No.22-2 平成20年4月12日


拝啓、河野衆議院議長殿 21世紀を、歴史的和解の世紀としませんか?

その2 冷戦を創造した「広島への原爆投下」


ロシアとの関係をめぐる2者択一

 前回は、G8の歴史的性格、G8が世界のGDPの7割近くを産出し、軍事予算の7割以上、核兵器のほとんど全部を保有していることを申し上げました。

 従って、その気になりさえすれば核兵器廃絶などは明日からでもできるはずなのに、何故核兵器はいつまでたってもなくならないのか、という点を出発点としました。

 その疑問を解く鍵は、原爆誕生のいきさつの中にありそうだということで、原爆誕生に関わるいきさつについておさらいを致しました。

 そのおさらいをするに当たって、米国公文書館やトルーマン博物館などで手にはいる同時代・同時進行形資料すなわちトルーマン日記、スティムソン日記、暫定委員会議事録、ホワイトハウス会議議事録、フランクレポート、米国戦略爆撃調査団報告書などを使いました。

 そうすると、「日本への原爆使用」(すなわち広島への原爆投下。長崎への投下は完全に軍事的意図からなされたもので政治的意図は皆無に近かったと思います。これは後で説明できるかと思います。)は、当時の政権首脳・軍首脳の中では、「戦後の核エネルギー研究開発体制構築」「ロシアとの関係をどう扱うか」という話題の中で語られていることが分かりました。

 特に1945年6月1日の暫定委員会議事録を検討してみると、「国際体制の構築」が要するに「ロシアと原爆の情報を共有する」か「あくまでロシアに対して秘密の帳をおろしておくか」の議論だったことが分かります。

 「ロシアと原爆の情報を共有する」ということは、とりもなおさず、「原爆の秘密」をアメリカだけのものとせずにロシアと共有し、結果この核兵器を国際管理に移行することになります。このことは必然的に、核兵器廃絶体制を構築することを暗示しています。

 一方、「ロシアに対して秘密の帳をおろしておく」ということは、ロシアに対して、核兵器保有の優位性を誇示することになり、必然的にロシアに恐怖心を呼び起こすことを意味します。これは必然的に将来の核兵器軍拡競争を暗示しています。

 そうして、この話題はバーンズの主導で、ロシアに対して「原爆の秘密を公開しない」ことが決まります。


「直近の予算」と「日本への使用」の関係

 そして「直近の予算」のことが語られます。これは1942年9月からはじまる「マンハッタン計画」の総予算19億5000万ドルが33ヶ月後の45年6月末で期限切れになるからです。

 この議題は今日われわれの目線から見れば、いかにも議題の配列として唐突と見えるかもしれませんが、暫定委員会のメンバーから見れば唐突でも何でもありませんでした。つまり「戦後ロシアとの関係」が「直近の予算」、すなわち1945年7月1日以降の予算立てと大いに関係があるからです。

 そして「直近の予算」の手当ができていることが確認されて、「日本への使用」の問題が語られます。ここでは「警告なし」で使用することが決まりました。そして「警告なし」の使用が、「原爆」をもっとも「劇的」に世界にデビューさせる方法論として採用されたことも分かりました。

 ここまでが前回のお話でした。


フランクレポートの国際管理

 ここでどうしても解いておかねばならない疑問は、「原爆」をもっとも「劇的」に世界にデビューさせることと、「直近の予算」と一体どんな関係があるのかということです。少なくとも暫定委員会の議事録は「直近の予算」を議論した後に「日本への使用」を議論しています。この両者にはなんらかの関係があると見なければなりません。

 この関係を理解するためには、もう一度「ロシアと原爆の秘密を共有する」とする議論を振り返っておかねばなりません。この議論は、必然的にロシアと協定を結び、「原爆を国際管理の下に置くこと」を意味します。

 1945年6月当時、「原爆を国際管理」のもとに置くという構想は、主としてマンハッタン計画に従事していた科学者たちの間には存在していました。もともとは、デンマークの科学者ニールス・ボーアあたりのアイディアと思われますが、1945年6月当時、フランクレポートははっきり構想として提言を行っていました。

 フランクレポートは1945年6月11日、シカゴ大学冶金工学研究所の科学者たちが、原子爆弾の完成を目前にして、「原爆の使用」に深い憂慮を抱き、陸軍長官スティムソンにあてて提出した「警告と勧告の書」ともいうべき報告書です。タイトルが「政治ならびに社会問題に関する委員会報告」となっているように内容は、科学理論や工学的なものではなく、日本に対する原爆の使用は、必然的に核競争を招来するとした内容でした。通称フランクレポートと呼ばれているのは、この委員会の委員長、ジェームズ・フランクの名前を取っているからです。

 引用がやや長くなるかもしれませんが、ご容赦ください。
 
 冒頭にこの報告書は、
物理学の分野に置いて原子力(nuclear power)を特殊なものとして扱わなければならぬ、たった一つの理由は、その平和に及ぼす政治的圧力の手段として、あるいは戦争において瞬時に破壊をもたらす手段として、それがとてつもない可能性を持っている点である。」

と述べます。そしてこの報告書を提出する動機を、
しかしながらわれわれは同時に、過去5年間この国の安全にとってまた世界の全ての国々の将来にとって、容易ならざる危険が存在することを知りうるひとつの小さな市民グループでもあった。しかもわれわれを除くその他の人類はこの危険を知らないのだ。」

としています。そして原爆がいよいよ完成する時代を次のように規定しています。
われわれ全員、原子工学の現在の状態をよく知っているわれわれ全員は、真珠湾の何千倍もの惨劇に相当する一瞬の壊滅が、我々自身の国に、この国のひとつひとつの主要な都市に襲ってきている姿を目に浮かべながら、今日を生きている。」


「デジャブ」を回避する手段

 繰り返しとはなりますが、これは1945年6月当時の現状認識です。そのような「デジャブ」を回避する手段は、ある、とこの報告書はいいます。

過去に置いて、科学はしばしば攻撃者の手の中にある新兵器に対して、適切な保護装置をも提供することができた。
しかし、原子力の壊滅的な使用に対しては、そのような有効な保護装置を提供できると約束することはできない。
世界の政治的機構だけが、このような保護装置を招来することができる。世界平和のための国際機構の必要性が大いに叫ばれる中、核兵器の存在こそは最もそれが必要なものである。(the most compelling one) 
国際紛争を不可能とするような強制力をもった国際的権威が存在しない中、世界の諸国は、完全な相互破壊に導くに違いない道から逸れて、ある特定の国際的合意を達成することによって核装備競争を遮る道がまだ残されている。」

 一体どんな方法論なのでしょうか?

もしアメリカが世界に向かって、『われわれが保有している兵器がどんなものか分かったと思う。しかしわれわれはそれを使わない。われわれはそれを将来にわたって使用することを放棄する用意がある。そしてこの核兵器の使用に関して適切な管理の方法を検討すべく、他の諸国と共同作業に入る用意がある』と云うことができれば、国際協定成立の方向で、可能で最も望ましい雰囲気が醸成できよう。」

すなわち、アメリカが核兵器の使用放棄宣言をした上で、国際協定を成立させることだと言うのです。そして、次のように現在のIAEAの査察制度に非常によく似た仕組みを提言しています。

明白なことが一つある。いかなる国際核装備防止協定も、実際的で有効な統御機能にしっかり下支えしておかれなければならないと云うことだ。単に書類上の協定では不十分である。この国にせよ、他の国にせよ、その国の存在そのものを各国の署名に対する信頼のみに賭ける、と言うわけにはいかない。国際的統御代理機関を妨げるいかなる試みも、こうした国際協定に対する事実上の廃棄通告に等しい。」

そして最後に、次のように締めくくっています。

要約しよう。われわれは、今次戦争に置いて核兵器を使用することは、軍事的便宜主義からではなく長期的国家政策の問題として考えるべきだと主張するものである。そしてこの国家政策とは、核戦争を取り除く効果的な国際統御を許す合意形成の方向に、第一義的に向かうべきだと主張するものでもある」


望ましくない科学者の追放

 もし、6月1日以降の暫定委員会がこのフランクレポートに大きく影響されていたなら、実際に4人の科学顧問団は、こうした主張に大きく影響され、「警告なしの日本への使用」をめぐって大きく紛糾したと信ずる根拠があるのですが、もしそうなら、「直近の予算」の問題も、それに続く「日本への使用」の問題も、暫定委員会の議題とはならなかったでしょう。

 実際には、このフランクレポートは、利権政治家、産学協同路線の大学経営者、産業界の利益代表者、金融界の大立て者からなる暫定委員会からは黙殺されました。(ジェームズ・バーンズは『道路建設のチャンピオン』の異名を取る、田中角栄ばりの利権政治家でもありました。)

 そればかりか、
望ましくない科学者の取り扱い

 グローヴズ将軍は、その開始時点から、ある種の疑わしい方向性を持った    
科学者や忠実性に欠ける科学者の存在があって、それに計画が悩まされてきた、と述べた。実際にこうした連中を退職させるのは、原爆を使用した後か、精々実験が行われた後でも良かろうと云うことで、合意された。この兵器に関する何か発表がなされた後、計画からこうした科学者の分断を図り、もう必要のない要員の雑草取りを徐々に進めていく。」

 ことを5月31日の暫定委員会で決定し、こうした科学者をマンハッタン計画から排除していくのです。


レオ・シラードの請願書

 ここでついでに、レオ・シラードの請願書にも、是非とも触れておきましょう。レオ・シラードは、最後まで日本に対する原爆の使用に反対しました。

 「ヒロシマ・ナガサキ」をめぐる数々のドラマの中で、シラードは実に不思議な人物として登場します。ナチス・ドイツの迫害を逃れてアメリカにやってきたシラードは、ナチス・ドイツが原爆を開発しているのを知っていました。ナチス・ドイツがもし原爆を所有したら、世界はナチス・ドイツが世界を支配すると考えたシラードは、永年の友人でアメリカに影響力のあるアインシュタインに頼んで、対抗上ルーズベルト大統領に原爆を開発するようにとの手紙を書いてもらいます。実際には、アインシュタインは署名だけをし、ルーズベルトあてにシラードを紹介します。
(この時の紹介状は下記で読めますhttp://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Robert-14.htm)シラードはこの手紙を持ってルーズベルトに会い、原爆開発を力説します。

 このことがきっかけになって、アメリカが原爆開発計画をスタートさせます。シラードもまた前述のシカゴ・グループの一員としてマンハッタン計画に参加するのですが、1945年になっていざ原爆が完成間近になり、また、すでにナチス・ドイツは事実上崩壊し、原爆開発の見込みもないと分かると、シラードは、原爆の使用に対して鮮明に反対の姿勢を取り始めます。

 前述のフランクレポートを提出したフランク委員会のメンバーでもあったシラードは、フランクレポートとは別にトルーマン大統領に対して請願書を書き、原爆の使用をやめるよう説得しようと試みます。

 のちにシラードは、「無駄とは分かっていたが、反対の科学者が大勢いたことを歴史にとどめたかった」といっていますがhttp://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/reo.htmを参照のこと)、ご紹介するのは、1945年7月3日付けの請願書です。この第1稿は表現がきついという批判があったため、第2稿を書き起こし、シカゴ大学でマンハッタン計画に従事する科学者、自身も含めて、70名の署名を添えて、7月17日にトルーマンに送られました。トルーマンがこの請願書を読んだ形跡はありません。

 私たちが、今、読んでも、胸を打つ、切々とした響きがあります。短いので全文引用します。

1945年7月3日
合衆国大統領への請願書

 合衆国国民が知らない一連の諸発見は、近い将来においてこの国の幸せにとって影響を及ぼすかも知れません。原子の力の解放は達成されましたが、結局アメリカの軍部が原爆を手に入れることになりました。現段階において日本に対するその使用に関し総意を得られるかどうかは別として、原爆は三軍総司令官たる閣下の手中にあります。

 ここに署名した科学者は、何年もの間、原子力の分野で研究を続けてきました。

 つい最近まで、合衆国が今次戦争の間、原爆による攻撃を受け、それに対する合衆国の唯一の防御策は同じ方法による反撃しかないのではないかという可能性について考慮しなければなりませんでした。今日、この危険を防ぐに当たり、以下のことをあえて申し上げねばなりません。

 戦争を早期にかつ成功裏に終結するには、また原爆でもって日本の各都市を破壊することは、戦争遂行の立場からは、あるいは極めて効果的であるかも知れません。

 しかしながら、日本に対するそのような攻撃は現在の状況下では正当化されるものではないと、とわれわれは感じています。われわれは、合衆国はこの戦争の現段階、すなわち日本に対して原爆を使用する事を公な形で伝え、降伏の機会が与えられていない現段階では、日本に対して原爆を使用すべきではないと信じます。

 もし、そのように公表することで、日本がその本土における和平の追求に専心することを確かなものとし、そしてその上で、日本が降伏を拒否す るなら、我が国は初めてこの戦争において原爆の使用を再度考慮して良い立場に立つものだと思います。

 原爆は、まず何はさておいても、残虐な都市絶滅の手段であります。
 (a means for the ruthless annihilation of cities)
  
 いったん原爆が戦争の道具として使用されれば、今後長い目で見ればそれを使用したいとする誘惑に打ち勝つことは難しくなるでありましょう。

 ここ2−3年、残虐性への傾向は強くなっております。現在、われわれの空軍は、日本の各都市を攻撃しており、つい2−3年前ドイツ軍がイギリスの各都市に対して使ったとして、アメリカの世論が非難したのと全く同じ戦争遂行の手段を使っております。この戦争における原爆の使用は、残虐性においてさらにそれを上回る道を世界にもたらすことになります。

 原爆は各国に破壊の全く新しい手段をもたらすものです。われわれの手にある原爆は、この方向性のほんの第一段階に過ぎません。現在の開発が進んでいけばわれわれが使える破壊力はほとんど無制限となっていきます。

 破壊を目的する、新たに解放された自然の力の使用を前例とする国は、想像を絶する破壊の時代に扉を開ける事に責任を持つべきであります。

 これらの見解からして、われわれこの請願書に署名するものは、おのおの、合衆国の三軍総司令官にその権能を行使して、戦争の現段階において、原爆を使用しないと裁決して頂くよう請願するものであります。


                                レオ・シラード及び58名の共同署名者
(原文はhttp://www.dannen.com/decision/45-07-03.html)


45年6月21日の暫定委員会

 マンハッタン計画での科学者の中にこうした人がいた、そして秘密保持契約違反・投獄の危険を冒して、日本への原爆の投下に反対した少なくとも70人の科学者がいた、ことは、広島や長崎で死んだ日本人、朝鮮人、アメリカ人、ドイツ人など多くの国の人たちへの、少なくとも小さな慰めとはならないでしょうか?

 この請願書はシラードの予測したとおり、トルーマン政権中枢では歯牙にもかけられませんでした。

 またシラードなどは、45年5月31日の暫定委員会で、グローヴズが指摘した「シカゴの雑草」に過ぎませんでした。

 そして6月21日の暫定委員会では、
(原文は以下:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/
large/documents/fulltext.php?fulltextid=11)

X.科学顧問団の提言
科学顧問団の提言は、6月16日の日付で陸軍長官に送付され、受領の上、暫定委員会が読んだ。この提言は(1)研究・開発・管理に関する将来政策、(2)原爆の即時使用、および(3)暫定計画、の3つの部分からなる。

a. 研究・開発・管理に関する将来政策
ブッシュ博士が表明するように、委員会の総意は、戦後における研究・開発計画の全体的な考察は(戦時とは)異なるべきである。現在時点で、委員会は適切に戦後委員会を設立するという観点からのみ、問題を考え得る。(以下略)
b. 原爆の即時使用
ハリソン氏は、シカゴの科学者グループからの提言を、A・H・コンプトン博士を通じて受け取ったことを説明した。とりわけその提言の中では、今回戦争で原爆を使用しないことを求めているが、他の諸国に知らせるために、純粋に技術的な実験を実施することを提言している。ハリソン氏はこの報告を、研究と勧告のために科学者顧問団に手渡した。科学顧問団の報告の第2章では、直接の軍事的使用以外のいかなる代替え案も認めがたいと述べている。委員会は、5月31日及び6月1日の委員会で取った態度、すなわちできるだけ早い機会に、日本に対して原爆を使用するという姿勢を再確認した。またその際、警告なしで、また2つの投下目標、すなわち軍事施設または住宅に囲繞された軍事工場、あるいはもっとも損害を受けやすい建造物といった投下目標、と云った事柄も再確認された。
c. 暫定計画
委員会はまた科学顧問団の第3の提言も承認した。すなわちマンハッタン工区において戦後研究の重要性を含んだ計画のことである。この計画に対しては年間2000万ドルを超えない予算を振り当てる。」(同日暫定員会議事録より)

 ことを決定していきます。この暫定委員会では、戦後の核エネルギー政策に対して、年間2000万ドルを超えない予算を割り当てる、としていますが、実際には、1945年7月1日から1946年7月31日までの期間、2億6840万ドル支出され、米原子力委員会として暫定委員会の役割が引き継がれた1946年8月1日以降の20年間は毎年平均約17億ドルが支出されたことが分かっています。


原爆投下推進勢力の企業群

 こうした一連の議論をまとめてみますと、次のようなことがいえるかと思います。
1. 「原爆の秘密」をロシアと共有するかあるいは「アメリカのみの秘密」とするかの2者択一問題が存在した。
2. この2者択一問題は必然的に「原爆を国際管理とし核兵器廃絶へと導くか」「ロシアを恐怖させて底なしの核兵器軍拡競争」へと導くかの2者択一問題だった。
3. またこの2者択一問題は「民主主義的なヒューマニズムの見地に立って核兵器廃絶」を目指すか、あるいは「帝国主義的な覇権主義の立場にたって世界を核兵器軍拡競争に引きずり込むか」の2者択一でもあった。
4. 前者は「核兵器を廃絶して人類を破滅の淵から救う」ことを意味し、後者はアメリカを代表する大企業、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学など有名大学の利益に合致し、「核兵器産業」という新たな有望市場を創設すること、そればかりでなく政治的・軍事的にも「核兵器」という切り札を使って、世界に自らの覇権を樹立することも可能だった。
5. この2者択一では、後者(とりあえずここでは「原爆投下推進勢力」と呼んでおきますが)が完全勝利し、「日本への原爆使用」という結果となった。

 暫定委員会のメンバーの一人、ジェームズ・コナントはハーバード大学の学長ですし、カール・コンプトンはマサチューセッツ工科大学の学長です。

 また原爆投下直後の陸軍長官声明を見てみると、この原爆投下推進勢力の産業界の中には、次のような企業名が見えます。

 この文書のスペースの関係で、計画の成功に大きく寄与した産業界の企業をすべてリストするわけにはいかないが、いくつかは触れておかないわけにはいかない。デュポン・ド・ヌムール・カンパニーはワシントン州ハンフォード工場の設計建設とその運営を担当した。ニューヨークのM・W・ケロッグズ・カンパニーはクリントン工場の設計をし、そのクリントン工場はJ・A・ジョーンズ・カンパニーが建設し、ユニオン・カーバイド&カーボン・カンパニーが運営した。クリントン第二工場はボストンのストーン&ウエブスター・エンジニアリング・コーポレーションが設計建設をし、テネシー・イーストマン・コダック・カンパニーが運営した。装置機器類についてはほとんどアメリカの全ての主要な企業が供給した。代表的なところではアライド・ケミカルズ、クライスラー、ジェネラル・エレクトリック、ウエスティングハウスなどである。大企業、小企業を取り混ぜてこれらは文字通り、計画成功に貢献した何千もの企業のほんの数例である。この兵器開発の成功に与って力のあった産業界の貢献を詳細に語ることのできる日がやってくることを希望する。」

 ところで、「産業界の貢献を詳細に語ることのできる日」はついにやってきませんでした。原爆の非人道性、残虐性が明らかになるにつれ、肝心の産業界が、「貢献を詳細に語られること」を迷惑がったからです。

 私は以前このことに関連し、イーストマン・コダックの社史を調べたことがありましたが、インターネットで知りうる同社社史では
http://www.kodak.com/US/en/corp/kodakHistory/1930_1959.shtml)、テネシー・イーストマン・コダックがクリントン工場の運営を担当して、「原爆開発に貢献した」ことが一行も触れられていないことに驚いたことがあります。

 さて話を元に戻しましょう。
 
今日から見て、この時点での決定的対立項は、「原爆を国際管理とし核兵器廃絶へと導くか」あるいは「ロシアを恐怖させて底なしの核兵器軍拡競争」でした。


2者択一を揺れ動いたスティムソン

 この2者択一の間を、「ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下」という出来事を挟んでもっとも激しく揺れ動いたのが、他ならぬヘンリー・スティムソンでした。 ヘンリー・スティムソンは「マンハッタン計画」の最高責任者であり(グローヴズを選んだのもスティムソンでした。)、陸軍長官であり、暫定委員会の創設者で委員長でした。

 スティムソンは、「東京大空襲」の報告を受けて空軍総司令官アーノルドを呼びつけ、「約束が違う。軍事施設だけを狙うはずではなかったか。」と激しく責めるなど根っからの人道主義者でした。(スティムソン日記:45年6月1日付け。6月1日といえば今話題になっている暫定委員会と同じ日ですね。この日の暫定員会は11時から始まって昼食を挟んで再開し午後3時30分に終了していますから、終わってからアーノルドを呼びつけたのでしょうか?)

 しかしスティムソンは同時に冷徹・老練な国際政治家でもありました。ですから、「ロシアを恐怖させて底なしの核兵器軍拡競争に引きずり込むこと」が産業界の要求であり、ロシアに対して「原爆カードを切る」ことの圧倒的優位性を知らなかったはずはありません。

 スティムソン日記や大統領宛メモランダムを読む限り、この6月1日時点ではスティムソンの考えはまだ固まっていなかった様に思います。それが「ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下」を挟んで急速にその思索が深まり、国際政策として明確な形をとっていきます。フランクレポートの内容も知っていたと思われる証拠もありますし、間接的にニースル・ボーアの主張も知っていたと思われます。

 ここで是非とも確認しておきたいことは、今私たちがここで扱っている資料は当時すべて第1級の秘密資料だったということです。フランクレポートも秘密資料でしたし、陸軍長官の大統領宛メモランダム、ホワイトハウスでの対日戦争会議、スティムソン日記の公開もスティムソンがなくなったあとのことです。暫定員会の議事録もまたしかりです。戦後50年以上たって公開された資料も少なくありません。ですからこうした同時代資料をすべて一手に入手できる立場にあった人はごくわずかでした。しかも仮に入手できる立場にあっても、読むつもりがなければ、何の影響も与えません。たとえばトルーマンはフランクレポート「レオ・シラードの請願書」も読んだ形跡はありません。スティムソンといえどもすべての同時進行形の資料を手に入れられたわけではありません。


スティムソンの提言

 45年8月8日、すでに大統領に辞表を提出していたスティムソンは、9月21日、自分の78歳の誕生日を最後の執務日と決めていました。トルーマンはスティムソンのために、ホワイトハウスでは極めて異例だった昼食形式の閣議を開くことにしました。この閣議でスティムソンは閣僚全員にある訴えをすることに決めていました。このため事前にスティムソンは、トルーマンにあてて「原爆管理のための行動提言」(Proposed Action for Control of Atomic Bombs)
という9月11日付けのメモランダムを送りました。
 
 スティムソン側にこのメモランダムが残っているかどうかは調べていませんが、几帳面なトルーマンはこのメモランダムも秘書に命じて保管させ、戦後そのままトルーマン博物館に移管し、いわゆるトルーマン・ペーパーズの一つとなり所蔵されました。

 歴史学者でトルーマン研究者のロバート・ファレルがこの文書の重要性を喚起してくれたので、私も読むことができたというわけです。

 やや冗長にわたるかもしれませんが、ご紹介したいと存じます。
(訳は例によって拙訳です。原文はここで読むことができます。行替え、段落切りは私が勝手につけました。)
(原文、全訳はこちらからご覧いただけます。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-letter/stimletter19450911.htm)

1945年9月11日付け陸軍長官ヘンリー・スティムソンの
大統領トルーマンあてのメモランダム

議題:原爆管理のための行動提言
(Proposed Action for Control of Atomic Bombs)


 原子爆弾の出現は、文明世界全体を貫いて、軍事力に大きな刺激を与え、そして恐らくその刺激は政治的利益に対してさらに大きな刺激となってさえいます。世界の雰囲気はすでに「力」に対して極度に敏感となっていますが、この兵器の到来は地球のありとあらゆる部分における政治的考慮に対して、深刻な影響を与えつつあります。」

 ソビエト政府がこの傾向を感じ取って、ソビエトの政治的・軍事的指導者が、できるだけ短時間にこの兵器を手中に収めたいという強い誘惑にかられているであろうことは、まず間違いのないことです。」

 この兵器の開発にとって、イギリスは実際上もすでにわれわれのパートナーの位置にありました。従って、協力と信頼を基礎に置いたパートーナーシップの関係に、われわれが自発的にソビエト政府を誘わないとすれば、核保有の分野で、ソ連に対抗して「アングロ・サクソン・ブロック」を維持し続けることになります。

 そのような状態は、ソビエト政府を原爆開発しようとする異常に熱を帯びた行動に駆り立て、より破滅的な性格を持った、密かな軍備拡張競争に突入することは、ほとんど間違いないところであります。実際にそのような活動がすでに開始されていることを示す証拠が存在します。」

 ロシアが核兵器生産に関する秘密を完全に手中に収めるには最短4年、最長でも20年かかるであろうという事は、世界や文明にとって重要ですらありません。
(スティムソンはここで、ソ連が核兵器を持つまでに最低4年、長くて20年と予測していますが、実際ソ連が原爆実験に成功するのは、4年後の1949年でした。)

 世界や文明にとって重要なことは、ソ連がわれわれの申し出を受け容れ、世界の和平希求国家の間でソ連が進んで協力関係を構築して、平和を確かなものにすることです。

 私が提言するように、今もし彼らに近づくことは、信義の観点から見て、またソ連が自力でなすより少なくとも早く原爆の製造に着手できるようになるといった観点から見て、一種の賭けになるかも知れないことは事実です。
「ロシアとの関係は原爆をめぐる関係」
 私は、ロシアとの関係は、究極の所、原爆の問題より大きな問題はない、と考えています。

 原爆の管理問題を除けば、ソ連との問題は比較的重要とはいうものの、差し迫って解決にあたらねばならないものではありません。

 ソ連とわれわれが相互に確証できる関係を構築することは、物事の進展をより遅くすることもできます。原爆ができあがったことで、ソ連にとってこの問題が極めて緊急となりました。」

 われわれの、この問題に関してロシアに対する接近の仕方によっては、両国の関係にとって取り返しのつかない痛恨事になるかも知れません。

 もしわれわれがこの問題についてロシアへの接近の仕方を誤れば、そして単に交渉を続けるだけで、そして腰に手をあてがい原爆の保有をむしろ誇示するならば、われわれの目的と動機に関する彼らの疑惑と不信ますます大きくなります。ソ連がこの問題を一挙に解決してしまおうとの努力を触発することでしょう。
(一挙に解決する、とは取りもなおさず、アメリカへの恐怖から自分も原爆を保有しようと云う努力のことでしょうし、あるいは一挙に核戦争に突入する危険のことを暗示しているのかもしれません。朝鮮戦争でマッカーサーは原爆の使用のことをほのめかしましたし、ベトナム戦争ではゴールドウォーター上院議員が原爆の使用を主張しました。キューバ危機も忘れてはなりません。イスラム包囲網でイスラエルが取り得る最後の手段は原爆の使用でしょう。)

 もし私の云うような解決方法が達成できれば、将来においてアメリカにとって絶対的に必要な『取り決め』は、これまでと違った形を取ることになります。

 われわれの目的は国際社会にとって最良の取引をすることでなければなりません。

 危険性は、他の方法より大きいと私は信じます。しかしこの方法は4年から精々20年(ソ連が原爆開発に要する時間)の間、文明社会を救うのではなく、永久に文明社会を救うことになるのです。」

 長い人生の中で、私が学んだ最も大きな教訓は、相手を信頼するにたる存在にする唯一の方法は、まず相手を信頼することだと言うことです。
 相手を不信に満ちた存在にする最も確かな方法は、相手を信頼せず、また自分の不信感を露骨に示すことです。」
「原爆を封印してしまうこと」
 もし原爆を、従来の国際関係のパターンにはめて、さらに破壊力の大きい軍事兵器とのみ見なそうとすれば、ひとつだけ実施すれば事足ります。毒ガスの時にやったように、核兵器の将来的使用を警告する国際的慣習に依拠して、国家主義的軍事力の優位性を誇示し、秘密の帳をおろすという古くさいやり方を取ればよいのです。

 しかし私は、そうではなく、原爆は人類が自然の力を制御するほんの第一段階に過ぎず、古くさい概念をもってしては、原爆は革命的に過ぎ、また危険すぎる、と考えています。」

 もしそうだとすれば、われわれのロシアに対するアプローチ方法は、人類の発展段階における進化の問題として非常に重要性を帯びることになります。」

 ロシアは抜きがたい問題です。ですから核兵器を統御しようといういかなる考察・検討も、基本的にはロシアの方向に向かってしまいます。私の判断ではアメリカが核兵器の議題について直接的で率直なアプローチを行えば、それに対して真摯な反応を返してくるのではないかと思います。

 そして、そのアプローチが全般から見て、国際的枠組みの一環としてなされれば、あるいはもしそのアプローチが、われわれの和平交渉の中で、一種の脅し、あるいは脅しに近いような一連の表明の後になされれば、ロシアは真剣な反応を返して来るのではないかと思います。」

 私の構想では、ロシアに対するアプローチは、・・・協議の総体的な議題は、戦争の手段としての原爆の使用の制限と統御であり、可能な限り平和と人類の進歩のための原子力開発を鼓舞し、その方向性をはっきり示す事となります。」

 そのようなアプローチは、もっと具体的にいえば、軍事兵器としての核爆弾のこれ以上の改善、製造を中止することを意味し、同様な措置をロシア、イギリスにも求めて同意させる事を意味します。

 また現在われわれが保有する原爆を進んで封印し、ロシアとイギリスがわれわれと共に、3国間の同意がなければ、戦争の手段として原爆を使用しないという合意をすることになります。」

 またわれわれは同時に、商業的あるいは人道的目的のための相互に満足のいく形での原子力エネルギー開発を提案する国際合意を含む契約をイギリスとロシアとの間に締結することを、考慮しなければなりません。」

 私は、われわれの早急なる政治的考慮が適切になされるとすぐにそのようなアプローチをしたいと存じます。

 各国との協議の前に、ソビエトとこの提案を巡る当たり障りのない議論をすることは挑発するだけで、ソビエトからは(この提案に合意しようとする)十分な熱意は得られないでしょう。私が申し上げたように、このことが全体の計画の中でもっとも重要なポイントでありましょう。」

 原爆の使用は、アメリカの主導権と製造能力によってのみ世界から受け容れられています。私は、この要素(すなわちアメリカのみが核兵器保有国であること)が、われわれの提案をソビエトに受け容れされるもっとも力強い、操縦桿であろうと思います。一方で私は、国際的議論で何か明確な形をとった結果が得られるかというと極めて懐疑的であります。

 世界の歴史の中で、極めて重要な一歩を達成する最も現実的な手段がこの方法だと、私は主張するものです。」

<ヘンリー・スティムソン 署名>
陸軍長官


「世界の平和を確かなものとする方法」

 ここで確認のために、このメモランダムの内容をまとめておきましょう。
 
まずスティムソンは

  1.原爆の出現は、政治・軍事的に見て文明社会を貫いてもっとも重要な問題だ、と規定します。

 このスティムソンの認識は、後でも検討する機会があると思いますが、フランクレポートや先にご紹介したレオ・シラードの認識と全く同一地平線上にあります。「原爆」を人類史上の問題ととらえている点であります。これは極めて重要な「視点」であります。

 次に、

  2.この問題に対処するにはなにがなんでも、時には脅しを使ってもソ連を引きずり込んで、原爆の国際管理の体制を作らなければならない、

と主張します。今はアメリカしか原爆を保有していないのだから、それは可能だ、とも述べています。

 それから、

  3.2までできれば、戦争の手段としての核兵器の使用を禁止する協定を結び、これ以上の核兵器の製造保有自体を認めない、すなわち『核兵器を永久に封印する』ことだ、またアメリカしか核兵器を保有していない状況ではそれができるはずだ、といっています。

 ところでこのスティムソンの構想は、現在の核兵器不拡散条約の理念より革命的に進んでいます。核兵器不拡散条約は条約締結時その時点の核兵器保有国(アメリカ、ソ連=当時、イギリス、フランス、中国)の「核兵器保有の権利」を認めていますが、「スティムソン構想」では全く認めていません。例外を認めないのです。

 そして、

  4.核エネルギーの開発は平和利用に限定する。

として「世界の平和を確かなものとする」ことが重要だと述べ、この行動提言の最後を「世界の歴史の中で、極めて重要な一歩を達成する最も現実的な手段がこの方法だ」という言葉で締めくくっています。

 ここでも「世界の歴史」という言葉を使って、「原爆の出現が人類史上」の問題である点を確認し、彼の視点は全く揺らいでいません。


スティムソンの政治的遺言

 さて、スティムソンのメモランダムをお読みなってどのような感想をおもちでしょうか?

私はこのメモランダムを「原爆をこの世に送り出した張本人、米国陸軍長官ヘンリー・ルイス・スティムソン」の政治的遺言として河野議長に読んでいただきたいのです。

 このメモランダムの内容は1945年9月11日に開かれたホワイトハウスの閣議では一顧だにされませんでした。もっとあからさまに言えば「おいぼれのたわごと」以上には受け止められませんでした。

 トルーマン政権の閣僚たちは、トルーマンも含めて、スティムソンの提起する問題を理解にはいかにも準備不足であり、この問題を地球文明史的に解釈する見識も持ち合わせていませんでした。現実は良くご承知のようにスティムソンの提案とは全く逆のコースをたどっていきます。

 ですから、このスティムソンのメモランダムは、今われわれに対する政治的遺言として現在的価値を持つのだと思います。

 このスティムソンに対して、大統領トルーマン、すでに国務長官に就任していたジェームズ・バーンズの視点は全く別なところにありました。

 1945年9月5日付けのスティムソン日記には次のような記述が見えます。

閣議が終わった後、私はバーンズと話をし、マクロイと一緒に、セント・ハーバートで作った提言の問題を提起した。すなわち、原爆問題でロシアをどう取り扱うかの問題である。」

 スティムソンは、8月12日から9月3日の間、ジョン・マクロイと『原爆管理のための行動提言』作成しました。
私はバーンズがロシアと原爆問題について協力する企てに大反対であることが分かった。
 
バーンズの頭の中は、来るべき外相会談のことでいっぱいである。
そしてポケットに原爆を詰めて臨もうとしている。

原爆はいわば、彼にとって思いを通せる偉大なる兵器である。
また、バーンズはスターリンがポツダムでした、いわゆる裏切り行為の数々を並べた。だから彼らからの約束はどんなものであれ信をおけないとも、云った。私はメモランダムで述べている私の見解を彼に伝えた。

私が会議に持参しなかった最新の原稿をもっていたので彼に渡した。
それから彼と別れ、彼は海外における使命へと出発した。

 (静養先からワシントンへと)戻る飛行機の中で私は、大統領に提出する辞任文書の原稿を書いた。そして陸軍省で、手書きで清書し、仕上げた。
今日の昼食会の後、別れ際に大統領に手渡した。その後大統領は翌日12時の私との面会をセットした。」

 トルーマンやバーンズにとって、「原爆の出現」は人類の文明史上の問題とは映らず、あくまでアメリカが、スティムソンの言葉をかりれば、「アングロサクソン・ブロック」が世界に覇権を確立する「偉大な兵器」としか映らなかったのです。


最大の課題は新たな予算獲得

 1945年6月1日の暫定委員会議事録の中に出てくる「日本への原爆使用」と「直近の予算」がいかなる関係にあるのかが今回のお話の出発点でした。いきなり迷路に迷い込んだような組み立てで申し訳ありませんでしたが、ここを押さえておかなければ、つまり原爆の扱いを巡る全く相反した二つの立場があったことを理解しておかなければ、「日本への原爆使用」と「直近の予算」の関係が上手く理解できないのです。
 
 これまで見てきたように当時政権内部では、後の「スティムソン構想」に代表される、「原爆の秘密」をロシアと共有するかあるいは「アメリカのみの秘密」とするかの2者択一問題が議論されていました。

 その後のいきさつを見る限り、「ロシアを恐怖させて底なしの核兵器軍拡競争に引きずり込む勢力」、すなわち「原爆投下推進勢力」が完全勝利したことは明白です。

 しかし、原爆投下勢力は大きな問題を抱えていました。新たな「予算獲得」です。

 前にも申し上げましたように、当時「原爆投下推進勢力」の重要な一翼を担う産業人の意見は一致して、「核エネルギーの開発は、核兵器開発を中心に、中断なく進めて行くべきだ。」という主張でした。

 そしてその開発は、その基礎的研究を含めて連邦予算で進めていくべきであり、産官学のパートーナーシップは引き続き戦後も維持されるべき、という点でも一致していました。

 「マンハッタン計画」は、戦時予算でしたから、原爆投下直後の陸軍長官声明でも説明されているとおり、議会がその内容を全く問わず、いわば「目隠し予算」として連邦政府を信用し、総額だけを承認してフリーハンドを与えていました。

 そのマンハッタン計画の予算は45年6月で期限切れになるのです。対日戦争が続いている間は、暫定措置で継続されるでしょうけれど、対日戦争が終了すれば、当然の話、予算の内容を議会に諮らなければなりません。

 米連邦政府は戦争のために膨大な予算をつかっていました。
Infopleaseの資料によれば(http://www.infoplease.com/ipa/A0104753.html)、1945年米連邦予算の歳入は約451億ドルでした。それに対して歳出は、約927億ドルでした。戦時国債などで穴埋めをしたのでしょうけれど、約476億ドルの赤字でした。戦後は非軍事分野にお金を使いつつ、連邦予算を均衡させなければなりません。

 そうした中でなおかつ「核兵器開発」に連邦予算支出を要求するなら、当然議会に対して、核兵器開発の予算に関して詳しい説明をしなければなりません。


原爆の実態を米市民の目から隠すこと

 このことは、必然的に「原子爆弾」の実態を議会の前に、いいかえれば一般アメリカ市民の前に明らかにしなければなりません。

 しかし「原子爆弾の実態」をアメリカ市民の前に明らかにすることこそ、「原爆投下推進勢力」がもっとも恐れていたことでした。

 というのは、もし原子爆弾の実態が明らかになり、その非人道性・残虐性が暴かれ、特に放射線障害という将来に大きな問題を起こす実態がさらけだされれば、アメリカの一般市民は、決して「トルーマン政権」を容認しなかったでしょうし、ましてやそのような恐ろしい兵器の開発に新たな予算の支出などは認めなかったでしょう。

 これは私が想像で言っているのではありません。現に声は小さかったものの、原爆投下直後から、人道主義の立場でトルーマン政権に対する批判がありました。

 たとえば、全米キリスト教会連邦会議事務総長・サミュエル・マクレア・カバートは、広島への原爆投下直後の45年8月9日、トルーマンへ次のような抗議の電報を送っています。
合衆国大統領
ヘンリー・S・トルーマン閣下
ホワイトハウス

    多くのキリスト教徒は日本の都市への原爆投下に深く心を悩ましております。それは不必要な無差別破壊行為であるからです。また人類の未来に対して、恒久的に極めて危険をもたらすからです。

会議(全米キリスト教会連邦会議)の議長・ビショップ司教とその「正義と恒久平和に関する委員会」委員長・ジョン・フォスター・ダレスは、現在、明日発表するであろう声明を準備中です。

その声明では、原子爆弾は、ヒューマニティへの信頼に関わる問題であり、日本の人たちは、降伏条項と新型爆弾に関する事実関係を十分に検討する時間と機会が与えられるべきだと強固に主張するはずです。

またその声明では、同時に、原子爆弾によるこれ以上広範な破壊が、日本の人々にもたらされる前に、最後通告をもう一度考え直すように十分な機会が日本に与えられるべきだ、と主張するはずであります。

全米キリスト教会連邦会議
事務総長
サミュエル・マクレア・カバート
(原文は:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/
large/documents/index.php?pagenumber=2&documentdate=1945-08-11&
documentid=11&studycollectionid=abomb)

 このカバートは、一般市民よりも特に原爆に対する知識が深かったというわけではありません。優れた宗教者の直観が働いたのだ、とする他はありません。なお、ここに見える「ジョン・フォスター・ダレス」は、あのダレス当人です。


「アメリカ国民は決して支持しない」

 また、先ほど紹介したフランクレポートの中にも次のような一節があります。

この国(アメリカ)には相当量の毒ガス兵器の蓄積がある。しかしそれは使用しない。世論調査によればそれがどんなに極東における戦争でわれわれの勝利を早めようとも、この国の世論は毒ガス兵器の使用を容認しないからだ。・・・

同様にもしアメリカの国民が核爆発物の影響を正しく知らされていたなら、一般市民の生命を完全に壊滅するような、そういう無差別な方法を講ずる最初の国がアメリカであることを決して支持しないであろう。」

 こうしてトルーマン政権中枢と軍部にとって、「原爆の実態」をアメリカの一般の市民の目から遮断しておくことが、原爆投下後の最大の課題となりました。
もしこれに失敗すれば、新たな核兵器開発予算を連邦議会に承認させることは極めて困難となります。

 トルーマン政権中枢は原爆投下の前からすでにこの努力を始めていました。

 たとえば原爆投下直後の陸軍長官声明には次のような一節があります。

アメリカの新聞やラジオは、その他で見られるケース同様、検閲局( the Office of Censorship)の要求に誠心誠意応え、この話題のいかなる段階に置いてもその報道を抑制した。」

 また、1945年7月25日、陸軍参謀総長代行のトーマス・ハンディは陸軍戦略航空隊司令官カール・スパーツに対して1通の指示書を出します。軍事的にはこれが広島への原爆投下の正式指示書になるわけですが、5項目からなる指示書の第4項目には次のような文言が見えます。

日本に対するこの兵器の使用に関する情報はその一部及び全部が、陸軍省長官及び合衆国大統領の管理のもとにある。現地司令官による当該案件に関する声明あるいは広報発表は、事前に責任当局者の特別な許可を受けない限りなさぬこと。いかなる報道記事といえども陸軍省の特別検閲を必要とする。」

 ここでいう、現地司令官は日本現地で言えば、マッカーサー司令部となりますが、マッカーサーも忠実にこの命令を守りました。


厳しい原爆検閲をしたマッカーサー司令部

 マッカーサー司令部は、戦後日本を軍事占領したときに、原爆に関するすべての報道を検閲しました。そして「原子爆弾の放射線の影響に拠って死ぬべきものはすでに死に絶え、もはやその残存放射能による生理的影響は見られない」という内容のデマ発表すらしました。(大江健三郎著 「ヒロシマ・ノート」 岩波新書 1999年7月5日 第74刷 56P)

 この時、「あの時点では、放射能の影響のことはよく分かっていなかったのだ。」と言い逃れることはおそらく不可能でしょう。

 というのは、このデマ発表とほぼ同じ時期、「米国戦略爆撃調査団」がすでに日本で活発な医学的調査活動を開始しており、ガンマ線の影響、白血球の減少、生殖器官への悪影響、遺伝子への悪影響など、が医学的に判明していたからです。
(この調査団の報告は「放射線症」という項目名のもとに以下のURLで読むことができます。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/03.htm また原文は
http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/
large/documents/index.php?pagenumber=24&documentid=65&doc
umentdate=1946-06-19&studycollectionid=abomb&groupid=
 
で読むことができます。)

 従って、この時、マッカーサー司令部は、すべての報道関係者の南日本立ち入りを禁止しました。

 この時期アメリカ軍の規制をかいくぐって、南日本に潜入したジャーナリストは3人いました。

 ウィルフレッド・グラハム・バーチェット記者、ウイリアム・H・ローレンス記者、ジョージ・ウエラー記者の3人です。

 バーチェットはフリーのジャーナリストですがこの時はロンドンのデイリーエクスプレス紙の特約特派員として日本に来ていました。

 H・ローレンスはニューヨークタイムスの特派員で、原爆投下の後広島へ入り、その惨状と急性放射能障害を詳しくレポートしました。

 ウエラーはシカゴ・デイリー・ニュースの特派員で、長崎の惨状をレポートしました。

 しかしH・ローレンスの記事も、ウエラーの記事もマッカーサー司令部の検閲にかかりボツになりました。本国への送信手段を持たないため、どうしても検閲にかからざるを得なかったのです。

 バーチェットだけはロンドンに向けての打電に成功しました。彼だけは、東京ミズーリ号上の「降伏調印式」を抜け出し、立ち入り禁止の規制をかいくぐりながら、20時間汽車を乗り継ぎ、広島に到着するまで、肌身離さずモールス信号発信器を持っていました。

 そして広島で取材した内容をデイリーエクスプレスに打電しました。このレポートが、9月5日付け同紙に掲載された「The Atomic Plague」(原子の伝染病)となりました。世界が初めて原爆の実戦使用の惨状を知った記事としてジャーナリズム史にその名をとどめます。


バーチェットにデマ記事で反撃したグローヴズ

 このバーチェットの記事を知ったレジール・グローヴズは、ただちにバーチェットの記事はデマ記事だとして反撃に出ます。

 そして全米から厳選した50人のジャーナリストを最初の核実験場アラモゴードに招いて、「放射能の危険は全くない」という記事や放送を流させます。

 この時グローヴズのかわりに、陸軍発表プレス・リリースの原稿を書いたのが、ニューヨークタイムスのウイリアム・L・ローレンスでした。

 このプレス・リリースは、アラモゴード砂漠を詳細に点検したが、どこにも放射能の痕跡はみあたらなかった、というもので、バーチェットの記事に全面的に反論したものでした。L・ローレンスも自分の書いたプレス・リリースを参照しながら、ニューヨークタイムス向の記事を書いたことでしょう。今日から言えば、L・ローレンスの記事がデマ記事です。

 ここがややこしいのですが、日本に潜入してボツ原稿を書いたウイリアム・H・ローレンスと「原爆には放射能の危険はない」という記事を書いたウイリアム・L・ローレンスとは同じニューヨークタイムスの記者でも全く別人です。

(私もこれまで何度も間違えました。つじつまがあわなくて混乱したこともあります。同じニューヨークタイムスの記者で、全く同時期の同姓同名の別人だと知ったときにはあまりの偶然に唖然とし、一人で笑ってしまいました。それからは間違えないように、H・ローレンス、L・ローレンスとミドル・イニシャルで区別するようにしています。面倒なら「善玉ローレンス」「悪玉ローレンス」とでもして区別してください。お忙しいでしょうから・・・。

またまた余計なことになりますが、「悪玉ローレンス」はアラモゴード砂漠での原爆実験にもグローヴズの好意で立ち会っています。また長崎の原爆投下の時にも、グローヴズの好意で観測機に乗り込み、長崎の原爆を目撃しています。

従ってL・ローレンスは、原爆の実験と実戦使用を目撃した唯一のジャーナリストということになります。彼が唯一最後のジャーナリストであることを心から願いますが。

彼はいずれも原稿をニューヨークタイムスに送り、デマも含めて、原爆賛美の記事を書きました。その後、悪玉ローレンスは一連の原爆報道記事でピューリッツア賞を受け、その後ニューヨークタイムスの科学部長に出世します。その後このピューリッツア賞が取り消されたという話は寡聞にして聞いていません。)


グローヴズとオッペンハイマーの電話会話記録

 最後に一つだけあげておきましょう。広島の原爆投下に成功した直後、サンタフェにいたグローヴズとニューメキシコ州ロス・アラモス研究所にいたオッペンハイマーの電話での会話記録が残っています。
(原文はhttp://www.dannen.com/decision/opp-tel.html で読むことができます。 )

 内容を一部ご紹介しましょう。
『グローヴズ: 君をとても誇りに思うよ。君の所の全員にもだ。
オッペンハイマー: うまくいきました?
グローヴズ: 明白だ。ものすごい爆発だった。
オッペンハイマー: いつでした?日が落ちてから?
グローヴズ: いいや。残念だったが、日中にやってしまわなきゃならなかった。
オッペンハイマー: ・・・・・・・
グローヴズ: そうだ、本当に長い道のりだった。私のこれまでのもっとも賢明な考えの一つが、君をロス・アラモスの責任者(the director)に選んだことだった。
オッペンハイマー: さあ、私は疑ってましたがね、グローヴズ将軍。
グローヴズ: 私がいっときだってそれを疑ったことがないのは君も知ってるだろう。 ・・・・・・・・
オッペンハイマー: 彼が何を考えているのかわからない。
グローヴズ: いや、私にインタビューして放送したいんだよ。ご要望には応じかねます、といった所だ。
オッペンハイマー: 私もそう思います。
グローヴズ: 今できるだけ、私が分かっている限り、これまでもそうだったように、「保安」を真ん中に据えておかなきゃならない。 ・・・・・・・・
オッペンハイマー: 君の質問もこの私の手元にある内容も結局、次の言葉、ということだ。「あらゆる努力は次なる目標に捧げられる」
グローヴズ: よろしいです。
オッペンハイマー: 次なる目標がはっきりし次第、それ以上の努力を傾けなければいかん。
グローヴズ: いいですね。予定に遅れないようにします。
オッペンハイマー: 今から君は新聞とかそういったものに悩まされると思うが、そいつが何であれ、君は全体観はしっかり持っていると思う。
グローヴズ: いや大して悩まされませんよ。私は彼らの中身を十分事前チェックできますからね。(I’ve got a lot of censors between me and them.)
オッペンハイマー: オーケー。 』

 ここでグローヴズが「次なる目標」といっているのは、「世論操作」であり「世論誘導」であることは前後の流れからして明白でしょう。それはアメリカ市民に「原爆が残虐で無差別な大量破壊兵器」であることを知られないことでした。

 そしてその目的は、1945年7月以降の「核兵器開発予算」を連邦政府にすんなり認めさせることでした。


新たな準戦時体制の下での新たな予算
 ここでいったんまとめておきましょう。

 原爆の実態をアメリカの市民の前に明らかにしないまま「核兵器開発を中心とする核エネルギー産業」に対する連邦予算の支出を認めさせるには、日本との戦争が終わっても、新たな戦争状態が存在すればいいのです。

 こうして冷戦(Cold War)が作り出されました。

 この冷戦を効果的に進めるためには、できるだけソ連を震え上がらせなければなりません。それには日本に対する「警告なしの使用」が、衆目の一致するもっとも効果的な方法です。こうして広島へ原爆が落とされました。

 果たして「恐怖に髪を逆立てたスターリン」は原爆の開発に狂奔しました。そしてありとあらゆる手段、これは「製造の秘密」をアメリカから盗むことも含めてですが、を使って、本来は第二次世界大戦で荒れ果てたソ連国土の復興に使うべき資金も「原爆開発」に注ぎ込んで、1949年最初の核実験に成功し、アメリカに続いて「核保有国」になるのです。この時の原爆は、何故か「アラモゴード」で炸裂した人類史上最初の核兵器「ガゼット」と、爆発規模までうり二つのプルトニウム型原爆でした。

 この時のソ連が軍備に向けて、いかにお金を使うべきでなかったか、どんな数字をあげるより、ミハイル・ゴルバチョフの次の描写が雄弁に物語っているでしょう、

 たしかにわれわれにも苦しい時期があった。時には耐え難いほどの苦しみを味わったこともある。戦争で勝利を得たあとのことだ。
  私は40年代の末に学校に入るため、南ロシア(ゴルバチョフは、カフカスのスタヴロポリの集団農場で生まれています。農業技術者だった彼の父は対独戦争で戦死。祖父はスターリンの粛清で投獄されました。)からモスクワまで汽車で旅行した時のことを覚えている。

 私はこの目で、瓦礫と化したスターリングラード、ロストフ、ハリコフ、オリョール、クルスク、ボルゴグラードの町々を見た。

 その他にもいかに多くの都市が破壊されたことか。レニングラード、キエフ、ミンスク、オデッサ、セバストポール、スモレンスク、ブリヤンスク、ノヴゴロド・・・何もかもが瓦礫に埋まっていた。

 何百、何千という都市が町が村が、そして工場や町工場が。また貴重な文化遺産も略奪され破壊されていた。美術館や宮殿や図書館、大寺院などである。

 当時西側では、ロシアは百年たっても復興できないだろうと言われていた。自国の傷を癒すのに精いっぱいで、当分のあいだ国際政治の圏外にあるだろう、ということだった。」
(ミハイル・ゴルバチョフ『ペレストロイカ』田中直毅訳 講談社1987年P51−52)

 しかしスターリンは、原爆開発に狂奔せざるを得ませんでした。

ファシズム日本に原爆をつかったアメリカが、どうして共産主義ソ連に原爆をつかわないことがあろうか?」

 「広島への原爆投下」をもって、「作られた冷戦」は華々しくその幕を切って落とされ、世界は底なしの「核兵器競争」へと突入していきます。

 そして次の問題、すなわち「新たな予算獲得」の問題は、上記「冷戦構造」という準戦時体制を作り出した上で、一般のアメリカ市民から「原爆の実態」を覆い隠した上で、議会工作で解決していきます。

 (ここまで進めてきて、最近似たようなことがあったな、という感じに突き当たりました。そうです。9・11後のジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権のことです。ありもしないイラクの大量破壊兵器を言い立て、またありもしないイランの核兵器疑惑をいいつのり、対テロ戦争を宣言し、米議会から気も遠くなるような巨額の戦費を引き出しているブッシュ政権のことです。ただ、これはおそらく外形上一致したように見える偶然でしょう。偶然に違いありません。
 いや、そうでしょう。偶然以外には考えられませんから。それにしても、何故「国際社会」はこんな子供だましにコロッと参るのでしょうか?)


米原子力委員会に引き継がれる原爆開発

 さて、こうしたトルーマン政権中枢の狙いは見事にあたりました。

 ただ一つ誤算は、トルーマンやバーンズが予測したように、ソ連が核兵器を持つのに20年もかからず、スティムソンが予測した最短年数4年で達成してしまった点でしょうか。「原爆の優位性」は4年しか持たなかったのです。

 しかしこれはスティムソンも言うように4年か20年かは大した問題ではないのかもしれません。最初から分かっていたことでした。

 ここで私の結論をもう一度確認しておきましょう。

 広島への原爆投下は、「冷戦」を華々しく開始するために、そして引き続きアメリカを準戦時体制下においておくために、そしてその後の「核エネルギー予算」を議会にできるだけ審議抜きで承認させるために、スターリンを震え上がらせるために、「無警告」で行われた、ということになります。

 もちろん、戦後の冷戦構造のなかで原爆カードを有利に使おうという意図はあったと思います。しかしそれはこうなってみれば枝葉末節です。その原爆カードの優位性も高々4年しか持たなかったのです。

 それに、スティムソンが辞任時の提言の中で言っているように「ソ連との冷戦」を避ける道もあったのを、あえてトルーマン政権はそれを選択しなかった、分かっていて冷戦の道を選びました。従ってもっと積極的に冷戦を作りだしていったということができるでしょう。

 あるいは私の結論はやや突飛に映ずるかもしれません。専門家・学者からは失笑を買うかもしれません。しかし、思いこみや頭にすり込まれた観念、戦後手探りの中で行われた研究成果(中には相当プロバガンダも混入しています。)を避け、同時代の同時進行資料だけを使って組み立ててみるとどうしてもこういう結論になります。

 ところで、広島への原爆投下の後、「核エネルギー政策」への米連邦予算支出はどうなっていくのでしょうか?

 暫定委員会での議論のように、戦後この委員会の機能と役割は全面的に米原子力委員会(U.S. Atomic Energy Commission)に引き継がれます。

 米エネルギー省歴史部発行の「米原子力委員会の歴史」(A History of the Atomic Energy Commission)の「はじめに」は次のように述べています。

第二次世界大戦の1年後、米議会は、米国原子力委員会を設立しました。その使命は、平和時における原子力科学技術の育成発展にありました。アメリカの戦後楽観主義を反映して、議会は、原子力は国家防衛にのみ使用さるべきではなく、世界平和の促進、一般市民生活の向上、民間企業の自由競争力強化のためにも資するべきだ、と宣言しました。政治家、軍事計画者、原子力科学者の間の何ヶ月にもわたる討論の後、ハリー・S・トルーマン大統領は『1946年8月1日 原子力エネルギー法』に署名し、原子力エネルギーのシビリアン・コントロールが確認されたのです。」
(原文はhttp://www.atomictraveler.com/HistoryofAEC.pdf)

 なかなか力強い明晰な文章で、うっかり読むと「広島・長崎への原爆投下の反省」の上に立って、原子力エネルギーの軍事力使用から平和利用に大きく舵を切り、軍部からその権限を奪って、シビリアン・コントロールを確立した、と読めます。(うっかり読まなくてもそういう印象を与えます。)

 この米原子力委員会は、暫定委員会で構想された「戦後体制」をほぼそっくり実現したものですから、原子力エネルギーの軍事利用・開発が当面の目的でした。

 もう少し有り体にいえば、核兵器独占を狙う勢力とそれを阻止しようとする勢力の間で繰り広げられる「核兵器軍拡競争」の、アメリカにおける作戦参謀本部兼最高司令部が米原子力委員会でした。


核兵器開発でスタートした米原子力委員会

 その狙いは、アメリカ世論の無盲目的な支持を背景に、連邦予算を獲得し、「原子力の軍事利用」を軸にして、「原子力産業」の無限の可能性を開いて行こう、というところにありました。

 この巨視的な流れの中で「広島への原爆投下」という出来事を位置づけてみると、それは大きな序盤の全体布石の中で投じられた「ほんの一石」でしかないことがおわかりでしょう。

 このことは米原子力委員会の年表を見てみるとよく分かります。(米原子力委員会年表 参照のこと)

 原子力委員会(以下AEC)が設立されて4ヶ月後、それまで陸軍の中にあったマンハッタン工区(Manhattan Engineer District)がそっくり、AECに移管されます。原爆製造・研究開発機構がそっくりAEC傘下に入ったのです。
 
 AEC初代委員長は、例のルーズベルト大統領のテネシー河流域開発計画で名を馳せた、経済界の大物、デビッド・リリエンタールでしたが、事務方トップの委員会運営理事長(The General Director)はケネス・ニコルスでした。ニコルスは、マンハッタン計画で運営責任者のレジール・グローヴズの補佐役で副責任者でした。もちろん軍人です。もっともこの時は現役軍人ではないと思いますが。

 グローヴズはどうしていたかというと、さっさと軍人をやめて、コンピュータ業界大手のスペリーランドの副社長に納まっていました。

 この年表をご覧いただいておわかりのように、50年代の終わりまで話題は核兵器に関することがほとんどといっても過言ではありません。60年代に入るとやっと「平和」や「平和利用」に関する話題が出てきます。しかも、この年表の作者は、AECが原子力平和利用機関だった、と印象づけようといろいろ腐心しています。

 49年の項に「ソ連の最初の原爆実験」を掲載していますが、62年の項に「キューバ危機」は記載していません。

 1954年3月は「一連のキャッスル作戦、太平洋で開始さる。」としか記載していません。ご承知のようにこの作戦はビキニ環礁を中心に行われた6回の水爆実験「作戦」で、最初の「ブラボー」の時に出力予測を誤って、影響範囲を小さく見積もったために、周辺の諸島にすむ市民約2万人が「死の灰」を浴びたほか、日本の市民も「第5福竜丸」事件で甚大な被害を被りました。

 AECの年表を見ると、最終的にエネルギー省の機構に吸収合併されるまで、核兵器を使った冷戦の尖兵だったことがよく分かりますが、AECが実施した核爆発となるとそのことがさらに鮮明になります。
(年度別アメリカが実施した核爆発 参照)


準核戦争状態だった1962年

 このリストの1945年3回は、最初の原爆実験トリニティ、広島への投下、長崎への投下で都合3回です。AEC成立前ですからこれは陸軍省のプロジェクトです。46年は2回行っています。これも陸軍省管轄です。クロスロード作戦と呼ばれ、敗戦国の捕獲艦船を太平洋の島に集め、原爆で沈めた有名な実験でした。長崎型と全く同じ、出力も2万トンですから、何か科学的実験と言うより、原爆の力を誇示するショーみたいなものでした。

 48年以降はAECのプロジェクトでした。49年ソ連が原爆を保有すると、「爆発件数」は増加します。月に1回か2回は爆発させていたことになります。

 特に58年は55件ですから「週に1回」爆発させていたことになります。59年、60年は件数ゼロです。これはアイゼンハワー大統領の原爆実験凍結宣言によります。ケネディが大統領に就任してからまた原爆実験が再開されますが、キューバ危機の発生した62年は、89件ですから、これはもう“準核戦争状態”に近かったのではないでしょうか。単に「人の住んでいる場所に落とさなかっただけ」という気がします。


2倍以上に増えた核兵器開発予算

 「連邦予算の獲得」はもっとドラスティックな成功を収めます。

 「アメリカ連邦政府の原子力計画への投資」を見ていただくとよく分かるのですが、マンハッタン計画を含めてこの分野における連邦予算支出は陸軍省を中心に米原子力委員会が成立するまでの期間、約22億2000万ドルでした。

 このうちマンハッタン計画に直接投じられた資金は、「原爆投下直後の陸軍長官声明」などから、42年8月〜45年6月の間で19億5000万ドルだったことが分かっていますから、この33ヶ月間を12ヶ月換算してみますと、1年間に約7億1000万ドル程度だったことが分かります。

 これが当時どのくらいの実勢価値をもつのか私には換算の手段がありませんが、少なくとも私に分かることは、19億5000万ドルで、全米に展開する原爆の製造工場群の初期建設コスト、それから工場操業に必要な費用、ロス・アラモスをはじめとする全米に展開する基礎・応用研究所の初期投資・運営費用、シカゴ大学、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学など全米にわたる大学内研究所を運営する費用などすべてをまかなっていたと言うことです。

 その費用はおおざっぱに言って毎年約7億ドル程度かかり3年間続いたということになります。

 陸軍長官声明によれば、クリントン技術工場はテネシー州ノックスビルの近郊に作られたのですが、この工場で働く従業員やその家族のためにあらたにオークリッジという町を作りました。この町の人口は7万8000人でした。7万8000人の人間を19億ドル5000万ドルの一部で、養うことが可能だったわけです。

 ハンフォード技術工場はワシントン州にありましたが、ここも同様に従業員のためのリッチモンドという町が建設され、人口は1万7000人でした。

 小さな工場は全米に散らばり、カナダまで広がっていた、と陸軍長官声明は説明しています。

 従って19億5000万ドルが当時いかに巨額なお金だったかが推測できます。

 一方マンハッタン計画をそっくり受け継いだ形の米原子力委員会の予算は、46年8月から65会計年度までちょうど20年間となりますが、この合計が346億4300万ドルになります。会計年度ごとに出してくれればもっとわかりやすいのでしょうが、これを1年平均にしてみますと、17億3200万ドルということになります。

 実際には物価の変動につれてじわじわと予算はおおきくなっていったのでしょうが、1年間に17億ドルとみて大きく外れないでしょう。

 つまりマンハッタン計画時に年間7億ドルの規模が、原子力委員会時代には2.4倍の17億ドルに成長しているのです。

 65年から75年までは会計年度別に予算支出が明記されています。この間はほぼ、22億ドルから25億ドル弱と平均しています。


「常識化」していく核兵器保有

 先にスティムソンの辞任時の大統領あてメモランダムをご紹介いたしました。

 その中でスティムソンは、この恐ろしい兵器から、人類が逃れ得る唯一の方法は「この兵器に封印」してしまうことだと、と指摘していました。まさに慧眼でした。

 またスティムソンに全く対立する考え方、すなわち「ロシアを恐怖させて底なしの核兵器軍拡競争」に世界を導き、連邦予算をふんだんに使って「核兵器を含む原子力産業の未来を切り開こう」とする勢力があったことも申し上げました。(実際には、スティムソンは政権内部では孤立していたのですが・・・)

 歴史の現実は、「警告なしの広島への原爆投下」から「ソ連との核兵器軍拡競争」へと一瀉千里になだれ込んでいき、作り上げられた「冷戦構造」の中で、アメリカの世論は、マッカシーイズムなどにもあおられながら、「共産主義との対決は正義」とし、原爆開発へ連邦予算をつかうことに何のためらいも見せなかった、盲目的にこれを支持して行くわけです。
 
 そして朝鮮戦争が終わり、デタントの兆しが見え始める頃になると、ようやく集団ヒステリアも収まり冷静になっていくわけですが、巨額の核兵器開発予算もすでに既成事実化し、みんなこれを当たり前のこととして、根本的な疑問を提出する人も(少なくとも表面上は)、見あたらなくなりました。

また50年代ダレスの「ドミノ理論」のような粗雑な政治理論は影をひそめ、60年代になると、「国政政治論」は精緻を極める理論を展開し始めます。
 
 原爆投下直後にすでにその萌芽がみられた「核抑止論」は、理論的にますます精緻化の一途をたどり、アメリカでは一つのたしかな理論として確立されます。

 「核抑止論」はよくよく読んでみると、「同義反復」と「先決問題解決の要求」を常に満たしていない「へ理屈」なんですが、何をいってもはじまらない一つの「聖典」として、ブランドと権威をもって、国際政治理論の中にその居場所見つけ、どっかり腰を落ちつけてしまいました。

 戦後こうして「核兵器保有」は、主として核兵器保有国からさまざまな既定事実化、正当化、正当理論化が行われ、一つの「常識」となっていくのです。

 それがアメリカから、ありがたい「科学的ご託宣」として世界中にばらまかれ、「学問的」外形を装いながら、「核兵器保有」は「国際政治の常識」となっていきます。

 これが今日「核兵器廃絶」を困難としている大きな要因のひとつだと、私は考えています。

 しかしながら、「核兵器廃絶」をもっと困難にしている要因が別にあります。
それは今もなお、「広島」「長崎」への原爆投下に対して、世界の少なからぬ市民の「心情的支持」があるということです。


(以下次号)