いている。2010NPT再検討会議以降の「核兵器廃絶」への動きも気になる。実際広島では、国際金融資本を頂点とするアメリカの支配層の巻き返しと地固めが始まっている。この動きも気になる。(広島の旗振り役、あるいはちんどん屋は秋葉忠利から湯崎英彦に主役を替えたようだ。)

 ドル基軸体制崩壊への動きも気になる。ドル価値下落の本質は、アメリカによる「ドル借金踏み倒し」政策だが、それはドル基軸体制崩壊へと直結する。そのこと自体は「アンタの問題」だが、引き起こされる経済混乱(それは破壊的混乱だろう)の犠牲者は、常に弱者だろう。(つまり私を含めた経済弱者である。)

 しかも全ては相互に関連している。一言で云えば、長く続いた「アメリカの国際金融資本を頂点とする伝統的支配層の世界支配体制の危機」ということになろうか。「核兵器廃絶」や「アメリカの経済危機」、「原発問題」、「日本の対米従属体制」も大きくいえば、このテーマの中に包含できる。(といって見ても何も言ったことにならない。)一つのテーマだけを追っていたのではなにもわからなくなる、あれもこれも同時並行で進めなくてはならない。

 にもかかわらず私は目をつぶって「放射線被曝」の問題に集中することにした。ひとつには、広島に住んで、広島原爆から核兵器廃絶を勉強しながら、放射線被曝についてあまりに無知であり、素養がないことに、我ながらあきれ果てたことがある。
 
 ひとつには放射線被曝の問題を理解することは、「フクシマ危機」の本質理解に直結し、大げさに言えば、「核」をひとつの梃子として行われている「体制」維持・支配を切り崩す一つの大きな切り口になると気づいたからだ。言い換えれば放射線被曝の問題は「民主主義」の問題、それももっとも切実な「生存権」の問題、そして「政治決定権」の問題だと、やっと、気がついたからだ。それを3・11以降、全国で起こっている反原発運動から学んだ。(これも、いまさらながら、自分であきれ果てる。)
 
 しかし「神は細部に宿る」である。まず欧州放射線リスク委員会2003年勧告を丁寧に読んだ。そして深い感動を覚えた。そして今2010年勧告を丁寧に読んでいる。


ICRP77年勧告成立の背景

 その参考書として、中川保雄の「放射線被曝の歴史」(発行:株式会社技術と人間 1991年9月20日 初版第1刷)を読んでいる。

 この雑観記事は、その中川の「放射線被曝の歴史」の中の一節を抜き出したものである。私の読書メモ代わりである。引用部分は『』で囲った。もし説明や補足があれば、それは青字のフォントで記述してある。抜き出すのは「ICRP1977年勧告」という一節である。(同書137p~143p)
 
 中川のICRP批判は、竜が口から火炎を噴き出すようである。

 『  ICRPは以上のような作業を進めながら、1965年勧告の全面改定に着手することを1974年に決定した。

その際ICRPは、次のことを申し合わせた。
 ① 許容線量という概念を放棄して「線量当量」を使用すること。 
 ②  最も敏感な特定の臓器への線量で被曝を制限しようとする「決定臓器」という従来の考え方を放棄すること。
 ③ 3ヶ月3レムの制限量および「5レムX(年齢-18歳)」の年齢公式を放棄して全身5レムとすること。 
 ④ 公衆の被曝に関してはALARA原則を基礎に大幅に改訂すること―

新勧告をこのような線でまとめることを確認した上で、具体的な検討に入った。

最も重要なALARA原則やコスト-ベネフィット論などはすでに出揃っていたので、後はそれらを体系化することだけが残されているにすぎないと言えなくもなかった。』

 1953年12月国連で示されたアメリカ大統領ドワイト・アイゼンハワーの「平和のための原子力」演説は、世界的な原発キックオフ宣言でもあった。その後原発は世界中で建設ラッシュを迎える。アメリカでの建設のピークは1960年代である。

 その一方で放射線の恐ろしさは、世界の広範な市民の中に浸透していった。一つにはアリス・スチュアートらの、レントゲンX線検査で発生した妊婦の体内被曝による小児白血病に関する研究である。スチュアートは低線量被曝でも細胞分裂が活発な胎児に照射すれば、ガンや白血病の要因になることを疫学的に立証した。1950年代後半のことである。ICRPはこの研究を事実上無視しようとしたが、医療現場ではその後、妊婦にX線を照射するなどと云う野蛮なことは行われなくなった。


 ICRPは低線量被曝では、人体に害があるという科学的な証拠はないと今でも主張しているが、その主張は1950年代にすでに破綻している。証拠がないのではなく、証拠を見ないようにしているだけだ。しかもこのX線照射は外部被曝である。

 さらに建設ラッシュの原発は次々に事故を起こして、市民の不安をかき立てた。また大気中の核実験から生ずる「フォール・アウト」(死の灰降下)は、市民の不安を増幅した。

 またスチュアート、スタングラス、マンキューソー、タンプリン、ゴフマン、バーテルといった科学者は揃って、低線量被曝の危険を世の中に訴える研究を発表し、警告を出し続けた。

 70年代に入ると世界の反原発運動はおおいに盛り上がった。その中で1971年アメリカのニクソン政権は、ドル-金兌換停止を政策として打ち出した。金兌換の裏付けを失った基軸通貨ドルは、世界中にインフレと高金利をもたらした。

 こうしてアメリカの原発推進政策は完全に行き詰まった。原発の安全性確保、インフレ・高金利による建設コストの高騰、安全審査のための行政の許認可遅延などのために、コストはさらにふくれあがった。



安全・健康問題を経済問題にすり替え

 『 この結果、60年代前半から急増傾向をたどってきた原発の発注数は、1966年に20基、67年に31基、68年に16基、69年には7基へと激減してしまった。
1973年から74年にかけての第一次石油危機は、原発の発注を一時盛り返させ、1973年には史上最高の41基に達した。がそれも束の間で、1975年をすぎると反原発運動に加えて、全般的な経済停滞による電力需要の落ち込みとその長期化のために、原発の発注は年間3-4基と見るも無惨な低水準に落ち込んでしまった。・・・1970年代後半に入る頃から一転して厳しい冬の時代に震え上がってしまった。』
(同書119p~120p)

 原発推進勢力は、こうしてコスト削減の必要に迫られた。コスト削減には様々な方法があったが、今ここで扱う問題としては「安全と放射線被曝」を経済問題にすり替えることによって、達成しようとする問題である。そのために新しい放射線防護の考え方が必要となった。それが従来の「リスク-ベネフィット論」(リスク対利益論)にかわる「コスト-ベネフィット論」(費用対利益論)である。

 ICRPの65年勧告は、「経済的および社会的な考慮を計算に入れたうえ、すべての線量を容易に達成できる限り低く保つべきである。」(as low as readily achievable. 頭文字を取ってALARA―アラーラ、と呼ばれる)としていた。(「ALARA原則の変遷」参照のこと)


 ここでいう「容認できる線量」とは、要するに個々人が受ける被曝によるリスクを意味している。被曝によるリスクと原発による社会的・経済的ベネフィット(利益)のバランスをとった形で、許容できる被曝線量を決定しようという理論である。(原発周辺住民の年間線量限度を特別に設定する、という“規制”につながる。)

 別図 ICRPの「ALARA原則」の変遷
勧告年 線量限度の概念 被曝限度 (レム/年) ICRP勧告に見る線量制限の一般原則
作 業 者 一般公衆
1950年 許 容 線 量 15 (0.3/週)  ― 「可能な最低レベルまで」
to the lowest possible level
1958年 許 容 線 量 5 0.5 「実行可能な限り低く」
”as low as practicable” (ALAP)
1965年 作業者:許容線量 5 0.5 「容易に達成できる限り低く」
”as low as
readily achievable” (ALARA)
公衆:線量当量限度
1977年 線量当量限度 5 0.5 「合理的に達成できる限り低く」
”as low as
reasonably achievable” (ALARA)
1985年
パリ声明
線量当量限度 5 0.1 「合理的に達成できる限り低く」
”as low as
reasonably achievable” (ALARA)
1990年 線量当量限度 5 or 10/5年 0.1 「合理的に達成できる限り低く」
”as low as
reasonably achievable” (ALARA)
レム(rem)は吸収線量の単位、シーベルトは線量当量の単位。厳密にはこの2つの単位は違う概念であるが、一般には100レム=1シーベルトの換算が使われているのでそれに従う。よって上記表の年間0.1レム公衆被曝限度は1ミリシーベルトという事になる。(従って被曝を小さく見せかけるトリックは線量当量という概念そのものに隠されている。)
上記表は中川保雄著「放射線被曝の歴史」(「技術と人間」発行 1991年)167頁掲載の、ICRP勧告の被曝線量限度の変遷という表をもとに作成した。


 この「リスク-ベネフィット論」をさらに進めて「コスト-ベネフィット論」を導入しようというのが「1965年勧告の全面改定」の大きな狙いの一つであった。それが集約化された報告が、1971年NCRP(アメリカ放射線防護審議会。1946年に成立したアメリカ放射線防護委員会は、その後法整備を経て正式な連邦政府機関となり、CommitteeをCouncilに変えた。従って頭文字は変わらずNCRPである。中身も変わっていない。)が発表した『放射線防護の根本基準』である。この報告でNCRPは「純粋に生物学的、物理学的な考慮によるものではなく、社会価値判断に依存して」、「利益を最大に、損害を最小にするためには、合理的な損害は容認する」必要があるという考えを打ち出した。つまり、コスト-ベネフィット論を打ち出した。これをICRPがほぼ踏襲して、現在のICRPの「正当化の原則」、「最適化の原則」ができあがるのである。

 またECRRが、その勧告の中で、ICRPのよって立つ哲学は「功利主義哲学」であり、最大多数の幸福(すなわち核エネルギーで受ける全体利益)のためには、少数者の犠牲もいとわない、これは19世紀的哲学であり、21世紀には即応しない、21世紀の哲学は国連人権宣言にもあるように、一人一人の個人の人権(この場合は特に生存権)が最も重んじられるべきだ、と口を極めて非難するのもこの点にある。

 たとえば、ICRPの最新勧告(2007年勧告)を日本にどう適用するかを審議する文部科学省の放射線審議会が2010年1月に出した中間報告は次のようにいう。

 『 4)放射線防護の基本原則の維持
放射線防護の3つの基本原則(正当化、最適化、線量限度の適用)は1990年勧告から引き続き維持している。なお、1990年勧告に比べて、被ばくをもたらす放射線源と被ばくする個人に基本原則をどのように適用するかについて明確化している。

 ・ 正当化の原則 
   放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は、害よりも便益が大となるべきである。
 防護の最適化の原則
   被ばくの生じる可能性、被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは、すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低く保つべきである。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/pdf/ICRP2007kankoku_Pub103_shingi.pdf>)

 だからICRPは学術組織なのではなく、政治経済組織なのであって、放射線防護審議会自体も文科省の下にではなく、産業経済省の下に置くべきなのだ。(なんなら文科省ごと産業経済省の下においてもいいが。)


正当化・最適化・線量限度の三位一体

 『  (65年勧告の改訂作業は)それでも作業開始から12年ぶりの全面改訂となったこの勧告は、これまで見てきたように、経済的観点から被曝防護の問題をすっかり見直したものとなった。まだ触れていない点も含めて、「ICRP1977年勧告」の重要な特徴と問題点を整理しておこう。
 
 第一は、放射線被曝防護の根本的な考え方の大転換である。1977年勧告は次のような言葉ではじまる。
 
 「放射線防護は、個人、その子孫および人類全体の防護に関係するものであるが、同時に放射線被曝を結果として生ずるかも知れない必要な諸活動も許されている」
 
  この文言は勧告全体の特徴を象徴的に示している。ICRPが、「い」の一番に述べたことは、原子力発電などの諸活動を正当化し、それを擁護することであった。放射線被曝を可能な限り低くするというような過去の勧告に見られた表現は、1977年勧告からはすっかり消し去られた。手厚く防護すべきは、労働者や住民の健康よりも原子力産業やその推進策のほうである、と宣言したのである。
  
  第二は、放射線のリスク、被曝の容認レベル、被曝の上限値について、社会・経済的観点を重視した新しい体系を打ち出した、ICRPはそれを(1)正当化、(2)最適化、(3)線量限度と呼んで、三位一体の体系として提出した。

 まず放射線のリスク、すなわちガン・白血病の発生率については、ABCCの過小評価されたデータを使ったリスク評価を維持することに固執した。それに基づいて評価された被曝労働者と一般の人々の放射線による被害は、当然過小評価されたものになる。(すなわち第Ⅰ段階のトリック)そうした上で、それらの被害を社会的・経済的な基準から、すなわち、ALARA原則に基づいて容認するように求めた。ICRPは、その容認レベルの上限値を「線量当量限度」としたが、リスク評価が変えられなかった結果、この線量限度の値もそのままとされた。
  
 端的に表現すれば次のように言える。放射線の人体への影響については今は過小評価に固執することができても、科学的基準に立脚する限りは、将来被害についての科学的知見が深まるとともに、やがて被曝の基準も次第に厳しくならざるをえないであろう。その時は原子力産業は死滅する。そうならないようにするには、基準を科学的なものから社会的・経済的なものへと転換し、この観点から被害の容認を迫るべきである。線量当量という被曝の上限値は、その容認の強制があまりにも酷くならないようにするための歯止めなのである。(この歯止めも福島原発事故で働く核労働者に対しては外してしまった。背に腹は替えられない、と云うわけだ。年間線量限度「250ミリシーベルト!」)

 第三に、放射線被曝管理に公然とカネ勘定が持ち込まれた。「コスト-ベネフィット解析」という経済的手法に従って人の生命の価値をもカネの価値で測ることをはじめた。しかもそれを行うのは原子力産業と政府なのであるから、労働者や住民の生命の値段も安く値切られ、その安い生命を奪う方が被曝の防護にカネをかけるよりも経済的とされるのである。軍需産業は「死の商人」と呼ばれる。ヒバクを強要して人の生命を奪う原子力産業もまた「ヒバクの死の商人」と呼ぶことができよう。


公然と放射線弱者を切り捨て

   第四に、放射線被曝のカネ勘定、それと表裏一体の放射線の影響の過小評価は、被曝基準のいたるところに盛り込まれた。例えば、原発などでの放射線被曝作業において、計画特別被曝という名称のもとに一回あたり10レム(100ミリシーベルト)までの大量被曝が認められることになった。また、それまでならいかなる12カ月においても5レム以内(50ミリシーベルト)であったのが、年で5レム以内と改められて、年度の変わり目を挟むような短期日に10レムを浴びて良いことにされた。あるいは、年間の被曝線量が1.5レム(15ミリシーベルト)未満の作業区域においては一人一人の被曝線量を測らなくてもよいことにされた。
また、年間0.5レム(5ミリシーベルト)未満の被曝量はゼロ線量として扱われ、測定結果も記録したり、保管したりする必要はないとされた。放射線作業者の健康診断も、回数や検査項目が大きく縮小された。このように、挙げれば切りがないほど多くの点で被曝の基準が緩和された。
  
 第五に、許容線量に代えて「実効線量当量限度」という新しい概念が導入された。これは新しい科学モデルを導入して、人間への計算上の被曝線量を決定するもので、「科学的操作」が複雑に行われるだけ実際の被曝量との差が入り込みやすい。それだけごまかしやすいのである。言い換えれば、実効線量当量は、被曝の基準の緩和を質的に違った形で進めるために導入されたのである。

 例えば、原発の建屋内等の空気中を漂う放射能の濃度基準は実効線量当量方式であれば従来よりも大幅に緩和される。マンガン54の場合、1000ベクレル吸入すると被曝量は従来なら1.95ミリレム(19.5μシーベルト)とされていたのが実効線量当量ではわずか0.147ミリレム(1.47μシーベルト)とされ、じつに13倍も過小に評価されることになった。放射線の水中濃度基準も同じように大幅緩和された。ストロンチウム90の場合、1000ベクレル体内にとりいれた時の被曝量は、それまでなら44.4ミリレム(0.444ミリシーベルト)とされていたのが、実効線量当量ではたった3.85ミリレム(38.5μシーベルト)となり、これまた11.5倍も緩和された。

 これらの基準の問題は、原発および核燃料サイクルの事故や日常運転、放射性廃棄物の処理・処分によって引き起こされる環境の汚染、食糧の汚染の問題に直結する。実効線量当量の導入により、原子力産業は空気や水や食糧を従来よりもはるかに放射能で汚染しても良い、というお墨付きを与えられたようなものである。このこと自体恐ろしい。が、汚染が数値で示されても大幅に緩和された結果であることすらわからないようにされてしまったこと、過去との比較もできなくなってしまったことは、別な意味で恐ろしい。
  
 第六に、原発などの放射能の危険性は、放射能自体が危険であることについては何も触れられず、他の危険性と比較して相対的な大きさの違いに矮小化されている。その結果、放射能から引き起こされる危険を受忍させようとする。線量当量限度被曝させられた一般人のリスクは鉄道やバスなどの公共輸送機関を利用した時のリスクと同程度だから、後者のリスクと同じように容認されるべきである、とICRPは厚かましく主張する。誰も好んで放射線をあびたいとは思わない。
  
ICRPは、勝手に人々をヒバクさせておいて、それは容忍されるレベルであると言って抗議した人を逆に攻撃する。
  
 これは、強権を欲しいままにすることができる権力者の論理である。原子力発電に反対する人々は、それによる放射線被曝をなくすとともに、可能であるなら原発以外の危険も全てなくして欲しいと求めている。その願いからは、より安全な社会が生み出される。しかし、ICRPのこの「リスク受忍論」からは、安全な社会など夢想だにできない。原発よりも危険なものがあると問題をすり替えたうえで、その危険と過小評価した原発の危険とを比べさせ、結局のところは両方の危険を容認させようとする。原発推進派は、危険の加え算しかしない。現実に存在する諸々の危険は、放置されるどころかむしろ拡大される。そのほうが原子力産業は相対的に安全な産業となるのだから。政府や原子力産業は、絶大な政治的・経済的な力によってリスクの受忍を容認してきたが、ICRPのリスク論はその強権支配をいっそう正当化する。
  
第七に、ICRPのリスクの考えからは、リスクを「容認」するものにはどこまでもリスクが押しつけられる。この結果、とりわけ社会的に弱い立場にある人々に放射線の被害が転化されることになる。原発で働く労働者の場合も、被害の告発が即首切りにつながるような弱い立場にある下請けの労働者に被曝は集中し、被害もまた深刻なものとなる。ウラン鉱石が採掘されるアメリカやカナダのインディアン、オーストラリアの原住民、南アフリカの黒人なども同様である。原子力施設が建てられるところは、大部分が経済的社会的に差別されてきた地域である。原子力産業は経済的な遅れにつけ込んで、札びらで頬を叩いて、現地の住民に被曝のリスクを受忍せよと迫る。
(ECRRは、その勧告の中で、ロールズの「正義論」を持ち出して「危険が社会に平等に負担されないのは社会的正義に悖る」とこれも激しく非難した。またこの中川の指摘は現在の「フクシマ」にそっくり当てはまる。政府・電力業界・経済界・大手マスコミは「フクシマ」に放射線リスクを受忍せよ、と迫っている。そして行きどころのない福島の人達はこのリスクを受忍せざるを得ない。まさに「リスクを容認するものにはどこまでもリスクが押し付けられる。」、である)
  
 それらの人々に被曝を強制したうえに、被害が現れると、自分たちで過小評価しておいた放射線のリスク評価を用いて、「科学的」には因果関係が証明されないからその被害は原発の放射能が原因ではない、と被害者を切り捨てる。
  
第八に放射線からの被害を防ぐというのであれば、放射線に最も弱い人を基準にして防護策を講じなければならないにもかかわらず、ICRPは逆である。基準とするのは成人で、放射能に一番敏感な胎児や赤ん坊のことはまともに評価すらされない。同じ量の放射線でも、胎児期に浴びると成人よりもガン・白血病で死亡する割合が数百倍も高くなり、幼児の場合でも数十倍高くなるという事実が知られているにもかかわらず、ICRPは胎児の場合、わずか2倍ばかり高いだけであると言う。赤ん坊が物言わぬのをよいことに、放射能の被害を弱いものに押しつける。数え上げれば切りがないほど「ICRP1977年勧告」はひどいごまかしに満ちている。』

 ここで中川が指摘していることは、そっくり「フクシマ危機」後の日本政府、日本の学術界、核産業(電力業界を含む)、経済界の対応の仕方にあてはまる。

 いやそればかりではない。ここで中川が指摘している「ICRP的発想」や価値観は、私たち一人一人の日本人の頭の中に刷り込まれている・・・。