(2010.7.14)
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ
トルーマン政権、日本への原爆使用に関する一考察

2. ホワイトハウス「対日戦争会議」 1945年6月18日

「日本降伏の条件」が出発点

 「原爆投下不必要論」は、「日本への原爆使用」に関するトルーマン政権の「意図」が対日戦争終結にあったことを基本的に認めている点で、実は「原爆正当化論」の亜流に過ぎないことを前回確認した。

 それではトルーマン政権は本当に対日戦争終結の意図を持って日本に対して原爆を使用したのか?

 この問題を解明する鍵は、1945年当時日米両政府が、何を対日戦争終結の決定的要素と見ていたか?本当に日本に対する原爆使用が決定的要素を握ると考えていたのかどうかという問題から手をつけなければならない。

 最初にお断りをしておきたいのは、この問題を考える際、トルーマン政権側の事情に関しては、学者・研究者の考察や結論をほとんど参照していないということだ。参照すれば便利であることはわかっているが、こうした学者・研究者の考察や結論は、第二次世界大戦後に発表された資料に基づいて書かれているものも多く、一定のプロパガンダが混ざっているからだ。夥しい資料の中から、プロパンガンダとそうでないものとを見分けていくことは非常にむつかしく、一切参照しないことに決めた。

 またアメリカ側の事情については、こうした学者や研究者に依存しなくても、一定程度分析ができる。というのは戦後機密解除された文書を読むことが出来るからだ。しかもアメリカは、日本の政府と違って実にこまめに文書化作業を行ってくれている。

 それに対して日本の明治以来の官僚政府は、現在に至るまで公的文書を広く人民の所有物と考えておらず、自分たちの私有物と考えている。御前会議に至っては正式議事録すら残していない。「依らしむべし、知らしむべからず」の発想は今に至るも色濃く官僚政府を特徴付けている。「民主主義」とは名ばかりである。

 従って日本側の事情を知るには学者・研究者・優れたジャーナリストたちが書き残した資料を参照する他はない。

 戦後発表されたものの中で、あてにならないものの代表例は、「トルーマン回想録」や「マッカーサー回想録」など「回想録」ものだろう。代表的には「原爆投下は100万人のアメリカ人将兵の命を救った。」とする記述だろう。トルーマンは回想録を書くにあたって学者やジャーナリストなど5−6人のアシスタントを雇ったらしいが、資料整理段階でのインタビューでは、「原爆投下は25万人のアメリカ兵とそれに倍する人命を救った。」と語っている。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Robert-19.htm>)それがいつの間にか100万人にふくれあがるのだから、話にならない。


九州上陸作戦損害、マーシャルの推定

 45年6月18日のホワイトハウスでの「対日戦争会議」では、九州上陸作戦に伴うアメリカ軍の損害について、マーシャルは「太平洋戦争の経験から云えば、損害に関しては、かなりばらつきがあり、数字的推定を行うのは間違いである、と考えられる。」と前置きした上で、「最初の30日間の損害はルソン島上陸作戦における犠牲を上回るものではないと信ずるに足る根拠がある。」と述べている。

 この会議ではルソン島上陸作戦における損害は3万1000人と報告されているので、マーシャルの考えは、九州上陸作戦の最初の30日間の損害は3万5000人を上回るものではない、という事がわかる。

 ちなみにこの会議では、ノルマンディー上陸作戦の損害は「最初の30日間で4万2000人」と報告されている。また沖縄上陸作戦では、陸軍の損害が3万4000人、海軍の損害が未整備ながら7700人で合計約4万2000人、と報告されている。
(以上<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/whitehouse_19450618.htm>参照の事。)


 ノルマンディー上陸作戦は、アメリカの損害がもっとも大きかった作戦の一つ、とされており、また沖縄上陸作戦の激戦だった、と云われている。だから、九州上陸作戦の損害推定の3万人以上、というのは当時のアメリカ軍としては、激戦を予想していたことにはなる。

 ちなみにここでいう「損害」の元の言葉は "Casualty"で、全員が戦死者という意味ではない。戦死者・負傷者・病者・行方不明者などを含む損耗人員のことをいっている。

 しかし、25万人説にしろ、100万人説にしろ、後に出てくる数百万人説にしろ、全く根拠のない数字だということは、誰にでもわかる。

 また、トルーマンが別に書いたり喋ったりしていることの中には、私でもわかるウソが数多く混じっている。前回紹介したカール・コンプトンの論文「もしも原爆を使用しなかったら」の中にも、重要なウソがいくつか混じっている。しかし、アメリカの学者や研究者の中には、こうしたウソや事実関係の間違いを、少なくとも「原爆問題」に関する限り、そのまま鵜呑みにする傾向があり、それがまた日本語に翻訳されてまことしやかに流布する傾向がある。

 こうしたウソや誤解を丁寧に調べていくことも重要だが、私はそれを専門にする学者でも研究者でもない。1945年のトルーマン政権の「日本への原爆使用」問題を考えてみたい一介の広島市民にすぎない。であるならば、こうした危ない部分を含んでいるかも知れないデータは全部抛り捨てて、信頼の出来る第一次資料だけで考察した方が得策、と判断した。


「ソ連参戦」は「降伏の条件」

 さて問題は、1945年当時、日本の天皇制軍国主義政府が連合国(実質的にはアメリカ)に対して降伏する条件は一体何だったかというテーマと、逆にアメリカ・トルーマン政権は、日本が降伏する条件は一体どんな要素と見ていたか、というテーマである。

 別な言い方で云うと、トルーマン政権は「日本に対する原爆使用」を、対日戦争終結にあたってどれほど重要な要素と見ていたか、ということでもある。

 今現在、確認できる範囲で云うと、1945年6月以降(ということは沖縄戦以降ということだが)、近代戦遂行能力を完全に喪失していた天皇制軍国主義日本がする条件として、トルーマン政権は2つの要素が決定的、と見ていたことがわかっている。

 1つは「ソ連の対日参戦」であり、もう1つは「天皇制存続」である。「天皇制存続」とは、日本側の言葉で云えば「国体護持」である。天皇制存続を保証すれば日本は降伏するという事でもある。(これは厳密に言って無条件降伏ではない。)

 45年6月18日にホワイトハウスで開催された、「対日戦争の現状と見通し」会議で、9月1日九州上陸作戦開始を決定し、続いて関東平野侵攻作戦を正式決定した後、この会議は、「もし日本が進んで降伏するとすれば、どんな条件が揃った時だろうか?」という設問を自ら投げかけ、この設問に次のように答えている。

(1)海上封鎖と空爆によってすでに壊滅が決定的でありかつ(2)日本上陸によってわれわれの勝利が確固として示され、また恐らくは(3)ロシアが参戦の恐れがあるか又は実際参戦したとき。」
 
 (1)と(2)は純軍事的な考察であり、判定に客観的な基準はないが、(3)は政治的要素を多分に含んでおり、かつ極めて具体的な条件である。一言で云えば、この時トルーマン政権は、「ソ連参戦」が決定的な要素と見ていた。

 日本の天皇政府は、45年4月7日小磯国昭内閣が総辞職し、鈴木貫太郎内閣が発足していた。「日米戦争」を終結させるためである。鈴木内閣はソ連に和平を仲介することを正式決定していた。

45年4月5日、ソ連、日ソ不可侵条約の不延長を日本に通告。5月14日最高戦争指導会議、対ソ終戦工作開始決定。6月初旬にはこれを受けて広田弘毅とマリク駐日ソ連大使の会談が始まっている。この一連の対ソ終戦工作では、日本の天皇政府は完全にソ連に翻弄されている。)

 この6月18日のホワイトハウス会議では、体調不良で発言を控え勝ちだった陸軍長官のヘンリー・スティムソンが注目すべき発言を行っている。

 彼は、『私は軍事的によりも政治的に私の責任を果たしたい。』と前置きした上で、

日本には、この戦争に好意的でない厖大な最下層階級が存在し、彼らの意見や影響は表面出でてこない。もし彼らが直接自分の領域を攻撃されたら、逆に彼らは好戦的になることが予想される。彼らを眠りから起こすことになりはしまいかと心配している。』

 スティムソンは、もし日本で激しい戦いを展開すれば、意識的・無意識的に天皇制軍国主義に不満を抱いている最下層階級が、その混乱に乗じて共産主義革命をおこすのではないか、という心配をしていることになる。

 この時点では、スティムソンはすでに「天皇制存続論者」であったが、それは天皇制を存続させた方が、戦後占領がスムースに運ぶ、という理由による。と同時に天皇制を存続させることによって、戦後日本の共産主義革命を防ぐという考えもあったようだ。


京都を原爆投下目標から外した理由

 話は前後するが、軍部の原爆投下目標委員会は、すでに最初の原爆の候補地として京都と広島を「AA」に挙げていた。しかし京都を候補地とすることは、スティムソンが許可しなかった。

 45年6月1日付のスティムソン日記には、スティムソンが陸軍航空隊の最高司令官アーノルドを呼んで、東京大空襲や大阪大空襲など、無差別な都市戦略爆撃を激しくなじる箇所が出てくる。

 そして日本への空襲は正確なものとするというロバート・ロベット(空軍担当の陸軍長官補佐)との約束について話した。東京への空襲はこの約束とはほど遠いではないかと云った。(1945年3月のB−29による東京大空襲のことをスティムソンは云っている。スティムソン日記によれば、スティムソンはこの東京大空襲の事を新聞の報道で知った、という)

 私は、どんな事実関係があったのか知りたかった。

アーノルドは、ドイツと違って、日本は工業地帯が集中しておらず、細かくしかも一般住宅とくっついて分散しているために、空軍は爆撃に際して困難な状況にある、ヨーロッパにおけるよりも、日本では軍事生産施設だけを狙って爆撃するのは不可能である、従ってどうしても一般市民に損害を与えることになる、といった。

しかし、彼はできるだけ軍事生産設備だけを狙うようにする、といった。

私は、私の許可なしに爆撃してはならない都市がある、それは京都だ、とアーノルドに云った。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450601.htm>)

  
 スティムソンが、京都を無差別爆撃(これは当時のアメリカ軍部の用語に従えば、「戦略爆撃」と云うことになるのだが)することを許可しなかった理由は明白だろう。それは京都が以前の日本の首都であり、「ミカド」のふるさとだったからだ。京都を破壊してしまっては、日本人の心は完全にアメリカから離れ、戦後占領政策がやりにくくなるばかりか、かえって共産主義革命の方に追いやってしまう、という心配があったからだ。

 「天皇制存続」と相まって、スティムソンの深謀遠慮というものだろう。マンハッタン計画の軍部側最高責任者レズリー・グローブズは、あくまで京都を原爆攻撃したかったようだ。それは、広島に原爆を投下するよりも京都の方が、はるかに劇的な効果があったからだ。

 ホワイトハウス会議から約1ヶ月後に始まるポツダム会談にトルーマンに随行する形で、ポツダムに移ったスティムソンに、グローブズは京都を原爆攻撃する許可を求める。この時スティムソンは、「何か事情でも変わったのか?もし事情が変わったのなら説明して欲しい。」と皮肉たっぷりに、グローブズの要求をはねつけている。

 京都を原爆攻撃するかも知れない、というスティムソンの不安は根拠があったもののようで、今度はポツダムでトルーマンに念押しをしている。

 7月24日(アラモゴードの原爆実験成功は7月16日だった。)付けの、スティムソン日記に次のような記述が見える。

 S−1計画(マンハッタン計画のこと)に関して2−3言、(トルーマンと)言葉を交わした。
 そして再度、私は彼に、提案されている投下目標のうちの一つ(京都のことである)を除くべき理由を説明した。彼は、非常に勢いよく、繰り返し繰り返し彼が正しいと信じている信念について私に語って聞かせた。また特に私の進言については、力強く同意した。
 もし京都を投下目標から除外しなければ、そういうむちゃくちゃな行為(such a wanton act)は必ず辛き目に遭うだろう、戦争が終わっても長い間、われわれは日本と和解が困難になるだろう、あるいはロシアとの和解よりも難しいかも知れない。
 私が指摘したのは、これは(京都原爆攻撃)われわれに必要な政策を妨げるかも知れない、つまり満州でロシアが(日本を)攻撃したときに、日本をアメリカに対して同情的にするという政策である。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450724.htm>)


 今考えてみて、スティムソンは先の先まで考え抜いていた、ということができるだろう。



 結局、6月18日のホワイトハウス会議は、「対日戦争終結」という話題は、「ソ連参戦」問題を中心に展開することになり、最終的には海軍作戦部長のE・J・キングの次のような言葉で締めくくられている。

 (キングは)ロシア参戦が望ましいかどうかにかかわらず、ロシア参戦は欠くべからざるものではないこと、また、頭を下げてまで参戦してもらう必要はないことを強調したい、と指摘した。確かに日本を叩くにはコストがかかるが、この点について、疑問の余地はない、(すなわち)アメリカ単独でやってやれないことはない、とキング元帥は述べ、この現実をしっかり把握しておくことは、やがて臨む会談(ポツダム会談)で、大統領の手札を強化すると考えている。』

 このキングの発言は、「ロシア参戦の必要はない」という所に重点があるのではなく、ロシアに参戦してもらおうとするがために、ポツダム会談でスターリンに対して譲歩に譲歩を重ねると云った事態は避けて欲しい、対日戦争終結をアメリカ単独でやってやれないことはない、と言う点に重点がある。

 逆に言えば、「対日戦争終結」にあたり、この時期のトルーマン政権がいかに「ソ連参戦」を望んだか、という事でもある。

 結局この日の会議の目的は、ポツダム会談を前にして、対日戦ソ連参戦を巡るスターリンとの駆け引きの手札調べ、という意味合いが強かった。


話題に出ない原爆

 この日の会議では、議事録を読む限り原爆のことは全く話題に出ていない。

 「対日戦争終結のために、日本に対して原爆の使用が決定され、広島と長崎に対して原爆が投下された。」と信じている立場からすれば、ポツダム会談を前にしたトルーマン政権内部における「対日戦争軍事最高会議」に原爆のことが全く話題に出ていないのは、いささか奇異に映るかも知れない。

 考え方の一つは、「マンハッタン計画」は当時最高機密であり、そのことに配慮して原爆を話題に出せなかった、ということである。しかしこの日の会議の顔ぶれを見ると、この想定には無理がある。

 大統領トルーマンはもちろんのこと、レーヒーは大統領最高軍事顧問であり、スティムソンのように直接担当ではなかったものの、マンハッタン計画を知らないはずはない。アーノルドの代理で出席したイーカーもマンハッタン計画のことを全く知らない、というのは考えにくい。「原爆投下」は陸軍航空隊(当時事実上の空軍)の専管事項であり、すでに509混成航空群(いわゆる509混成部隊)が組織され訓練が開始されていた。その肝心の空軍トップが「マンハッタン計画」のことを知らない筈はないだろう。海軍長官のジェームズ・フォレスタレルや海軍作戦部長のキングもマンハッタン計画のことを全く知らないということも考えにくい。海軍の軍側トップと行政側トップだからというだけでなく、原爆攻撃自体が陸軍と海軍の共同作戦という性格をもっていたからだ。早い話、原爆攻撃の拠点となったテニアン島北部飛行場にある原爆組み立て工場に部品を運ぶには、海軍の艦船を使わざるを得なかったし、大体「広島攻撃」の任務を負ったエノラ・ゲイの核攻撃士兼爆撃司令官のウィリアム・パーソンズは海軍大佐だ。(「特別ミッション13 第1投下目標 ヒロシマ 1945年8月6日 名簿」の「エノラ・ゲイ」の項参照の事。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/509/special_mission_13_name_list.htm>)

 陸軍参謀総長マーシャルは、グローブズの軍部側直属上司だし、事実「暫定委員会」に招聘参加者として、グローブズと共にしばしば「暫定委員会」に出席して意見を述べている。スティムソンやグローブズと共に、マンハッタン計画の最高責任者グループの一人といっていい。


「暫定委員会」

 ここで簡単に「暫定委員会」(Interim Committee)について、説明しておこう。この委員会は、核兵器(原爆)政策全体に関するトルーマン政権最高の、事実上の意志決定機関であった。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee.htm>を参照の事。)

 核兵器開発開始を決定したのは、時の大統領フランクリン・ルーズベルトだ。ルーズベルトはこの問題を陸軍長官ヘンリー・スティムソンに委ねた。ルーズベルトは、核兵器を含む原子力エネルギー開発問題の「文明史的課題」をよく理解していたし、その政治的意味をよく理解していた、といえよう。

 ところが、そのルーズベルトは45年4月12日に急死する。急遽副大統領から大統領に昇格したトルーマンはこの問題、すなわち「核兵器を含む原子力エネルギー開発問題」については全く何も知らなかった。(と、トルーマンは回想録で書いているが、トルーマン研究家のロバート・ファレルは、薄々知っていた筈だ、とどこかで書いていた。しかしこれはどちらでもいいことで、トルーマンが最後の最後まで、原爆を単に桁外れの軍事兵器としか理解できず、核兵器の文明史的意味を理解できなかったことには変わりない。日本に対する原爆の使用に最後まで反対したレオ・シラードは「トルーマンは自分が何に関わっているのか、全く分かっていなかった・・・。」と酷評している。(レオ・シラード インタビュー記事「Truman Did Not Understand」参照の事。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/reo.htm>)

 スティムソンは、そのままトルーマンに「核兵器開発問題」に関する重要な判断と決断を求めるのは無理と考え、大統領のためのこの問題に関する諮問委員会を作った。それが「暫定委員会」である。ルーズベルトの急死、トルーマンの大統領昇格という自体がなかったら、恐らく「暫定委員会」は必要なかっただろう。「暫定委員会」が出来たおかげで、今日我々はその議事録を読むことが出来、「日本に対する原爆使用」問題を考えるヒントを豊富に提供して呉れることとなった。

 ヘンリー・スティムソンはこの暫定委員会の委員長である。また6月18日のホワイトハウス会議出席者として名前の見えるJ・J・マクロイは、スティムソンの側近中の側近として、ほとんどの問題に関わっており、また暫定委員会に招聘参加者として出席したこともある。

 だからこの6月18日ホワイトハウス会議の顔ぶれで、対日戦争を論じる際、原爆の話が出なかった理由を、「マンハッタン計画が機密だったから」というのは全く考えにくい説明である。
それでは、この日の会議で何故原爆のことが話題に出なかったのだろうか?

 「マンハッタン計画」は大詰めにさしかかっていたというものの、アラモゴードでの実験は45年7月16日のことである。この時点で「原爆」を対日戦争終結の決め手、と考えるには無理があった、という考え方が一つ。

 もう一つは、仮に原爆の威力を正確に理解していたとしても、それが対日戦争終結の決め手になる、とは誰も考えていなかった、という考え方もある。

 ここでは6月18日ホワイトハウス会議では、少なくとも議事録の上では、「原爆」の話が一切でなかったこと、少なくともこの時点では、トルーマン政権軍事最高指導グループは、原爆が対日戦争終結の決め手になるとは考えていなかったようだ、ということだけを確認して先に進もう。


(以下次回)