No.31  (2011.5.15)
福島原発事故:その放射能の影響と欧州放射線リスク委員会勧告

朝日新聞に見る「放射能と健康との関係」 悪質な原発業界・ICRP宣伝記事 第1回

「原発安全神話」と「放射能安全神話」

   朝日新聞の2011年5月11日付け「特集 東日本大震災」の「いちからわかる 放射能と健康との関係」(<https://aspara.asahi.com/column/eqmd/entry/jmQcKjETCJ>)という記事を見て驚いた。原発事故直後ならともかく5月も半ば近くなってこんな原発業界、国際放射線防護委員会(ICRP)べったりの宣伝記事が1ページにわたって組まれるとは。これでは「原発安全神話」ならぬ「放射能安全神話」の垂れ流しではないか。

 福島原発事故が起こって以来、私は毎日朝日新聞を比較的丁寧に読んできた。この新聞から何か有益な情報をとろうという意味ではない。この新聞から、政府(日本の経済界・官界・政界・学界・官界など支配層のための政治権力の凝縮としての政府、今はたまたまそのシャッポにいるのが菅直人というだけの話だが。)が日本の国民をどう誘導していきたいのかを知ることが出来る、と言う点が1点。もう1点はアメリカの支配層が日本国民をどう誘導したいのかを知ることができるということだ。

 (この件については、後で朝日新聞の記事を追跡して検証しようと考えている。)

 放射能汚染に関して言えば、原発を推進するアメリカの支配層の立場から見ると、チェルノブイリ事故の時と同様、「放射能汚染による人体の影響は最小限だった」とするシナリオにしたいのだと思う。チェルノブイリ事故以来、なりを潜めていた世界の「原発推進派」は2000年代に入ると徐々にその動きが表にでてきた。具体的には急速に経済発展する新興国に対する原発提案と売り込みである。「原子力ルネサンス」という言葉も2000年代に入っておおぴらに宣伝されるようになった。

 原発推進派にとって最大の問題は、「放射能汚染」に対する人々のイメージである。これを払拭するには「原子力安全神話」(これは何も日本だけに限ったことではない)、「CO2排出による地球温暖化キャンペーン」(科学者の間で地球温暖化について一致した見解があるわけではない)とともに「放射能安全神話」が作り上げられる必要があった。このためには、当然国際的な権威のある学者グループのお墨付きが必要である。その役割を担っているのが国際放射線防護委員会(ICRP)であろう。そしてICRPは、原子力の平和利用を推進する立場のIAEAや、国連WHO、アメリカの全米科学アカデミー、イギリス政府の中の放射線防護局やフランスをはじめとする西側先進各国の放射線規制当局と相互につながって、「ICRP」のリスクモデルを世界的に唯一絶対正しいものとして受け入れさせている。これが「放射能安全神話」の基盤である。

「健康は原子力に従属する」

  ICRPによる「放射能安全神話」形成の道筋は1950年代にさかのぼる。

  『 ・・ここで重要なポイントは、各国政府が科学的合意の議論について依存している全ての機関が完全に内部でつながっており、ひとつのリスクモデル、すなわちICRP のリスクモデルに頼り切っていることである。ICRPはそこからの証拠に依存しているそれらの機関から独立しておらず、それらの機関はICRPから独立していない。その体系は自家撞着であり、危険な科学の回勅文書に支えられる要塞都市である。

 放射線被ばくと健康について関わると、合理的には期待される他の国連機関、世界保健機関(WHO)はどうか?
 
 WHO は1959 年にIAEA との間で放射線の健康影響に関する研究をIAEA に任せるというIAEA との合意を強要された。この合意は今でも有効であり、WHO だけでなくFAO(国連食糧農業機関)にも及んでいる。2001 年にキエフで開催されたチェルノブイリ事故の健康影響に関する会議で、WHO 議長のエイチ・ナカジマ教授(Prof. H Nakajima)は公のインタビューのなかで次のように述べた。

 「放射線影響の研究ではWHO はIAEA に追随する、健康は原子力に従属する。」』
欧州放射線リスク委員会2010年勧告の「第5章 リスク評価のブラックボックス 国際放射線防護委員会」(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/pdf/ecrr2010_chap1_5.pdf>) 

 欧州放射線リスク委員会は上記にように指摘した。

 こうして、ICRPは放射線防護に関する絶対権威として、世界に君臨することになった。

 ICRPは、1928年に設立された国際X線ラジウム防護委員会にその起源をもつ、とされている。日本語Wikiにもそう書いてるし、英語Wikiにもそう書いてある。ICRP(<http://www.icrp.org/>)自体もそう主張している。(同サイトの「私たちについて」“About us”を参照の事) 

 しかしそう見ていない科学者もいる。例えば欧州放射線リスク委員会に集まる科学者はそう見ていない。

 『  ICRP は、その始まりが1928 年の国際X 線ラジウム防護委員会(International X-Ray and Radium Protection Committee)にあると主張している。本当のところは、合衆国における核爆弾の開発と実験がもたらす新しい放射線被ばくに関心を払い、それらについて勧告し再保証することのできる放射線リスク評価のための主体を設立する必要性によって、その種は1945 年にまかれたと見ることができる。

 すなわち、ICRP に直接先行する団体は、合衆国国家放射線防護審議会(NCRP: National Council on Radiation Protection)である。原子爆弾の実験を行い、それを日本に投下していた合衆国政府は、核科学が持っているどうしても軍事機密が絡んでくるその特質を1946 年には明確に認識していた。それは核物質の私的保有を非合法化し、その分野を管理するために原子力委員会(AEC: Atomic Energy Commission)を設立した。

 それと時を同じくして、NCRP は合衆国X 線ラジウム防護諮問委員会(US Advisory Committee on X-Ray and Radium Protection)を改組してつくられた。これは被ばくを起こしていた大部分の分野が、医療用X 線というよりも、核爆弾開発であったような時期のことである。こうして軍と政府、そして研究契約を結んだ私的企業を巻き込んだ新しい放射線リスク源が誕生したのである。

 そして、放射線リスクについての最高権威であると主張できるような十分な信頼を担う主体を早急に設立することがはっきりと必要になっていた。当時の最新の発見によって電離放射線がショウジョウバエに遺伝的突然変異を起こすことが示されていたので(ヒトに対しても同様のリスクを示唆する)、既存のX 線被ばくに対する限度を見直し、兵器開発研究や核爆弾実験の被ばくの結果としての外部ガンマー線による新しいリスクにその被ばく限度を拡大させる必要に駆られていた。
  
 さらにそこには新しく発見され、生産され、労働者の手によって扱われ、そして環境中に放出されるようになっていた、新しい(novel)放射性同位体の宿主による内部放射線についての被ばく限度を設ける必要性も現れていた。今日では、核兵器の研究や開発を妨害しないような被ばく限度になるように、NCRP がAEC から圧力を受けていたことを示す十分な証拠が存在している。』
(同ECRR2010年勧告の「第5章の2 節  外部および内部被ばくのICRP 放射線被ばくモデルの歴史的由来」) 

ICRPはアメリカ国家放射線防護審議会の国際版

   随分長い引用で申し訳なかったが、要するにこういうことである。

 ICRPの前身は、1928年設立の国際X線ラジウム防護委員会ではなく、アメリカの国家放射線防護審議会(NCRP- National Council on Radiation Protection)である。

(なお現在のNCRPは1964年に改組されて現在に至っている。アメリカの法律でできたが議会の掣肘を受けない独立した組織とされている。<http://www.ncrponline.org/>。アメリカには時折このような不思議な組織が存在する。代表的にはアメリカの中央銀行たる連邦準備制度だろう。)

 そのNCRPは、アメリカX線防護ラジウム諮問委員会を前身とする、というのだ。そしてNCRPが生まれた背景には、「放射線」の中心が、X線やラジウムから核兵器(原爆)に移行したことに直接の要因がある。核兵器を扱うに際してその被曝線量の限度を決定する必要があった、もう少しいえばその“権威”が必要であった。
 
 NCRPが生まれたのと時を同じくして生まれたのが、アメリカ原子力委員会(Atomic Energy Commission-AEC)だった。この勧告ではAECの役割を、私的所有を禁止された核物質を国家管理するためにAECが生まれた、という意味合いで記述しているが、もちろんAECの役割はそのような限定されたものではない。というのはAECの前身はアメリカ陸軍マンハッタン計画だったのだから。
 
 アメリカ大統領ハリー・トルーマンが原子力エネルギー法案(Atomic Energy ACT−日本ではマクマホン法として知られている)に署名するのは1946年8月1日である。
(AEC年表参照の事。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/kono/AEC_16P.htm>)
 
 この法律は、原子力エネルギー開発をアメリカの国家政策として採用し、その開発の主体はアメリカ国家であり、一般私企業には許さないことを骨子としたものだった。そしてその開発の担当部局として大統領直下にAECが成立し、その行政を放射線医科学の立場から補強する役割を担ってNCRPが生まれた。
 
 ただしNCRPは政府から独立した機関でなければならない。独立した機関でなければ“権威”が生まれない。もしNCRPが政府機関であれば、放射線防護の様々な基準の正しさを政府が自分自身で証明するという論理矛盾を犯してしまう。政府の正しさは完全独立した外部機関が証明するものでなければならない。
 
 原子力エネルギー法が成立した1946年8月のすぐ後、NCRPは生まれたのだが、そして法的にはAECが生まれたのだが、実質的にAECが発足するのは1947年1月である。(前出年表参照の事)陸軍マンハッタン計画がAECに衣替えするのに手間取ったからである。特にAECは軍人の兼職を禁じており、軍籍を離脱して民間人になるには一定の時間が必要であった。
 
 たとえばAECの初代事務局長はケネス・ニコルス(Kenneth Nichols)だが、ニコルスは事務局長就任直前は陸軍准将だった。陸軍マンハッタン計画の主要メンバーの一人でもあり、当初は副工務局長、そして後には工務局長として、テネシー州オークリッジにあるクリントン工場のウラン燃料製造とワシントン州ハンフォード工場のプルトニウム燃料製造の両方に責任を負った。(以上例えば英語Wiki“Kenneth Nichols”を参照のこと)

 (クリントン工場のウラン核燃料が広島原爆のウラン燃料になり、ハンフォード工場のプルトニウム核燃料が長崎原爆のプルトニウム燃料となった。なおテネシー州のクリントン工場のことをオークリッジ工場と書いてある日本語文献を時折見かけるが、正しくない。混乱を招く。オークリッジはクリントン工場に隣接して作られた工場従業員のための住宅都市のことである。以上ヘンリー・スティムソンの陸軍長官声明を参照の事。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/rikugun_chokan_seimei.htm>)
 

アメリカ原子力委員会の背景

   AECの生まれた背景には1945年4月以降、すなわち大統領フランクリン・ルーズベルトが急死して、副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格して急遽作られた暫定委員会という秘密委員会での諸決定があるのだが、それは話が拡がりすぎる。

 『  ・・・核爆弾開発であったような時期のことである。こうして軍と政府、そして研究契約を結んだ私的企業を巻き込んだ新しい放射線リスク源が誕生したのである。』

 と先に引用した2010年ECRR勧告は述べているが、こうした「放射線リスク源」による「被曝の限度」を権威づけるためにNCRPが必要だったのである。

 「放射線リスク源」としてのアメリカ原子力委員会(AEC)とその放射線防護基準を権威づけるためのNCRPという組み合わせはそのまま国際的にも展開された。

 これは、「原子力の平和利用」を国際的に推進しようというアメリカの政策と直接に関係している。もともと「原子力の軍事利用」と「原子力の平和利用」は「原子力エネルギーの利用」というさらにその上位の政策概念から見ると「双子の兄弟」のようなものだった。

 ルーズベルト−トルーマン政権時代にスタートした「原子力エネルギー開発計画」は、まず「軍事利用」からスタートした。しかしその時すでに本命は「軍事利用」ではなく「平和利用」にあることは明白だった。

 暫定委員会の45年5月9日の第1回会合で、委員長だったヘンリー・スティムソン(両政権で陸軍長官だった)は次のように大要のべた。

 『  スティムソン長官は、計画(マンハッタン計画)の概要を説明し、この委員会の目的と機能について、長官の見解を表明した。大統領(トルーマン)の承認のもとに、長官が指名することによって、委員会が設立された。それはこの問題全体(原子力エネルギー全体)に関する、戦時の一時的な統御、後の公式発表について研究・報告し、また戦後における研究・開発、統御問題に関する(大統領への)勧奨及び調査、またこれら目的に沿った法制化について調査・勧奨することである。

 この委員会は、現在時点の事実に鑑み、暫定委員会(Interim Committee)と命名されるが、適切な時期に、議会が(原子力エネルギー)の全体分野において、その統御、規制、管理監督をなす恒久組織を設立するだろうからである。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee1945_5_9.htm>)

 (すなわちスティムソンの見解では、戦争後、議会が原子力エネルギー問題全体を担当する恒久組織を作るだろうから、現在は "Interim" とする、と言うことになる。なお戦後1946年8月、スティムソンが予想したとおり、マンハッタン計画全体をそっくり引き継ぐ形で、アメリカ原子力委員会―Atomic Energy Committee-が設立される。) 

アイゼンハワー政権に始まる平和利用

    原子力エネルギー開発が「軍事利用」からスタートしたのは、第一に戦時中であり着手しやすい環境にあった、戦後世界を見通した時に圧倒的な兵器を手に入れる必要があったということだ。第二は「軍事利用」の方が「平和利用」よりはるかに技術的に容易だったからだ。「平和利用」には「核の連鎖反応の制御」と「核の安全化」というはるかに高度な問題を持っている。

 こうして時系列の上では核兵器(原爆)開発からスタートした「原子力エネルギー開発」は、トルーマンの後のアイゼンハワー政権の時代に「平和利用」のステージを迎えることになる。それが1953年12月8日の「アイゼンハワー大統領の原子力平和利用計画発表。原子力平和利用のための国際機関設立を提案」であり、翌54年8月30日の新原子力エネルギー法の成立である。「アイゼンハワー大統領、新原子力エネルギー法に署名。46年法から大幅に改訂し、原子力の平和利用の分野で民間企業や各国の参加を幅広く求める内容となった。」

 年表風に書けば、

1946年8月1日 トルーマン大統領、原子力エネルギー法署名、成立。
1948年3月1日 国立オークリッジ研究所が正式に設立。1943年に作られたクリントン研究所の仕事を引き継ぐ。
1949年9月1日 アイダホに国立原子炉実験基地建設決定を発表。
1951年12月20日 最初の原子力発電実験炉。
1953年12月8日 アイゼンハワー大統領の原子力平和利用計画発表。原子力平和利用のための国際機関設立を提案。
1954年8月30日 アイゼンハワー大統領、新原子力エネルギー法に署名。46年法から大幅に改訂し、原子力の平和利用の分野で民間企業や各国の参加を幅広く求める内容となった。
1955年1月10日 原子力発電デモ用原子炉計画が発表される。AECが民間企業と協力して発電実験原子炉建設を行うとしている。

 となる。(以上前出アメリカ原子力委員会年表を参照の事)

 こうして53年にアイゼンハワーが提案した「原子力平和利用のための国際機関設立」はその4年後の1957年10月1日にウィーンで国際原子力機関(IAEA)設立総会を開いて実現の運びとなった。初代事務局長にはアメリカの下院議員だったスターリング・コール(W. Sterling Cole)が就任する。完全にアメリカ主導の国際原子力機関だった。

 (「最も危険な核兵器保有国イスラエル−IAEA事務局長に天野氏選出の意味」の「核後進国のシンボルがイラン」の項参照のこと。<http://www.inaco.co.jp/isaac/back/025-1/025_1.htm>)

放射線防護の国際的権威としてのICRP

   アメリカ原子力委員会(AEC)の国際版としてIAEAが設立された時、放射線防護の“権威”としてNCRPの国際版が必要となった。それが国際放射線防護委員会−ICRPだったのである。従ってICRPは最初から「原子力エネルギーの利用」に係わる「放射線防護の国際権威機関」としてIAEAとセットでスタートしたのである。

 ICRPがその放射線防護のリスクモデルを作成するに際して、基礎資料としたのは、「広島・長崎」の原爆生存者の「寿命調査」(LSS)だった。しかし当時のアメリカの公式見解は(今でもそうだが)、原爆による残留放射能はない、二次被曝は大したものではない、放射線障害は原爆の一次放射線による被曝(核爆発時に放出される大量のガンマ線や中性子線による被曝)によって生じた、というものであった。そしてこの見解がそのまま日本における「原爆被爆者」認定に使われることになる。

 2000年以降、「被爆者集団訴訟」で原告側が国を相手取って27連勝を納めているが、この裁判の本質は、「原爆による放射能障害は一次放射線による直接被曝のみである」というアメリカの公式見解に対する挑戦だった、ということである。

 実際には、残留放射能や放射性降下物による主として内部被曝も一次放射線による外部被曝に劣らず広範な放射線障害を起こしている、原爆生存者を長年にわたって苦しめ、その生活の質を著しく劣悪なものとしている、その意味では一次放射線による外部被曝よりも悪質だ、というのが原告側の主張であった。

 原爆による放射線障害は主として一次放射線による外部被曝だ、というアメリカの主張はそのままICRPが放射線リスクモデルを作成する際の基礎的見解になっている。だからICRPの放射線リスクモデルは「外部被曝による障害」と「内部被曝による障害」を特に大きく区別していない。

 (このICRPモデルが成立する背景には、原爆障害調査委員会−ABCC=現在の放射線影響研究所−放影研の役割と貢献が大きいのだが、これはまた別な機会にする。) 

単純な構造のICRPモデル

    調べてみるとICRPのリスクモデルは極めて単純な構造を持っている。簡単に言ってしまえば、別図1のような直線的な「放射線応答モデル」になる。

【別図1】 

 1シーベルト以上の外部被曝の領域(別図1でピンク地の領域)では被曝線量と放射線被曝による損害の大きさはほぼ直線的な比例関係にある。これはABCCなどによる「ヒロシマ寿命調査」(Lifetime Span Study−LSS。放影研のサイト<http://www.rerf.or.jp/library/archives_e/lsstitle.html>などを参照の事)による主として一次放射線の外部直接被曝の結果であり、ほぼ実態に近いものだといっていい。
 
 ところがICRPリスクモデルは、1シーベルト以上の被曝(これを仮に今高線量被曝、としておく)をそのまま、低線量被曝の領域にまで直線的に伸ばしてしまう。図の黄色地の領域がそうである。このモデルに従えば、なるほど低線量になるに従って、健康へのダメージは次第に小さくなり、被曝ゼロに近づくに従ってほとんど無視できるほどの大きさになる。
 
 『低線量の被曝は、健康に対してほとんど影響はない。』というICRPの主張もここから生まれる。ただし低線量の領域(黄色地の領域)における「健康に対して被害はほとんどない」という主張は、今のところ仮説である。仮説であるというのは、実態調査や研究でこの仮説が検証されているわけではないからだ。
 
 検証されていない、と云うよりもICRPはこの領域の研究をほとんど行ってこなかった。放射線の人体に対する影響は、ほぼ直線的に(右肩あがりに)被曝線量に比例するという仮説(直線型応答仮説、としておく)に合致しない現実はすべて「放射線被曝ではない別な原因による病気の発症」であるとして、それらデータを捨ててかかったのである。だから低線量被曝における放射線障害の領域におけるICRPの仮説は、いまだに仮説であり、永遠に仮説のままであろう。そもそもICRPには低線量被曝領域における「直線型応答仮説」を検証しようという気はさらさらない。
 
 福島原発事故による放射能の影響という現実ただ今の課題に即して言えば、この仮説があたかも医科学的真実であるかのように、テレビや新聞を通じて日本の市民の頭に中に刷り込まれているという問題が大きく浮かび上がってくる。

 ICRPはこれまで、内部被曝と外部からの直接被曝を特に区別せず、被曝線量の大きさだけで健康被害を推し量ってきた。この考え方がいったい正しいのかという疑問がただちにでてくる。

 というのは広島原爆で生存者たちに発生した様々な健康被害は、「直線型応答仮説」では説明できないからだ。典型的には「原爆ぶらぶら病」だ。一次放射線の直接被曝量からすると大した被曝線量ではないにも係わらず、明らかな健康障害があらわれている。また原爆投下の翌日、家族や知人を捜して広島市内に入った人たちに様々な健康被害があらわれている。(いわゆる入市被曝)放射性降下物を大量に含んだ雨(いわゆる黒い雨)に打たれた人たち、爆心地からかなり離れた地域にいた人たち(例えば広島市内の己斐・高須地区は爆心地から4−5kmも離れている)にも放射線障害があらわれていた。これらは「直線型応答仮説」では全く説明できない。有名な佐々木禎子は被爆後10年で白血病を発症したのだが、これは本当に外部被曝による影響のみだったのか、内部被曝による影響はなかったのか?

 こうした数々の疑問にICRPの「直線型応答仮説」は全く答えていない。にも係わらずICRPのリスクモデルは「唯一絶対」のリスクモデルとして世界の放射線防護界に君臨している。その根拠は「権威」だけである。それも作られた権威である。

 肝心の朝日新聞の記事の批判に入るまでの前置きが相当長くなったが、朝日新聞の記事「いちからわかる 放射線と健康との関係」のプロパガンダ性を理解するには、以上のような基本的理解がまず必要となる。

(以下次回)