(2010.7.18)
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ
トルーマン政権、日本への原爆使用に関する一考察

6.原爆は戦争を終わらせた−公式見解の形成 その1

原爆に対する知的・良心的階層の反応

 1945年、トルーマン政権の日本に対する「原爆使用」の政策意図は、対日戦争終結のためではなかった、と考えることは恐らくもう仮説ですらないだろう。この問題が現在まで尾を引いている理由はいろいろ考えられる。

 一つは、45年9月以降のトルーマン政権を始めとする歴代政権の強力なプロパガンダ・キャンペーンのためだ。これをアメリカの学界やジャーナリズム、研究者がバックアップし、「アメリカでの常識」となってしまった。さらに戦後アメリカの文化やイデオロギーの強い影響にあった日本や韓国などアジアの文化圏でも、「常識化」していく。

 これに対して、根強く「原爆投下不必要論」が一つの反論として用意されてきた。これを言い出したのは一部のアメリカの歴史学者だと思われているが、決してそうではない。カール・コンプトンの論文で見たように(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/
hiroshima_nagasaki/why_atomic_bomb_was_used_against_japan/01.htm
>「コンプトンが対置した不必要論」の項参照の事)
、46年と云う早い段階ですでに出ていた。

 原爆の惨劇に衝撃を受けたアメリカの宗教家や良心的科学者など主として知的階層は、これを実行したトルーマン政権を激しく非難する。しかしその非難は決して「対日戦争を終わらせるために原爆投下は必要なかった」というものではなかった。「人道的立場から見てやり過ぎだ、不必要だ」という非難だった。

 当時のアメリカの知的階層の受け止め方は、

この国には相当量の毒ガス兵器の蓄積がある。しかしそれは使用しない。世論調査によればそれがどんなに極東における戦争でわれわれの勝利を早めようとも、この国の世論は毒ガス兵器の使用を容認しないからだ。
確かに大衆心理には非理性的な要素があり、毒ガス戦争が爆弾や銃弾による戦争よりも議論の余地なく非人道的であるにも関わらず、毒ガス爆弾を使用せよという傾きもないではない。
しかしいうまでもなくそれはアメリカの一般世論では全くない。
同様にもしアメリカの国民が核爆発物の影響を正しく知らされていたなら、一般市民の生命を完全に壊滅するような、そういう無差別な方法を講ずる最初の国がアメリカであることを決して支持しないであろう。』
(45年6月11日 「フランク・レポート」の「毒ガス兵器は使用しないのに・・・」の項参照の事。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/flanc_report.htm>)

 またフランク・レポートのメンバーの一人でもあったレオ・シラードは、日本に対する原爆はこれを使用しないようにとした請願書の中で、次のように述べている。

 原爆は、まず何はさておいても、残虐な都市絶滅の手段であります。
いったん原爆が戦争の道具として使用されれば、今後長い目で見ればそれを使用したいとする誘惑に打ち勝つことは難しくなるでありましょう。
 ここ2−3年、残虐性への傾向は強くなっております。現在、われわれの空軍は、日本の各都市を攻撃しており、つい2−3年前ドイツ軍がイギリスの各都市に対して使ったとして、アメリカの世論が非難したのと全く同じ戦争遂行の手段を使っております。この戦争における原爆の使用は、残虐性においてさらにそれを上回る道を世界にもたらすことになります。
 原爆は各国に破壊の全く新しい手段をもたらすものです。われわれの手にある原爆は、この方向性のほんの第一段階に過ぎません。現在の開発が進んでいけばわれわれが使える破壊力はほとんど無制限となっていきます。破壊を目的とする、新たに解放された自然の力の使用を前例とする国は、想像を絶する破壊の時代に扉を開ける事に責任を持つべきであります。』
(「シラードの請願書 第1稿 45年7月3日」
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/seigansho.htm>)

 こうした声が当時アメリカの知的階層、良心的階層の一般的反応ではなかったか?


トルーマン政権の反論

 トルーマン政権は全体としては少数ではあったものの、アメリカの世論形成に影響力をもった知的階層、良心的階層の反発に反論する必要があった。

 例えば、広島への原爆投下の非人道性を激しく非難する全米キリスト教連邦会議・事務総長、サミュエル・カバートに対してトルーマンは次のように反論する。

私ほど原爆の使用に心を悩ませている人間はおりません。しかし私はまた、日本による警告なしのパールハーバー攻撃と戦争捕虜に対する殺人に対しても心を痛めているものであります。彼らの理解する唯一の言語は、彼らを爆撃することのように思われます。
獣と相対したときは、獣として扱う他はありません。大変遺憾には存じますが、しかし云うまでもなく、真実であります。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/RE_sammuel_1945_8_11.htm>)

 しかし、このトルーマンの反論は実は反論になっていない。カバートやフランク・レポートは、決して対日戦争終結にあたって原爆は非人道的だ、とか不正義だと云っているのではない。

 むしろ戦争だからといって、そうした残虐な手段を使うのは非人道的であり、不必要なことだ、といっているのだ。

 トルーマンはこうした非難を、戦争であり、「相手が獣」だから使ったのだ、と反論している。だから反論になっていない。

 カバートやフランク・レポートの非難に対して反論を行うためには、「原爆は非人道的で、残虐だ。」という相手の論点に、「いや原爆は人道的で平和の兵器だ。」と云わなければ、反論にならない。

 トルーマンはこうした知的な議論は苦手だったようで、旧トルーマン政権のスタッフにこの仕事を依頼している。

 この反論の試みの一つが、46年12月号のアトランティック・マンスリー・マガジンに掲載されたカール・コンプトンの論文「もしも原爆が使用されなかったら」であろう。

 コンプトンはこの論文の中で虚実取り混ぜながら、次のように主張している。

・・・それから、ヒロシマの少し前、私はマニラにいたマッカッサー大将のところに駐在した。そして彼のスタッフと2ヶ月間、寝食を共にした。このようにして私は、(九州への)侵攻計画について知り、その前途に損害の大きいまた絶望的な戦いが横たわっていることをこれら将軍の幕僚たちが心から確信していることを知ったのである。最終的に、私は「対日勝利の日」(V-J Day)後の1ヶ月を日本で過ごし、日本の物理的及び心理的状態を肌で感じて確かめたのである。私が面接調査をした日本人の中には、長い間の学者仲間や個人的友人もいたのである。

 こうした背景から、私は完璧な確信をもって、原爆の使用は、数万の、おそらくは数百万の、アメリカ人と日本人の命を救った、と信じている。原爆を使用しなければ、戦争はまだ数ヶ月は続いたろう。

−中略−

 私はマッカーサー将軍が、占領の1ヶ月に、もし日本政府が国民への統制力を失ったら何百万人もの旧日本軍兵士が山岳地帯に立てこもって戦いを続け、事態を収めるのに100万人の兵力と10年の時間が必要だろう、と語ったのを聞いた。

 これは全く可能性がないことではないことは次の、私がその報告に接していなかった事実が示している。私たちは、日本が降伏を申し出てから実際に日本が降伏した9月2日までのほとんど3週間にも及ぶ長い時間のことを思い出す。これは詳細をきめるために必要な時間だった。降伏と占領のこと、日本政府に、国民に占領を受け入れる準備をなさしめることなどである。また一般には知られていないが、貧農の支持を受けた日本軍のグループが政治をコントロールし戦争を継続するため革命を起こす恐れもあった。日本の国民が降伏を表明している日本の政府に従うかどうかに関して言うと、それ(革命のこと)が、すぐ実現しそうな(touch and go)数日もあった。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/kono/Karl_T_Compton
_If_the_Atomic_Bomb_Had_Not_Been_Used_Japanese.htm
>)


 ここでは原爆が、「数万の、恐らくは数百万の、アメリカ人と日本人の命を救った兵器」、「共産革命を防止した兵器」として描かれている。 

 カバートやフランク・レポートへの反論としては、こうでなくてはならなかった。トルーマンの粗雑な反論よりはるかに洗練された反論である。こうして「原爆は「多くの人命を救った兵器」として宣伝されていった。

 ここで興味深いことは、同じ論文の中でコンプトンは、「戦争を終結させるのに原爆は必要なかった、なぜなら日本はすでに戦争に負けていたのだから、という議論があるが、これは“後の祭り戦略家”の屁理屈だ。」として「原爆投下不必要論」をバッサリ切り捨てている。

 しかし、カバートやフランク・レポートの批判の論点は、「対日戦争に関わりなく、原爆は残虐で非人道的だ。不必要だ。」という点にある。この論点をコンプトンは、この論文では「戦争を終結させるためには不必要だ。」という論点にすり替えている。

 この論点すり替えの上に成立した「原爆投下不必要論」がいつの時点で出てきたのか私は確認できていない。しかし46年12月の時点では早くも登場していることを確認できれば取りあえずの目的は達する。


トルーマンの不満

 なお、コンプトンはこのアトランテッィク・マンスリー・マガジンの自分の論文掲載誌をトルーマンに送って、その意見を求めている。
 トルーマンは若干不満だった。次はトルーマンがコンプトンに出した返事。
 
アトランティック・マンスリーの記事「もし原爆が使用されなかったら?」を送っていただき、誠にありがとうございました。
 私は、また元陸軍長官、ヘンリー・L・スティムソンに事実関係を整理し直し、何らかの記録の形にするように頼んでいるところです。彼はそれをしてくれていると思います。
 あなたのアトランティック・マンスリーでの記述は、あの時の状況を見事に分析しています。ただ一点、最後の決断を下したのは大統領でありました。そしてその決断は、すべての状況に関する完全なる調査の後に、下されたのであります。到達した結論は、基本的にあなたが記事で述べている通りであります。
 日本人は、原爆投下に十分前もって、公平な警告を与えられ、条項(*ポツダム宣言のこと)を提示されていました。最終的には、かれらはその条項を受け入れました。私は、原爆が、彼らをして条項をうけいれさせたのだと想像しています。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Truman_to_Karl_compton
_19461216.htm
>)

 この手紙の日付は、46年12月16日である。原爆投下から約半年、ポツダム宣言からも7ヶ月足らずである。トルーマンはもちろんまだ現職の大統領である。

 早くもトルーマンは白々しいウソをついている。

 ポツダム宣言に「原爆の警告」はあったか?

 それはなかった。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/03.htm
>の「原爆投下指示と公式見解の矛盾」、「原爆使用対日警告問題は決着済みではなかったか?」の項参照)

 トルーマンは惚けたのか?いやそうではない。これは、「ポツダム宣言で原爆投下の警告をしたのにもかかわらず、日本は拒否した。だから原爆を投下した。」というストーリーがすでに形成されようとしていたからである。

 またこの手紙で、「決断を下したのは大統領である。」とトルーマンは文句を言っている。確かに、コンプトンの論文は、「原爆投下の決断を下したのは誰か?」という問題にまったく触れていない。

 後世、この論文を読むものは、「原爆投下の決断を下したのは大統領トルーマン」という刷り込みがあるため、コンプトンがこの問題に触れないことについては何の違和感も覚えない。余りにも自明の理だからだ。

 しかし45年12月の時点では、トルーマンは、コンプトンが「原爆投下の決断者」に全く触れないことに不満を覚えた。それは事実上「原爆の対日使用の決定者」がトルーマンではなく、コンプトン自身もメンバーだった「暫定委員会」だったことを、トルーマンもコンプトンも知っていたからだ。「原爆問題」に関しては、トルーマンは「イエスマン」だった。そのことをトルーマンは気にしているのである。


アメリカ公式見解の決定版

 またこの手紙のもっとも重要な部分、「元陸軍長官、ヘンリー・L・スティムソンに事実関係を整理し直し、何らかの記録の形にするように頼んでいるところです。」というトルーマンの依頼は、翌年47年2月号の「原子爆弾使用の決断」(“The Decision to use the Atomic Bomb”< http://harpers.org/archive/1947/02/0032863>)となって世に登場する。

 そしてこの論文が、「対日戦争終結のために原爆は投下された。その決定は正しかった。」とする「アメリカの公式見解」の決定版になる。

 この論文はスティムソンの名前で発表されたものの、実際はジェームズ・コナント(ハーバード大学学長)、ハーベイ・バンディとその息子のマクジョージ・バンディ、レズリー・グローブズ、ゴードン・アーネッソン、ジョージ・ハリソンなどのグループで執筆されたものだった。

 ジェームズ・コナントはハーバード大学学長だったが、また暫定委員会のメンバーの一人であった。ハーベイ・バンディは、J.J.マクロイと共に、ヘンリー・スティムソンの側近中の側近。息子のマクジョージ・バンディは有名なバンディ三兄弟の末弟で、後にケネディ政権の時の国際安全保障担当顧問をつとめ、ベトナム戦争に深く関わった人物。後に世界銀行総裁にもなっている。レズリー・グローブズはマンハッタン計画の軍部側責任者でこの時はすでにコンピュータメーカーのスペリーランドの副社長になっていた。ゴードン・アーネッソンは、階級は陸軍中尉だったが、一貫して暫定委員会の書記役をつとめた。8月6日広島に原爆を投下した後、大統領トルーマン名で「原爆投下後の大統領声明」を発表するのだが、この声明はスティムソンが準備した。大統領の署名がなかったため、まだポツダムにいたトルーマンの署名を取りにクーリエがスティムソンから送られる。その時のクーリエ役を勤めたのは、このアーネッソンである。またジョージ・ハリソンは、暫定委員会の委員長代行だった。またハリソンは暫定委員会当時は陸軍長官補佐官の肩書きだったが、その実ニューヨーク生命保険会社の社長だった。この論文執筆時は、連邦準備制度ニューヨーク連銀の総裁かあるいは総裁を辞めていた頃である。

 だからスティムソン名のこの論文は、その実「暫定委員会」執筆グループによる論文だった、という事が出来る。

 スティムソンは45年9月に78歳になっていたから、この論文が出た年には80歳になる。執筆は30前の若き才子、マクジョージ・バンディが主に担当したとされる。あるサイトによるとジェームズ・コナントが編集で相当手を入れたという。
(<http://alsos.wlu.edu/information.aspx?id=795>)


ウソで固めた肝心要の部分

 この論文は、大統領ルーズベルト時代に「マンハッタン計画」がスタートした経緯を述べ、トルーマンが大統領に昇格すると、トルーマンを補佐するために「暫定委員会」が作られた経緯を述べる。

 そして「暫定委員会の最初の、そして最大の問題は、原爆を日本に対して使用すべきかどうか、また使用するとすれば、どのような形で使用するのか、だった。」と述べる。

 今は暫定委員会の議事録が機密解除になって誰でも読める形になっているから、議事録と参照すればわかるが、結論からいって、暫定委員会の最大の問題が「原爆の対日使用問題だった」、というのは大うそである。(この問題は後ほど詳しく検討する)

 そして45年6月1日の暫定委員会で、「特別な警告なしに、原爆を使用することを大統領に勧告した。」と述べ、「それは原爆の破壊力を明確にするためでもあった。」とする。

 「日本の速やかな降伏を勝ち取るには、他の方法もあった。例えば原爆のデモンストレーションなどがそうであったが、これでは日本に対するインパクトが弱いため、日本が降伏しない危険性があった。だから警告なしの使用という形をとる、というのが委員会の一致した見解だった。」

 そして、

 「確かに当時、日本の天皇とその側近は降伏したいとする、徴候はあった。しかし、その動きは確実なものではなかった。この動きを確実なものとするためにショックをあてる必要があった。そのショックは日本の天皇をして、我々の凄まじい破壊力を悟らせることが必要だった。そのショックが、警告なしの原爆使用だったのである。」とし、

 「原爆のため、日本は降伏をし、アメリカは本土侵攻作戦を採らなくても良くなったのである。ために夥しい数のアメリカ人と日本人の命を救うことになったのである。」

 「1945年の夏、アメリカの主要な社会的・軍事的目的は、日本を速やかにかつ完全に降伏させることにあった。原爆の投下によって、日本の軍事力は破壊され、永久平和の道を開き得たのである。」

 と結論する。

 現在は暫定委員会の議事録や、トルーマン政権内部の記録を閲覧できる。またこの一文でもトルーマン政権が、「日本降伏の条件」は、「ソ連の参戦」と「日本の天皇制存続の保証」にあったことを比較的詳しく見た。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/03.htm
>及び
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/04.htm
>参照の事)

 だからこのスティムソン名の論文のもっとも肝心な部分がウソであることを知っている。

 また暫定委員会については、スティムソン自身が、暫定委員会第1回会合の45年5月9日の冒頭のあいさつで、

スティムソン長官は、計画(*マンハッタン計画)の概要を説明し、この委員会の目的と機能について、長官の見解を表明した。大統領(*トルーマン)の承認のもとに、長官が指名することによって、委員会が設立された。それはこの問題全体(*原子力エネルギー)に関する、戦時の一時的な統御、後の正式な発展について研究・報告し、また戦後における研究・開発、統御問題に関する(*大統領への)勧奨及び調査、またこれら目的に沿った法制化について調査・勧奨することである。
 この委員会は、現在時点の事実に鑑み、暫定委員会(*Interim Committee)と命名されるが、それは、適切な時期に、議会が(*原子力エネルギーの)全体分野に関する、その統御、規制、管理監督をなす恒久組織を設立するだろうからである。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee
1945_5_9.htm
>)

 と述べ、この「スティムソン名論文」の云うように、決して「暫定委員会の最初の、そして最大の問題は、原爆を日本に対して使用すべきかどうか、また使用するとすれば、どのような形で使用するのか、だった。」などと云うものではないことを、スティムソン自身が暫定委員会で明言している。

 つまり暫定委員会は、当時最高機密だった「マンハッタン計画」を扱うため、委員会の存在自体が最高機密だったが、決して「対日戦争やそのための原爆使用」を議論する場ではなく、長期的なアメリカの「原子力エネルギー政策」に関する基本設計図を議論する場だったのである。

 それはアメリカの原子力エネルギー政策が軍事利用からスタートしたため、この時期「マンハッタン計画」が主として論じられることになった、というに過ぎない。

 やがて戦争の終了と共に、「アメリカ原子力委員会」設立という形で結実するのだが、その正式な機関が出来るまでの、また戦時中という特殊状況の、過渡期的な「暫定」委員会だったのである。その性格は「暫定」(Interim)という名称が端的に表現している。

 だから1947年2月号のハーパーズ・マガジンに、スティムソンの名前で発表された「原子爆弾使用の決断」という論文は、「暫定委員会の目的と機能」という肝心要の部分がウソで固められていた、ということができる。


歴史学者ケイトの質問

 しかし、この論文発表時、一般のアメリカ人はスティムソンの名前でこう云われれば、信ずる他はなかった。すべての情報が機密解除前で、一般アメリカ人がこの内容を批判する材料をもっていなかった、という事情の上に、「スティムソンの名前」に対する絶大な信頼感の力も大きかったに違いない。

 こうして「原爆正当論」は、アメリカ社会の中に定着していった。

 1952年12月6日は民主党の大統領候補アドレイ・スティーブンソンを共和党の大統領候補ドワイト・アイゼンハワーが破った日だった。トルーマンは民主党大統領候補になることをあきらめていた。トルーマンは疲れていたが、アメリカもトルーマンに疲れていた。朝鮮戦争も手詰まり状態だった。

 この日、シカゴ大学の歴史学教授、ジェームス・ケイトは一通の手紙をトルーマンに送った。ケイトはアメリカ空軍の歴史を調べている時に一つの疑問につきあたった。その質問に答える相手は、現職大統領トルーマンこそふさわしい、とケイトは考えたのである。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Robert-18.htm>を参照のこと。)


 以下はそのケイトの手紙。

・・・私の仕事の一つが、広島及び長崎に対する原爆攻撃に関して執筆することでした。「原爆の使用」の決断に関して、私がどうしても解決できなかった、事実関係での明らかな跛行的問題に直面しております。大統領のお時間を取ることについて恐縮に存じておりますが、あなたがベストのそして恐らくは単一の権威であると存じ、ご教示いただきたいと存じます。

 私は、多大な興味を持って、1945年8月6日に発表されたあなた自身の声明を読みました。
ケイトは「原爆投下直後の大統領声明」のことを言っている。この大統領声明には後でも触れる。これは実はスティムソンが準備したものだった。)

 また私は1947年2月号のアトランティック・マンスリー誌に掲載されたカール・T・コンプトン博士の論文、また1946年12月16日付のあなたのコンプトン博士に宛てたお手紙も読みました。
アトランティック・マンスリーの47年2月号といっているが、これは46年12月号の間違い。)

 また私は1947年2月号のハーパーズ・マガジンに発表された故スティムソン氏のさらに詳細にわたる記事も読みました。7月26日の「ポツダム宣言」に含まれている警告に対しての鈴木(貫太郎)首相の拒否に「直面し」、それが主たる要因となって、あなたがポツダムで勇気をもって、恐ろしい決断をなされた一連の完全な証言、それから11月に予定されていた九州侵攻に伴う大きな損害を避けるためが、(原爆使用の)動機であることなどを、スティムソン氏の記事に読み取ることができます。

 つい最近、私はカール・スパーツ将軍へあてた命令で、予定されていた4つの爆撃投下目標地のうちの一つに爆撃するようにとした内容の指示書を、写真複写で見ました。秘密解除文書で複製を同封しておきます。この手紙(原爆投下指示書のこと)は1945年7月25日の日付で発信地はワシントンとなっており、マーシャル将軍がポツダムに出向いて留守のため、トーマス・ハンディ陸軍参謀総長代行の署名が添えられています。アーノルド将軍の発言によれば(H・H・アーノルド、“グローバル・ミッション”、ニューヨーク:ハーパーズ社 1949年 589P)、この指示書は、7月22日アーノルド自身、マーシャル将軍、スティムソン長官、三者間の会議の後、クーリエでワシントンにもたらされたメモランダムが元になっている、との事です。

 この指示書は、「1945年8月3日の後、有視界爆撃を許す天候の下、できる限り早く」爆撃を行うようにという不確定命令が含まれております。翌日(この指示書の翌日、7月26日)に発せられるポツダム宣言のことには全く触れられておりません。また8月3日以前に日本が降伏した場合にはどうするかについても全く触れられていません。書面での命令が口頭での指示に基づく可能性もあります。あるいは日本がポツダム条項を受け入れた場合、無線電信で(原爆投下の)命令を取り消す場合もあり得ます。またこの指示書が、スティムソン陸軍長官の真の意図を誤って表現したのかもしれません。

 いずれの場合にしろ、この指示書の意味するところは、ポツダム宣言発布の最低限1日前、また東京時間7月28日、鈴木首相の拒否の2日前に、原爆投下の命令がなされているという事であります。このような理解は、すでに発表された発言(この場合は、スティムソン署名論文のことをさしていると思われる)に含意される説明と明白な矛盾を起こしております。』

 ケイトの手紙を長々引用して申し訳なかったが、1952年の時点では、すでにトルーマンの発言や、スティムソンの論文などで、「ポツダム宣言で原爆のことを警告していたのに、日本は拒否した。だから原爆を投下した。」というプロパガンダ・ストーリーが、アメリカの社会や歴史学界に定着していたのである。だから、ケイトの疑問は当然の疑問だった。


原爆投下指示と公式見解の矛盾

 ケイトの質問の要点は、要するに、ポツダム宣言が発せられるのは7月26日、鈴木首相の「ポツダム宣言拒否」は7月28日(東京時間)だ、しかるに最近機密指定解除になったカール・スパーツの原爆投下指示書(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/
1945_7_25_Carl_Spaatz_thos_t_handy.htm
>を参照の事。)
を見ると、日付が7月25日になっている、つまり日本の首相鈴木がポツダム宣言を拒否する前に、すでに原爆投下が指示されている、これは矛盾ではないか、というところにある。確かにケイトの指摘通りである。

 実際には、「日本に対する原爆の使用」と「対日戦争終結」とは直接の因果関係はなかった。ソ連が参戦する前にトルーマン政権は日本に対して「原爆の使用」を行う必要があった。原爆の使用を急ぎに急いだのである。だからこうした「公式見解」との矛盾が発生したのである。
 ところがまた、スティムソンはこうした矛盾を解消しておこうと手を打っていた。

 「日本に対する原爆使用の大統領決断」は、「スパーツの指示書」の7月25日の時点でも、ポツダム宣言発表の7月26日の時点でも、「日本のポツダム宣言拒否」の時点でも、政治文書化していない。

 だから、「原爆投下直後の大統領声明」にトルーマンが署名することによって、「日本に対する原爆使用の大統領決断」を政治文書化しておこうと考えた。

 またまたところが、信じがたいことだが、スティムソンは7月25日にすでに原爆投下の指示が出ていたことを、7月30日になるまで知らなかった。これは、「大統領声明」の草稿を、7月31日に、クーリエでポツダムにいるトルーマンの手元に届けた際のスティムソンの手紙ではっきり確認できる。
この手紙の原文は:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/
study_collections/bomb/large/documents/pdfs/55.pdf#zoom=100
 で確認できるし、訳文及び註は<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-letter/stimletter19450731.htm>で読める。)

 余計なことだが、ケイトの手紙で、「アーノルド将軍の発言によれば、この指示書は、7月22日アーノルド自身、マーシャル将軍、スティムソン長官、三者間の会議の後、クーリエでワシントンにもたらされたメモランダムが元になっている」とあるのにお気づきだろう。

 アーノルドは当時陸軍航空隊(事実上の空軍)の最高司令官である。そのアーノルドは、1949年に出版した自分の回想録で、「7月22日、アーノルド、マーシャル、スティムソンが会談して原爆投下の日付を決定し、その時の会議メモに基づいて、7月25日の原爆投下指示になった。」と書いている。

 7月22日と云えば、アーノルドもスティムソンもマーシャルもまだポツダムにいた頃だ。このポツダムでの三者会談で、原爆投下の日付を決めた、というのだ。大ウソである。スティムソンは前述の如く、7月30日(すでにポツダムからワシントンに戻っていた。)になるまで、原爆投下の指示書が7月25日にすでに出ていたことを知らなかったし、それはそれで筋の通ったことだった。というのは「日本に対する原爆の使用」はあくまで政治問題としてスティムソンら文官が決定するが、「いつどこに投下するか」は軍事問題として軍部専管事項だったからだ。しかしそれにしてもこの切迫した時点でスティムソンが、原爆投下指示のことを全く知らなかった、というのはやはり異常な事態ではある。

 アーノルドもやはり「原爆の公式見解」作りに協力していた、というべきだろう。だから、こと「原爆問題」に関する限り、戦後発表された資料はあてにならない。


周到なスティムソン

 話があちこちに飛ぶ形になって申し訳ないが、この問題を理解するにあたって極めて重要な話題なので、もう少し辛抱しておつきあい願いたい。

 7月25日にすでに「原爆投下の指示書」が出ていたことを7月30日になって知ったスティムソンはいささか慌てた。最悪の場合は「大統領の正式な政治決断」を欠いたまま、日本に対する「原爆の使用」が実行されるかもしれないからだ。

 一方トルーマンはこの問題について全く意に介した形跡がない。政治家として鈍感というべきだろう。センスがないといってもいいかもしれない。

 スティムソンは直ちに関係者を集め、この大統領声明の完成に取りかかった。そして30日に電信で、まずこの「大統領声明」をポツダムにいるトルーマンの手元に送って了解を求めた。この時の電信文がトルーマンの手元に残っている。
(URLは次。<http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/
study_collections/bomb/large/documents/pdfs/5.pdf#zoom=100
 >)


 電信でトルーマンの了解を取った後、翌日31日、クーリエに託して「大統領声明現物」をポツダムにいるトルーマンの手元に送った。その時のクーリエがゴードン・アーネッソンである。

 その時添付したスティムソンの手紙が先ほどのサイトで参照できる手紙だ。“revised”(見直し訂正)と手書きではいっているのは、この手紙を受け取ったトルーマンの自筆だろう。

 この手紙で、スティムソンは、「太平洋標準時間で早ければ8月1日までに原爆が投下される可能性がある。」と言っているが、これは何のことを言っているのか分からない。7月25日の「原爆投下指示書」では明確に、「8月3日以降、天候の許す限りできるだけ早く」と言っている。また、30日に電信でスティムソンの手紙を受け取った用紙の空きスペースに、トルーマンは手書きで記入をしている。これは、“ Sec. War Reply to your Suggestions approved Release when ready But not sooner than August 2 HST " と読める。

 「陸軍長官へ回答 貴殿の提案は承認 準備でき次第発射 しかし8月2日以前は不可 HST(ハリー・S・トルーマン)

 すなわちトルーマンは原爆の使用は、8月3日以降であることを了解していた。

 この返事を受け取ったスティムソンは恐らく自分の勘違いに気がついて、まだ時間の余裕のあることにホッと胸を撫でおろしたことだろう。

 スティムソンはこうして「原爆直後になされる大統領声明」に対してトルーマンが自筆署名をすることで、「日本に対する原爆使用」の政治的決断を政治文書化しておこうとし、そして間に合った。

 ところが、トルーマン自身は「大統領声明」に対する自分の自筆署名の政治的意味を、全く信じがたいことに、理解していなかった。


回答可能なケイトの疑問

もしトルーマンがこの署名の政治的意味を理解していたら、歴史学者ジェームス・ケイトの質問になんなく答えることが出来たからだ。
たとえば、次のように答えることが可能だったろう。

 ポツダム宣言が発布されたのが1945年7月26日、米国陸軍参謀総長代理、トーマス・ハンディ将軍から、米国陸軍戦略爆撃隊総司令官・カール・スパーツ将軍に対して、日本への原爆投下の指示が出されたのは、1945年7月25日、鈴木貫太郎首相がポツダム宣言拒否の声明を行ったのが、7月28日、つまり日本への原爆投下の指示は、ポツダム宣言が出される1日前、鈴木貫太郎首相拒否の3日前でした。

 これは私の主張、「ポツダム宣言の拒否にあったので、日本に原爆を投下した。」という私の政治的決断と矛盾するではないか、というあなたの指摘は誠にその通りであります。

 ところが、7月25日付けスパーツ将軍への「日本への原爆投下」の指示書は「軍事的決断」を示すものでした。もちろん私は三軍の長でもありますから、いつでもこの命令を取り消すことができました。

 しかもこの命令では、実施日を「45年8月3日」以降、としております。軍事的にも8月2日以前に「日本への原爆投下」が行われることはなかったのであります。

 しかしながら、私は、この時点では「日本に対する原爆の使用」という政治的決断はしておりませんでした。

 当然、ポツダム宣言に対する日本側の反応を見守っていたのであります。

 果たして、7月28日、鈴木首相は、ポツダム宣言拒否の声明をだしました。こうして私は最終的に政治的決断を迫られることになりました。すなわち、11月に予定されていた日本侵攻作戦を実施するか、あるいは日本に対して原爆を使用して、この悲惨な戦争を終わらせるかの決断であります。

 当時、日本侵攻に伴う人命の損失については、様々な予測がありました。そうした予測の中から、私は、アメリカ軍だけで、最低でも25万人、もしかすると100万人の損失が発生する、と判断するに至りました。これまでの例で言えば、日本軍の損失は、必ず米軍の損失以上でしたから、同等以上の損失が日本軍にも発生すると見なければなりません。また戦いは日本の本土で行われるわけですから、子供、女性を含む多くの日本人にも被害が発生すると見なければなりません。

 こうしたことを勘案し、私は最終的な政治的判断を下し、日本に対して原爆を使用することに致しました。

 当時、スティムソン陸軍長官は、もし日本へ原爆を使用した場合の大統領声明を用意していました。その声明原稿が、7月31日に、ポツダムにいた私の手元に届けられていました。それは鈴木首相の声明を知った後でもありました。

 私は、1945年○月○日、その声明原稿に署名いたしました。

 これが私の「日本への原爆使用」の政治的決断の証拠です。ご参考までに、この署名入り原稿の写真複写を添付します。


 以上ご説明したとおり、日本への「原爆の投下」に関する軍事的指示は、ポツダム宣言・鈴木首相の拒否前に出ておりましが、私はいつでもこの指示を取り消すことができましたし、実際には私は1945年○月○日、すなわち、ポツダム宣言・鈴木首相の拒否後に政治的決断を下したのであります。』

 もちろんこの回答は私の創作である。文中、トルーマンが署名した日付を○月○日としたのは、私がその日を調べていないからである。しかしそれは、この「声明原稿」がポツダムに到着した7月31日以降、8月3日以前のことだろう。

 スティムソンは以上のような回答が可能なように、トルーマンの政治的決断を歴史の中に残したのだった。


回答できなかったトルーマン

 ところが、トルーマンは1952年12月時点になっても、「原爆の使用」の政治的決断の意味を理解できず、ケイトの質問に答えることが出来なかった。信じ難いことだが事実である。

 実際にトルーマンが書いた回答文書が残っている。以下がそれである。

ホワイトハウス ワシントン 1952年12月31日
 親愛なるケイト教授

 1952年12月6日付けの貴殿の手紙はちょうど今私の手元に届いたところです。

 ニューメキシコ州で起こった原子爆弾爆発成功の知らせがポツダムに届いた時、ものすごく大きな興奮が起こり、さらにその時日本との間に進行していた戦争に対する効果についていろいろな話がでました。

(* 大きな興奮が起こったのは事実だが、原爆実験成功の知らせで、対日戦争に関する話がいろいろ出たというのはウソである。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/03.htm
>の「原爆実験成功の詳報がポツダムの到着」の項参照のこと。)

 翌日、私は英国の首相とスターリン書記長に爆発が成功したと告げました。英国の首相は理解しわれわれの成し遂げたことを評価してくれました。スターリン首相は微笑みをうかべ爆発の報告をしてくれたことに謝辞を述べましたが、私はスターリンが(原爆の)意味するところを理解しているかどうかについては確信が持てませんでした。

 チャーチルに原爆実験の報告をしたのはスティムソンである。トルーマンはスターリンに単に「新型爆弾の開発に成功した」と告げただけで、「原爆」とは云っていない。しかしそれだけでスターリンは、直ちにその意味を理解し、ソ連の核開発担当責任者イゴール・クルチャトフ教授を怒鳴りつけ、その翌日から狂ったように原爆開発に突進していく。「トルーマンと原爆、文書から見た歴史」 編集者 Robert H.Ferrell 「第5章 7月17日、18日そして25日の日記より」を参照のこと。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Robert-5.htm >)

 私は、バーンズ国務長官、スティムソン陸軍長官、レーヒー大将(トルーマンの大統領軍事顧問)、マーシャル将軍、海軍長官(フォレスタレルが当時長官。どうしたことか名前を記載していない)、キング大将(海軍参謀総長)をはじめ他のスタッフを招集し、この恐るべき兵器をどう扱うかについて討議しました。

断言してもいいがポツダムでこんな会議は存在していない。)

 私は、マーシャル将軍に東京平野やその他の日本の場所に侵攻するのにどのくらいの人命が犠牲になるかを尋ねました。彼の意見では、25万人が最低限の損害(*casualty)だろう。ほぼ同数の損害が日本側にも発生するだろう、というものでした。他の陸軍関係者、海軍関係者もみな同意しました。

マーシャルの見解は「ホワイトハウス対日戦争会議」の「九州上陸作戦損害、マーシャルの推定」の項参照のこと。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/02.htm
>。
ところが「スティムソンの回想録」、実際にはマクジョージ・バンディが執筆したものだが、には「マーシャルは日本での損害は100万人以上、と推定した。」と書いている。これも大ウソである。)

 私は、どの場所が、戦争に関する生産にもっとも貢献しているかとスティムソン陸軍長官に尋ねました。すると彼は直ちに、広島と長崎だ、と答えました。

これは破廉恥な大ウソである。原爆投下目標決定は軍部の専管事項で、すでに原爆投下目標委員会で候補地を選定していた。)

 われわれは日本に最後通牒を送りました。それは無視されました。

 私はポツダムからの帰りに名指された広島と長崎に原爆を投下するように命令しました。その時私は大西洋のまっただ中にいました。 

トルーマンがポツダムを出発するのは8月2日の午後8時である。8月6日、広島への原爆投下時には船の中で大西洋のド真ん中にいた。)

 原爆の投下は戦争の終結をもたらしました。多くの命を救い、自由諸国家群に事実に直面するチャンスを与えたのです。

 今振り返れば、ソ連が殺到し、降伏までの9日間戦ったことが、日本降伏の要因となった、と見えるかもしれません。日本の降伏に関して、ソ連の軍事的貢献は全くありませんでした。囚人は降伏し、ソ連は38度線以北の朝鮮同様、満州を占領したのです。

 以来、ソ連はアジアにおける病根となり続けているのです。』

 これが、ケイトに対するトルーマンの回答である。ケイトの肝心な質問に全く答えておらず、ウソと間違いだらけのこの回答は、専門家の手で若干訂正されて、ケイトに送られた。

 トルーマンが「原爆投下に関する政治的決断」の意味を全く理解していなかったことはもちろんだが、このしどろもどろのトルーマン回答文書は同時に、「日本への原爆の使用」の政治的意図が対日戦争終結のためではなかったこと、他に政治的意図があったことを示している。

 「対日戦争終結のために原爆は使用された」というのは、1945年8月の原爆投下直後から始まった「トルーマン政権」の創作シナリオである。トルーマンはその創作シナリオをほとんど理解していなかった。

 もちろんトルーマンは「日本に対する原爆使用」の真の政策意図は理解していた。しかし、それは公にはできなかったのである。


(以下次回)