(2015.3.19)
No.060

放射線被曝に安全量はない
-There is no safe dose of radiation

その① 放射能安全神話と原発・核施設の正当化


(この記事は、第124回広島2人デモチラシ<2015年3月6日>を下敷きにしている。チラシに引きずられて、口調も「だ、である調」から「です、ます調」に改める。また通常記事では、敬称は一切省いているが、この記事では敬称をつけることにした)

 “ There is no safe dose of radiation”―この言葉を最初に知ったのは、欧州放射線防護委員会(ECRR)2010年勧告を読んだときでした。(といって読んだといえるほど読み込んではいません。まだまだ理解できないところがたくさんあるのです)
 
<ECRR2010年勧告表紙>

<小出裕章さん>
   福島原発事故が起こって、何がなんらやさっぱりわからぬまま、日を過ごし、紹介する人がいて、その人と京都大学原子炉実験所の小出裕章さんに会いに行ったのが、2011年3月も下旬近く。とにかく話を聞いてまとめたのが、以下の記事でした。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/fukushima/20110327.html>)しかし、これでも物足りず、もう一度話を聞こうと今度は同僚の網野沙羅と一緒に話を聞きに行って、まとめたのが、次の記事です。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/fukushima/20110413.html>)
 2回目のインタビューも、あっという間に約束の時間が過ぎ、超多忙の小出さんの邪魔をしてはいけないと思いつつ、立ち上がって研究室を出ながらもいろいろ質問を繰り出しました。中の質問の一つが、「放射線被曝の安全量はどの程度なんでしょうか?」というものでした。小出さんは「安全な被曝線量なんてありませんよ。ICRP(国際放射線防護委員会)だってそのことは認めています」とこともなげに答えました。
 広島に帰って、小出さんの「安全な被曝線量なんてありませんよ」という言葉がどうしても頭を離れませんでした。なんとか放射線被曝について勉強したいと思って、小出さんにメールを出しました。「被曝についてしっかりした勉強をしたいのだが、良い先生を紹介していただけないか?」すると小出さんから、神戸大学の山内知也教授(神戸大学大学院 海事科学研究科)のところにいってみなさい、という返事がありました。

 今回も網野と2人で、神戸市内にある神戸大学深江キャンパスを訪ね、山内さんから話を聞いて、資料も沢山もらって帰ってきました。今考えてみると、そのときの山内さんの話の一割も理解できていなかったのだな、ということがよくわかります。そのときもらった資料の一つが、「ECRR2003年勧告」でした。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/fukushima/yamauchi_ECRR2003.html

 
広島に戻って、ECRR2003年勧告を読みました。この時から、私の「低線量内部被曝」の勉強が本格的にはじまったように思います。ECRR2010年勧告は、すでにその前年に出されていましたが、日本語版はまだ出ておらず、山内さんは、その日本語版製作・翻訳に全力を挙げていました。福島原発事故による全般的な「放射線被曝の危険」が、山内さんにこの翻訳作業の加速を促していたのでした。翻訳作業が一応完成を見たのが、5月の半ば。山内さんからすぐPDF版で送ってもらい、サイトにアップロードしたのが、次の記事です。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/fukushima/ECRR2010.html>(現在は改訂した内容で、「欧州放射線リスク委員会ECRR2010年勧告=山内知也監訳」、として、明石書店から出版されています)
 
<山内知也さん>

<ECRR2003年勧告表紙>

 ECRR2010年勧告は、その日本語版を最初から英語原文テキストと並行して読むことにしました。(英語原文テキスト<http://www.inaco.co.jp/isaac/kanren/11_ECRR_yamauchi.html>)
なにしろ日本語版の助けがなければ、英語版を読むことができませんでした。私はそれほど放射線被曝の素養がなかったのです。

 その英文テキストは、冒頭献辞の部分で、ECRR2003年勧告は、人の器官が電離放射線に対してきわめて繊細(exquisite)な感受性を持つことを初めて示したアリス・M・スチュワート教授に捧げられました、とした後で、次のように続きます。
 
<アリス・M・スチュワート博士>
(http://www.rightlivelihood.org/stewart.html)

The Committee dedicates this present volume to the memory of :

Prof. Edward P Radford,
Physician and Epidemiologist
“There is no safe dose of radiation”

Radford was appointed Chair of the BEIR III committee of the US National Academy of Sciences. His BEIR report in 1979 drew attention to the inadequacies of the then-current radiation risk model. It was withdrawn and suppressed but he resigned and published a dissenting report. His career was destroyed.
当委員会は、この巻をこの人物の思い出に捧ぐ。

エドワード・P・ラドフォード教授
-外科医にして疫学者
“There is no safe dose of radiation”

 ラドフォードは、全米科学アカデミーのBEIR III(ベアスリー。Committee on the Biological Effects of Ionizing Radiation III= 電離放射線の生物学的影響に関する委員会III)の委員長に指名された。1979年のラドフォードのBEIR III報告は、当時から現在までに至る電離放射線のリスクモデルの不適切さに耳目を集めた。その報告は取り下げさせられ、圧力がかかった。しかしラドフォードは辞任し、伝統教義に反する報告を公表した。ラドフォードの、職業人としての生涯は破滅に追いやられた

(ラドフォードのBEIR III報告に関する経緯は、「カール・ジーグラー・モーガン(Karl Ziegler Morgan)について その⑥(最終回)“フクシマ放射能危機”は人災を通り越して、体制利益擁護を動機とした組織犯罪だ」と題する記事に簡単にまとめてあります。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/zatsukan/037/037.html>また、この経緯は中川保雄の名著「放射線被曝の歴史」の中で、ハイライトの一つとして取り扱われております。また2000年代にはいって、BEIRは、“There is no safe dose of radiation”を科学的真理として認めるに至りました。「BEIRⅦ」参照のこと)
 
写真はエドワード・ラドフォード。自分の研究室でのスナップだと思える。ラドフォードが1964年から1967年までディレクターを務めたシンシナチ大学の環境保健学部のサイトよりコピー貼りつけ。(http://eh.uc.edu/about/edward-radford/)

 “There is no safe dose of radiation”という言葉を知った最初でした。小出さんがこともなげに言った言葉、「安全な被曝線量なんてありませんよ」を定式化したのが、この英語の、多分ラドフォードの言葉でした。私は「放射線被曝に安全量はない」と訳すことに決めました。


原発を正当化する『放射能安全神話』

 2014年5月に出た福井地裁判決のことが、このところ頭を離れません。福井地裁判決は、原発過酷事故は広汎な人々の「人格権」を侵害する、人格権は日本の法制下で最高の価値を有するが故にこれを侵害することは憲法違反である、と断じます。そして次のように述べます。

 「かような危険を抽象的にでもはらむ経済活動(すなわち原発事業運営)は、その存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、少なくともかような事態を招く具体的危険性が、万が一にでもあれば、その差し止めが認められるのは当然である」(表1参照のこと)
 ここで私は考え込みます。かような危険とは、放射線被曝による「人格権」の侵害、とも解釈ができます。もし原発が事故を起こさなくても、稼働し電気を生産するだけで環境に放射能をまき散らし、それが人々の健康を害し、時には生命まで脅かす事態となれば、これは明白な人格権の侵害です。「かような危険を抽象的にでもはらむ経済活動」は、実はかような危険を具体的にはらみ、時には現実のものとなっているとすれば、「その存在自体が憲法上容認できない」とするのは極論ではなくなります。
 
(クリックすると大きな画像でご覧いただけます)

 原発は、稼働するだけで大量の様々な核種の放射性物質を環境にばらまいています。現在のところ、通常運転で放出される放射能は、人体に影響はないものとして、法令上容認されており、それら法令の根拠は、国際放射線防護委員会(ICRP)の諸学説です。もしこの学説が、低線量内部被曝に関して誤っているものとすれば、現在原発が通常運転・稼働で放出している放射能レベルは容認できない、ものとなります。

 そして、原発が稼働し、健康や生命に影響のあるレベルの放射能をまき散らしているという見方からすれば、事故を起こさない通常運転の原発は、避難こそ伴わないものの、私たちの人格権を侵害している、ということになります。九州電力川内原発、関西電力高浜原発に原子炉設置変更許可が出された現在、原発による人格権侵害は、私たちにとって差し迫った危機、ということにもなります。ましてや、福島第一原発の原子炉からは、初期大量放出期ほどではないにしろ、まだ各種放射能を出し続けている現状(継続中の福島原発事故)、さらには敷地にほぼ無防備に置かれた各レベルの放射性廃棄物から放出される放射能が敷地外にも流れ出している現状では、ほかの原発の再稼働は、まことにもって切迫した危機に他なりません。

 放射能は、低線量であれば(100mSv程度以下であれば)人間の健康に大きな影響はない、という論説を私は「放射能安全神話」と呼んでいますが、もし私の考えが正しいなら、原発や核燃料再処理工場など核施設が人格権侵害の憲法違反とならずに、合法的に運転できるのも、放射能安全神話のおかげということになります。

 問題は、ICRP学説が主張するように「低線量被曝は健康に影響がない(あるいは影響があるという科学的証拠はない)のか、あるいはそれは無根拠な「神話」であり、低線量、どころか1mSv以下の極低線量被曝でも健康に影響があるのか、という点です。もし、「放射能は、低線量であれば(100mSv程度以下であれば)人間の健康に大きな影響はない」とする学説が、なんら科学的根拠をもたない、一篇の神話、『放射能安全神話』ならば、まことに原発の稼働を正当化・合理化するのは『放射能安全神話』だ、ということになります。

(その②へ)