(2010.7.15)
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ
トルーマン政権、日本への原爆使用に関する一考察

5.「降伏の条件」−日本の立場

終戦の詔勅

 前回までは、「原爆投下不必要論」は、45年当時トルーマン政権が対日戦争終結を政策意図として日本に対する「原爆使用」を行ったことを根本において認めてしまっている点で、「原爆投下不必要論」が実は「原爆正当論」の亜流であることを先ず見た。

 それでは、何を政策意図としてトルーマン政権は日本に対して原爆の使用を行ったのか?そこが問題となる。

 しかし、その問題に入る前に、順序として、トルーマン政権は対日戦争終結の条件、言い換えれば天皇制軍国主義日本の「降伏の条件」はなんだ、と考えていたのか、それを見た。

 それは、45年、純軍事的には完全敗北し戦争遂行能力を失っていた日本に対する「ソ連参戦」と「天皇制存続への保証」の2点だった。これが天皇制軍国主義日本の「降伏の条件」だった。

 そして、トルーマン政権は「天皇制存続を条件とする日本の降伏の申し出」を受諾する。45年8月10日のことだ。

 次に見ておきたいのは、日本の立場から見た「降伏の条件」は何だったという点である。

 何から手をつけていいかわからないくらい多くの資料が出ているが、とりあえず昭和天皇裕仁の「終戦の詔勅」から見てみよう。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/1945_0815.htm>)

 この詔勅の中で、裕仁は「今次戦争は近隣諸国侵略を目的としたものではなかった。」「日本の防衛のためだった。」と自己弁護をした上で(なお、この自己弁護は今もなお、日本の中に広汎に存在する。)、戦局は圧倒的に不利で勝利する見込みはなくなった、と率直に認めた上で、注目すべきは次の記述である。

 加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル』
之に加うるに、敵は新たに残虐なる爆弾を使用して、しきりに無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。」

 その上に、敵は原爆という残虐な兵器を使って、罪のない人々を殺傷しはじめた。これはどれほどの災禍が及ぶかわからない。このまま戦争を続ければ、日本という国はなくなってしまうだろう。そこで私はポツダム宣言を受け入れて戦争を終結することに決めた。
 みんなも大変だろうが、「耐え難きを耐え、しのび難きを忍んで」協力して欲しい。

 さらに注目すべきは次の記述である。

朕ハ茲ニ 國體ヲ護持シ 得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ 情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排儕 互ニ時局ヲ亂リ 為ニ 大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム』

 私は国体を護持して、みんなの中心にこれからもいる。だから一時の感情に走って無茶なことはしないで欲しい。これは信義を世界に失うことになる。

 ここで、裕仁は天皇制存続を宣言した上で、温和しく自分の云うことに従ってくれ、と述べている。

 温和しく自分の云うことに従ってくれとは、平和的な武装解除、連合国との約束を守ることに協力してくれ、ということである。


日本占領成功の鍵

 ここでトルーマン政権内部で行われた、「天皇制存続」の議論を思い出す。間接的にスティムソンの手元に提出されたアメリカ海軍のバン・スリック大佐の論文の骨子は、

1. アメリカの世論は、戦後長期間にわたる日本占領を嫌っている。日本の政府がアメリカを受容しやすくすることを含めて、アメリカの政策を(日本に)示唆するのに天皇は使えるのではないか。
2. 日本国外に存在する日本軍が即座に降伏するに際して、天皇在位はその保証を与えるであろう。』

http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/04.htm
>の「天皇制存続は軍部の総意」の項参照の事。)

 というものだった。バン・スリックの狙い通り、天皇制がアメリカの日本占領と占領行政「成功」の重要なツールとして使われる萌芽がすでにここに見られる。

 またこの部分で裕仁は天皇制存続(国体護持)を何のためらいもなく宣言している。これは、すでに「天皇制存続」を保証されていることを確認できているためだと、いうことはいうまでもない。


アメリカの公式見解との一致

 この一文のテーマとの関連で、もっとも注目される箇所は「原爆攻撃」に触れた部分だ。「戦局が圧倒的に不利になっているところへ加えて原爆が登場した。今後どれほどの被害が出るかわからない。だから私はこの戦争を終結しようと決断した。」

なおこの時、裕仁はこの新型爆弾が「原爆」であることを知っていた。広島原爆の後、陸軍はこれが噂に聞く原爆でないことを祈りつつ、参謀本部有末精三中将を長とし、理化学研究所の仁科芳雄を含む科学者・技術者を広島に派遣した。仁科は広島を一目見るなり、これは原爆だと判断し、報告を挙げた。この報告は当時戦争終結論者のリーダーだった外務大臣東郷茂徳に伝わり、東郷は8月8日参内し、裕仁にこれが原爆であることを告げている。<以上「太平洋戦争史」第5巻太平洋戦争U 青木書店 1973年2月1日第1刷 p365>。なお私は、自らもウラン型原爆の研究をしていた仁科は、広島へ新型爆弾投下の第1報を聞いた瞬間に、これが原爆であることを直感したのではないか、と勝手に想像している。)

 そうすると、「終戦の詔勅」から読み取る限り、「原爆投下」が日本側の「降伏の条件」だったのか?

 そうだとすれば、トルーマン政権の政策意図は何であれ、少なくとも日本側の主観的立場では、「原爆投下」が「降伏の条件」の重要な一つだったことになる。

 またこれは「対日戦争を終結させるために原爆を使用した。」とする歴代アメリカ政権の「公式見解」とも、奇妙な一致をみせる。

 結論から言って、終戦の詔勅で使われている「原爆投下終戦論」は、精々云って「降伏の口実」として使われた、有り体にいって、アメリカの公式見解同様、「大うそ」なのである。

 それを次に見てみよう。


近衛上奏事件

 この一文のテーマは日本側の「降伏の条件」は何だったか、である。この問題を検討するには、やはり「日本降伏時」の状況を調べて見る必要がある。

 鈴木貫太郎内閣が成立したのが、45年4月7日。4月12日には、アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトが急死し、同日トルーマン政権が成立している。4月30日にはベルリンでヒトラーが自殺し、5月7日にはドイツがアメリカに対して降伏し、8日にはソ連に対して降伏した。枢軸国側で残る勢力は天皇制軍国主義日本だけになった。

 鈴木内閣は最初から戦争終結を目指した内閣だった、と言っていい。このため、鈴木内閣は「中立国ソ連」に対して「和平仲介工作」を依頼することになる。

 その前に鈴木内閣成立前後の状況をざっと概観しておこう。先ほども引用した「太平洋戦争史 第5巻 太平洋戦争U」(青木書店)のP358からP359を丸写しした方が手っ取り早い。

すでに1944年頃から戦争の将来が絶望的であることは、国際情勢や日本の国力についての知識持っている宮廷の政治家や外交官たちは理解していた。東久邇宮などの皇族、東条内閣打倒に動いた重臣、有田八郎・吉田茂らの外交官たちが、戦争の将来を憂慮して周辺の少数者と密かに終戦の方法について話し合っていたことは、多くの回想録がしるしているところである。』

 有田八郎は、戦前天皇制軍国主義政府の外交官である。1936年(昭和11年)、広田弘毅内閣に外務大臣として入閣、日独防共協定を締結した時の外務大臣。1938年(昭和13年)、第1次近衛改造内閣の外相、貴族院勅選議員。1939年(昭和14年)、平沼騏一郎内閣の外相。1940年(昭和15年)米内光政内閣の外相。44年当時は貴族院議員だったと思う。戦後は公職追放になったが、その後衆議院議員に当選している。

 吉田茂は戦後の「日米安保体制」を構築した有名なワンマン宰相だが、1944年当時は、外務省を退官して浪人だったと思う。翌45年4月にはいわゆる近衛上奏事件で憲兵隊に拘置された。45年戦後すぐに成立した東久邇宮内閣、その後成立した幣原喜重郎内閣では外相になっている。

 「太平洋戦争U」を続けよう。

45年はじめ近衛ら重臣は前述のように戦局の将来について悲観的な見通しを天皇に上奏している。』

 これが、吉田が憲兵隊の拘束を受けることになった「近衛上奏事件」である。近衛上奏は45年1月下旬から2月7日の間に断続的に行われていたようである。

 「太平洋戦争U」のp316からp317を引用して、近衛の主張を聞いてみよう。

重臣のなかでもっとも注目すべき発言をしたのは、かねてから天皇制の存続に深い関心を寄せていた近衛であった。彼の上奏には天皇制の和平の論理が集中的に示されていた。近衛は上奏にあたって吉田茂と協議して上奏文を作成した。上奏文は「敗戦は遺憾ながらもはや必至なり」と断定するとともに、―中略―、英米の世論は現在のところ国体の変更(国体の変更とはとりもなおさず天皇制の廃止のことである。)とまでは進んでいないので、「国体護持の立前より、もっとも憂うべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命」だと強調した。そして内外の情勢は共産革命に向かって急速に進行しているとして、第一に東欧などの親ソ政権の樹立に見られるソ連の異常な進出、第二に延安における岡野進(後に日本共産党議長となり、またソ連のスパイだったとして共産党を除名される野坂参三のこと)を中心とする日本人解放同盟とこれに連携する「朝鮮独立同盟・朝鮮義勇軍」の発展、第三には「生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、及、これを背後より操る左翼分子の暗躍」という共産革命の国内的条件の三点を指摘した。』

 近衛の主張は、今一番恐ろしいのは敗戦に伴って起こる共産革命である、英米の世論は「天皇制廃止」にまで至っていないので、この機会に降伏して戦争終結に持っていくべきだと、いう点にある。


近衛とスティムソンの奇妙な一致

 この退屈極まる一文を、もし最初からここまで読み進めた人がいるとするなら、6月18日アメリカ・ホワイトハウス「対日戦争の現状と見通し」における陸軍長官ヘンリー・スティムソンの発言を、あるいは思い出されるかも知れない。

 この時スティムソンは、天皇制維持まで踏み込んで発言はしていないものの、「日本には、この戦争に好意的でない厖大な最下層階級が存在し、彼らの意見や影響は表面出でてこない。もし彼らが直接自分の領域を攻撃されたら、逆に彼らは好戦的になることが予想される。彼らを眠りから起こすことになりはしまいかと心配している。」と述べて、戦後日本に共産革命が起こり、日本をソ連陣営の側に追いやってしまうことを心配した。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/02.htm
>の「ソ連参戦は降伏の条件」の項参照の事)

 あるいは、原爆を京都に投下することの反対理由として「もし京都を投下目標から除外しなければ、そういうむちゃくちゃな行為(such a wanton act)は必ず辛き目に遭うだろう、戦争が終わっても長い間、われわれは日本と和解が困難になるだろう、あるいはロシアとの和解よりも難しいかも知れない。

 私が指摘したのは、これは(京都原爆攻撃)われわれに必要な政策を妨げるかも知れない、つまり満州でロシアが(日本を)攻撃したときに、日本をアメリカに対して同情的にするという政策である。」(同上「京都を原爆投下目標から外した理由」の項参照の事)を思い出されるかも知れない。

 日本の敗戦後、日本に共産革命が起こるかも知れないという心配、それを防ぐためには天皇制を存続させるべきだ、という見解に関して、日米支配層の見方が一致していた、という点はここで記憶しておいて欲しい。

 もっとも近衛の第三点の理由、すなわち日本軍部の革新官僚の主張や動きを「共産革命の徴候」として捉えるのは全く的外れで、これは天皇制軍国主義の崩壊をファシズム強化で乗り切ろうという政策であった。これは近衛の限界というものだろう。

 こうした情勢に対して、「太平洋戦争U」の執筆グループは、

天皇制維持を至上の目的とする近衛にとっては、生存の危機や生活の絶対的な行き詰まりに瀕する民衆の生活状態や批判感情は、ただ「共産革命」の温床としての脅威の対象としてしかとらえられず、日一日と増大する国民の犠牲には何の配慮も向けられなかった。ここに天皇制にもっともつよく寄生する宮廷グループの階級的立場が明記されていた。』

 と解説を入れている。(同書p327)


不発に終わった近衛上奏

 「原爆が何故使用されたか?」をテーマとする私とすれば、この解説は大いに不満である。「天皇制存続」を至上命題とする天皇制支配層は、民衆の生活どころではない、生命すら犠牲にしてもいとわなかった。この「近衛上奏事件」の翌月3月には「東京大空襲」があり、戦局が絶望的となっている8月には広島と長崎への原爆投下があった。もちろん責任はアメリカ・トルーマン政権にある。しかし、トルーマン政権を正犯とすれば、天皇制維持が保証されるまで戦争をやめなかった天皇制支配層は、立派な従犯である。

 「終戦の詔勅」の言葉を借りれば、「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ」の正犯はトルーマン政権だが、従犯は「キミだ、裕仁君」。

この上奏(近衛上奏)に対して天皇は、アメリカの対日戦後処理方針は(日本の)軍部が唱えているように国体変革(すなわち天皇制廃止)まで考えているのではないかと語って、自己保存の願望から強い不安感を表明した。』(同書p317)

 ここで「自己保存」といっているのは、天皇裕仁個人の保存ではあるまい。裕仁は、美濃部達吉の「天皇機関説」の信奉者だった節があり、自ら天皇個人も天皇制という一つのシステムの一部品に過ぎない、と考えていたと思う。だから天皇制というシステムさえ保存できれば、裕仁個人はどうなってもいいと考えていたように思う。この点天皇裕仁は聡明でしたたかだった。

近衛はグルー国務次官(この時点では実質的な国務長官)の本心はそうではないと思うと答えて、アメリカ支配層内部の「日本派」の動向に期待を示した。結局天皇は、この段階では戦争継続を唱える軍部に同調して、「もう一度戦果をあげてからでないと中々話は難しい」と語って、勝利の見込みのないまま戦争を続けていくことに執着を見せた。』(同書p317)

 実際にはアメリカ政権内部全体から見ると、「天皇制存続派」は少数だった。戦局が進むにつれ、スティムソン、グルーなど「天皇制存続派」が政権内の主流になっていくのは先にも見たとおりである。
「4.天皇制存続−国体護持−問題」参照の事
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/04.htm
>)

 しかし、もう一度戦果をあげてから、という裕仁の判断は全く誤っていた。戦果などあげられる状況ではなかったことは先にも見たとおりである。軍部の希望的観測に引きずられた、というべきであろう。

 私のテーマ「トルーマン政権は何故日本に対して原爆を使用したか?」というテーマに対しては、やや終戦史にのめり込み過ぎと見えるかも知れない。しかし、天皇制存続にかける日本の支配層の執念が結果として、戦争終結を遅らせ、トルーマン政権の日本に対する原爆使用の機会を与えることになったことを考えれば、そしてこのことが今日の「核兵器時代」をもたらす発端になったことを考えれば、のめり込みすぎとはいえない。

 以上が大まかに云って「近衛上奏事件」の概要だ。結局45年2月当時の終戦工作は不発に終わった。

 だから、「太平洋戦争U」の執筆者グループが、

彼ら(近衛をはじめとする宮廷内部の和平推進派)も戦争遂行に狂奔している軍部や政府当局の圧力に抗して、反戦平和の政治活動を行うことはいっさいしなかった。彼らが予見していたのは敗戦か革命かの道であり、いかにして革命を防いで妥協和平をもたらすかに苦慮していたのである。国体護持すなわち体制の維持を唯一の願いとしている点で、和平派は軍部の主戦派と本質的な違いを持つものではなかった。したがって和平派といえども国民のあいだにある戦争への不満や平和への願いを基礎とした和平運動を展開するはずがなかったのである。』(同書p359)

 と書いているのはおおむね正しい歴史認識といえよう。


鈴木内閣の「対ソ工作」

 こうした中で、鈴木内閣の「対ソ工作」が本格化する。

 今考えてみると、この時期の日本の支配層の情勢認識の甘さや「独善主義」には、いささか驚かざるを得ない。日ソ中立条約が成立中だったとはいえ、すでにスターリンは日本を侵略国家として規定していた。また45年2月のヤルタ会談のことを全く知らなかったはずはあるまい。この時「ドイツ降伏後3ヶ月以内にソ連は対日参戦する」という約束を仮に知らないとしても、ソ連はすでに4月5日には、期限満了後の日ソ中立条約の廃棄を通告してきている。ドイツ敗戦後、ソ連軍はその兵力を続々ソ満国境に集結している、という報告も入ってきている。

 にも関わらず、外務省も軍部も「ソ連に対日参戦させない工作を行い、進んで好意的中立を獲得し、アメリカとの戦争に関して我が方に有利なる仲介をなさしむる。」ことを政策として決定する。(45年5月11日、12日、14日の最高戦争指導会議。「終戦史録 外務省編」(外務省編纂 北洋社 昭和52年9月16日第1刷)

 この外務省の「独善主義」は今に至るも続いている。親分が「天皇・軍部」から「アメリカ」に変わっただけだ。

 この「対ソ工作」はスターリンにいいようにあしらわれている。

 しかしこのことは天皇制軍国主義日本がいかにソ連に期待をかけたか、逆にソ連が日本に参戦すれば、万事休す、と考えていたかを表している。

 こうした中で、7月27日日本にポツダム宣言が到着した。
 
同日午前、最高戦争指導会議の構成員だけの会議が開かれた。東郷外相はこの宣言は有条件講和の申し出であるから直ちに拒否することなく、しばらく意思表示をしないこととし、対ソ交渉をすすめてから措置を決めるべきだと主張した。』
(同書p161)

 ポツダム会談時に至っても天皇制軍国主義日本は、対ソ工作に望みをつないでいたことがわかる。結局この時は、東郷の主張が通って対ソ工作の様子を見ることになる。


無条件降伏?有条件降伏?

 実際にはポツダムでスターリンは8月15日に対日参戦を行うと、トルーマンに告げている。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/03.htm
>の「ポツダムにおけるトルーマン」の項参照の事)

 それよりもこの部分を読んで、私は「オヤ?」と思う。というのは、東郷は「この宣言は有条件講和の申し出だ」と言っているからだ。ポツダム宣言は第13条で「われわれは日本政府に対し日本軍隊の無条件降伏の宣言を要求し、かつそのような行動が誠意を持ってなされる適切かつ十二分な保証を提出するように要求する。もししからざれば日本は即座にかつ徹底して撃滅される。」(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/potsudam.htm>)と述べ、明確に「無条件降伏」を要求している。だが東郷は「有条件講和」だといっている。

 「太平洋戦争史U」はこの矛盾について全く説明していない。『ソ連の仲介を得ることによって、戦争終結の条件を日本に有利に変更することができるかも知れないと望んでいたのである。』と説明するだけである。

 この時の最高戦争指導会議には強硬派の陸軍参謀総長、海軍軍令部総長も出席していた。この2人を納得させて、しばらく様子を見ようと云わせるだけの条件でなくてはならない。とすればそれは「天皇制存続を認める」という条件ではあるまいか?

 私は最新の歴史研究の成果を参照していないので、あるいはこのことはすでに歴史的事実として確認されているのかも知れない。

 それにつけても思い出されるのは、ポツダム宣言2日前のトルーマンとスティムソンの会談のことである。この時、スティムソンは自分が準備したポツダム宣言の草稿から、トルーマンの承認を得てバーンズが「天皇制存続条項」を削ったことを知っていた。その上で「何らの形で天皇制存続を約束すべきだ。」と迫った。それに対してトルーマンは「なんとかしよう」と答えている。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/04.htm
>の「天皇制存続保証問題」の項参照の事)

 トルーマンは第三国経由の口頭で、「天皇制存続保証」を鈴木内閣に伝えたのではないか?こう考えると、東郷が「有条件講和」だと見なした理由も理解が出来る。

 とりあえず、ここでは「天皇制存続」は、天皇制軍国主義日本にとって「降伏の条件」、それも「降伏の絶対条件」だったことを確認しておけば十分だろう。


ソ連の対日宣戦布告

 一方対ソ交渉の方はどうだったろうか?

 註ソ大使の佐藤尚武(戦後参議院議長)はこの時、対ソ工作に望みをつなぐべきではない、速やかに降伏すべきだという意見を本省に寄せていた。今佐藤の東郷外相宛の電信を読んでみると、「ソ連が好意的中立の立場を取るとは到底思えない。これは今始まったことではない。私がソ連に着任して以来ずっとそうである。対ソ工作に望みをつなぐべきではない。すぐに降伏すべきである。」といった内容の電報を繰り返し、外務省本省に打電している。切々たるものがある。(前出「終戦史録3外務省編」p190−p204)

 現実は佐藤の予見したとおり、ソ連は参戦し、それが「遅すぎた降伏」の直接の引き金になった。

 ポツダム宣言に関しては、鈴木内閣としては取りあえず、ソ連の態度を見極めるまで様子を見ようという方針だったが、7月28日鈴木は記者会見を開き、

あの共同宣言は、カイロ宣言の焼き直しである。政府としてはなんら重大な価値ありとは考えない。ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂にあくまで邁進するのみである。』

 と述べた。この時の「黙殺」は「reject」(拒否)と英訳されて報道された。日本政府は正式な外交ルートで回答をしていないが、この記者会見が連合国側に伝わり、「ポツダム宣言拒否、戦争続行」と解釈されたのは有名な話である。(同時に余りにもバカバカしい話で唖然とする。こうした愚かで、無責任で不注意極まりない戦争指導者のために多くの人命が、東京でも、大阪でも、沖縄でも、広島でも、長崎でも、日本中到るところで失われたことを今私たちは忘れるべきでないだろう。「繰り返しませぬ、あやまちは」などと云っている場合ではない。)

 さて8月6日広島原爆投下の後、日本の指導層には戦争終結に向けた具体的な動きはなかった。8月6日、7日東郷外相はモスクワの佐藤大使に、ポツダムから帰国したソ連外相モロトフに、和平仲介に関する回答を得るべく至急会見するようにという電報を打つばかりであった。

 モロトフと佐藤の会見は8月8日に実現した。モロトフは、日本政府への「仲介依頼」に対する回答に替わりに、宣戦布告文書を読み上げてこれを佐藤に手渡した。


最後の山場の戦争終結

 戦争終結に向けた動きが慌ただしくなるのは、その後である。

 外相東郷は8月9日未明ソ連が満州国境を越えて日本と交戦を開始したことを知ると、朝早くに首相鈴木を訪ね、早急に戦争終結することを説いた。首相の鈴木もすぐさまこれに同意して最高戦争指導会議を開くことになった。内大臣木戸幸一からも戦争終結を図るべきだ、という天皇裕仁の意向も伝わってきた。

 結局「ソ連参戦」という事態が、戦争終結へ向けて事態を動かしたのである。鈴木も、東郷も、木戸も、天皇裕仁も、その他の指導者たちも、あるいは軍部も思いは同じだった。ソ連参戦では万事休すである。

 トルーマン政権は当時、「降伏の条件」はソ連参戦である、と一貫して観測してきたが、事態はその通りになった。

 9日午前11時少し前、最高戦争指導会議が始まった。

 以後は児島襄の「天皇」第5巻(文藝春秋社 昭和49年10月10日 第1刷)から引用する。

午前十時半、最高戦争指導会議構成員会議が宮中でひらかれた』(同p374)

 出席者は首相鈴木、外相東郷、海軍相米内光政、陸軍相阿南惟幾、海軍軍令部総長豊田副武、陸軍参謀総長梅津美治郎の6人である。

 児島は会議が始まったのは午前10時30分としている。「太平洋戦史U」は11時少し前としている。なにしろ議事録がなくて、出席者のメモでこの会議の内容を再構成するのだから、記憶がまちまちになるのはやむを得ない。10時30分でも11時でも大勢に影響はない。

 鈴木は「ポツダム宣言受諾」を会議に提案した。

 児島によれば、この後5分間の沈黙があったという。最初に口火を切ったのは米内だったという。

「ポツダム宣言」を無条件で受諾するか、それとも希望条件を提示するか―このいずれかを選ぶほかに検討の余地はないようだ、と米内海相は指摘した。』
(同書p374-p375)


 すでに見たように、また東郷外相の認識でも明らかなように、この米内の発言はおかしい。ポツダム宣言で示された講和条件は「無条件降伏」ではなかった。天皇制存続を一定の条件とした「降伏」だった。「いやポツダム宣言には無条件降伏と書いてある。」というのは形式論理というものだろう。

 現実に、少なくとも東郷や天皇裕仁、鈴木の理解では、「天皇制存続を条件として」ポツダム宣言を受け入れる、という見通しを持っていたのだから。

 この米内の発言に対して、この本の著者児島は何の注釈も入れていない。ということは児島もまた、ポツダム宣言は無条件降伏の宣告だった、と理解していることになる。

 米内は「国体護持」(天皇制存続)の条件の他に、「戦争犯罪人の処罰は日本側に任せる」、「武装解除は自主的に行う」、「保障占領の中止」の3つの条件が考えられる、と鈴木提案の対案を提示した。結局会議はこの2案の選択を巡って議論されることになったのである。

東郷外相は国体護持(天皇制存続)以外の条件をつけては交渉は決裂するだけだ、と主張した。鈴木首相と米内海相が同意したが、阿南陸相と2人の総長は、他の三条項の緩和または自主的実施を相手側に納得させない限り終戦は不可能だ、と強調して譲らなかったのである。』(同書p375)


影響を見せない長崎原爆投下

 この、無責任で下らない最高戦争指導会議は堂々巡りのまま午後1時半にいったん終了した。重要なことはこの日午前11時30分に長崎に2発目の原爆が投下されていることだ。

 長崎原爆投下の第一報がいつ政府にもたらされたのか私にはわからない。

 最高戦争指導会議に引き続いて2時30分から開かれた閣議には長崎に原爆が投下されたことが報告されたそうだから(「天皇第5巻」p376)、11時30分から午後2時30分の間には、報告がもたらされたはずだ。少なくとも天皇裕仁、首相鈴木、外相東郷にはこれが原爆であることはわかった筈だ。

 極めて重要なことは、「長崎原爆投下」の報が、政府の意志決定になんらかの影響を及ぼした痕跡がないことだ。

 午後2時30分から始まった閣議も延々と小田原評定を繰り返した。

まだ敗北していないのだから、敵の条件を鵜呑みにする必要はない、と阿南陸相は言うのである。
「局所局所の武勇伝は別だが、ブーゲンビル戦以来サイパン、ルソン、レイテ、硫黄島、沖縄島皆然り、皆敗けている。」』
と米内が主張する。

「会戦では敗けているが、戦争では敗けていない。陸海軍間の感覚が違う。」
阿南陸相は決然とした語調で反発し、ひとしきり米内海相との間に、敗けている、いない、の論争が展開された。』(同書p380)

 あまりにバカバカしいのでもう引用をやめるが、私の引用の意図は、激論が続いたことを書くためではない。この時の指導者がいかに無責任で、国民の生命・財産、生活の安定など全く眼中になかったかを書くためである。

 私がこの最高戦争指導会議や閣議のことを書くのなら一行で済む。

 「全員が余りにも無責任で愚かだった。」


日米了解の天皇制存続

 閣議はなんと午後10時20分まで続く。結論は出なかった。

 首相の鈴木貫太郎は、決着を御前会議に持ち込んで、天皇裕仁に裁決させようと目論む。

 8月9日午後11時50分、閣議終了後1時間半後、最高戦争指導会議が平沼騏一郎枢密院議長を加えて御前会議として開かれた。会議では鈴木が「天皇制存続」を条件としてポツダム宣言を受諾する(いわゆる東郷外相案)を提示し、軍部側は米内をのぞいて4条件案を展開した。決着がつかないまま、鈴木は裕仁の「思し召し」を問うた。

 天皇裕仁は明確に東郷外相案を支持した。最高戦争指導会議の結論は、「天皇制存続を条件としてポツダム宣言受け入れ」に決定した。この後軍部がまだゴタゴタ云うが、すでに大勢は決し、日本政府は8月10日「天皇の国法上の地位変更なきものとして、ポツダム宣言の受諾」の通知を行った。

 この通知に関するアメリカ側の対応はすでに「4.天皇制存続(国際護持)問題」(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/04.htm
>)
で見たとおりである。

 「天皇制存続」は、文言の言い回しはどうあれ、すでに日米支配層の「暗黙の了解事項」であった。

 こうしてトルーマン政権同様、日本側にとっても、「降伏の条件」は「ソ連の参戦」と「天皇制存続」だったのであり、決して日本に対する「原爆の使用」ではなかったのである。

 それでは、この文章の冒頭に引用した「終戦の詔勅」で使われた「加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル」の一文は一体何だったのか?

 日本に対する「原爆の使用」は、これまで見たように日本「降伏の条件」ではなかった。


軍部のメンツを救った原爆

 これに関して、終戦後日本に調査団を送って「原爆の効果」を調べた米国戦略爆撃調査団は、「米国戦略爆撃調査報告―広島と長崎への原爆の効果」の中でうまいことを云っている。

 この調査団は、「調査団は700人以上の日本の軍人、政府関係者、民間における要人を尋問した。また調査団は多くの文書を発掘し翻訳した。」(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/01.htm>)と述べている通り、日本の主要な人物の聞き取り調査をした上で出した結論と考えられる。

原爆そのものは軍部をして、本土防衛は不可能と悟らせることは出来なかった。しかしながら、政府をして「武器のない軍隊がどうやって武器を持っている敵に抵抗できるんだ」と言わしめることはできた。このようにして原爆はいわば軍部指導者のメンツ(“face”)を救ったのである。それは決して日本の産業家たちの財産のことを考えた訳でもなければ、日本の兵士たちの武勇のことをおもんばかったためでもない。』

 原爆は、日本降伏の決め手にはならなかった。それは精々軍部の「メンツ」を救ったに過ぎない、というのである。

 そして次のようなエピソードを紹介している。

この時(ポツダム宣言受諾時)政府部内の高官たちの間に辛辣な皮肉(a quip)が飛び交った。「原爆こそ本当の神風(Kamikaze)だ。これ以上の無益な殺戮と破壊から日本を救ってくれたのだから。」原爆の中に、日本政府は、模索していた機会、すなわちポツダム宣言受諾問題に関して乗り上げていたデッドロックを打ち破る機会を見いだしたと言うことは明白だろう。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic
_Bombing_Survey/03.htm
>)

 「終戦の詔勅」での「原爆」は「降伏の理由」ではなく「降伏の口実」だったのである。


(以下次回)