(2010.5.1)
No.009

オバマ政権と日本の外務省のプロバガンダを垂れ流す
広島の中国新聞



 ヒロシマ・ナガサキはアメリカ歴代政権のアキレス腱

 やや下品なタイトルで、やや攻撃的な内容になるがやむを得ない。

 2010年4月29日(木)付けの、中国新聞のシリーズコラム「核兵器はなくせる」そのB「イランの主張」「軍事利用 教義で禁止」と題する記事ほど、アメリカと日本の外務省のプロパガンダを、広島の市民の頭に刷り込もうというここ1−2年の中国新聞の役割を如実に表現した記事もなかろう。

 09年5月、アメリカにオバマ政権が成立してまもなく、「アメリカの戦略態勢議会委員会最終報告書」がアメリカ議会に提出された。今後のアメリカの戦略態勢を多面的に論じた報告書だが、やはりアメリカの戦略態勢は核兵器がその中心に座っている。

 その報告書の中に、「第2章 核態勢論」(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/
obama/USA_SP/strategic_posture_4-2.htm
>)
がある。内容としては、10年4月に発表された「核態勢見直し」(NPR)の前駆的骨格を持っている。その中に次のような一節がある。
 
・核兵器は特別な兵器である。単に爆発兵器より強力だというに止まらない。
・核兵器は抑止力のためのものだ。そして最後の手段としてのみ使いうる。』

 核兵器がその誕生以来、特別な兵器、人類絶滅最終兵器として世界を支配する道具として猛威をふるってきたことはいまさら云うまでもない。21世紀は、この核兵器に対して止めを刺そうという世紀でもある。

 「核兵器は抑止力のためのものだ。」「最後の手段だ。」は、歴史的に見ればそうではなかった。ヒロシマ・ナガサキでは、核兵器は抑止のためではなく、都市絶滅の手段として使われた。「最後の手段」としての見せかけの為のキャンペーンが始まったのは、1946年以降のことである。

 この章は、アメリカの「(核の)不使用の伝統は、アメリカの利益に役立つ。そしてアメリカの政策と、その政策能を強化するはずである。」とも述べている。

 これも事実に反する。逆にアメリカだけが「核の実戦使用」の歴史を持っているのであり、これが今に至るも「アメリカのアキレス腱」となっている。この議会報告書が、「アメリカの核不使用の伝統」を、冷戦以後に限り、それ以前に遡らないのは、それだけアメリカが実戦で核兵器を使用し、言い替えれば「ヒロシマ」「ナガサキ」で無辜の市民を殺し、血塗られた手をもっていることが、どれだけアメリカの大きな傷になっているかを示すものだとも云える。
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/obama/USA_SP/
strategic_posture_4-2_ext1.htm>
参照の事。)


 原爆使用の責任とは?

 イランはこのアメリカの「傷口」を執拗に攻撃し続けている。たとえば、10年4月17日・18日テヘランで開かれた「軍縮・不拡散に関する国際会議」で、イランの最高指導者、アヤトラ・ホメイニーはそのメッセージの中で、「アメリカを唯一の核犯罪国」と呼んだ。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/iran/tehran_01.htm>または
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/iran/tehran_02.htm>参照のこと。)


 アメリカの傷口をぱっくり開いて、塩を揉み込むような言い方であろう。核兵器のような究極の大量破壊兵器を用いて、2つの都市絶滅を行ったアメリカは、まさしくレオ・シラードが大統領トルーマンにあてた「請願書」で述べたように、

 原爆は、まず何はさておいても、残虐な都市絶滅の手段であります。
いったん原爆が戦争の道具として使用されれば、今後長い目で見ればそれを使用したいとする誘惑に打ち勝つことは難しくなるでありましょう。』

 であり、アメリカがいつ何時それを使うかも知れない、という恐怖感は世界中を覆っている。アメリカに「核攻撃するかも知れない。」と脅されているイランや北朝鮮の人々の恐怖は実感を伴っている。(彼らの恐怖感が共有できないようであれば、「核兵器廃絶」だの「被爆者の悲惨」だのというのはよしたほうがいい。偽善ぶりが際だつだけだ。)

 またシラードは次のようにも云う。

 原爆は各国に破壊の全く新しい手段をもたらすものです。われわれの手にある原爆は、この方向性のほんの第一段階に過ぎません。現在の開発が進んでいけばわれわれが使える破壊力はほとんど無制限となっていきます。破壊を目的とする、新たに解放された自然の力の使用を前例とする国は、想像を絶する破壊の時代に扉を開ける事に責任を持つべきであります。』
(「シラードの請願書」(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/seigansho.htm>)

 まさしく、原爆を使用した国はその責任を取らなければならない。それは、オバマがプラハで述べたように、「道義的責任がある」と称して、多くの非核兵器諸国の権利まで取り上げようということではない。
(「オバマのプラハ演説」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/obama/obama_04.htm>の「唯一使用国の道義的責任」「生きている間はない」「オバマの核抑止論」の項参照の事。)


 シラードがいう「責任を取る」とは、「ヒロシマ」「ナガサキ」の政治的要因、歴史的要因、そしてそれを支える「経済的要因」を明らかにし、なぜ核兵器が「特別な兵器」であるのかを徹底的に解明し、これを「実戦使用」したり、「威嚇使用」したりすることはもちろん、「製造」したり「保有」したりすること自体が、反人類的、反地球的犯罪行為であることを明確にすることだ。そしてこの思想を人類共有の「思想的財産」にしていくことなのだ。


 「核兵器廃絶の思想」の形成

 もし「広島の思想」や「長崎の思想」があるとすれば、この「核兵器廃絶の思想」であることは疑いない。しかしそれは「ノーモア・ヒロシマ」や「核兵器廃絶」「被爆者の悲惨」を弱々しく呟くだけでは達成できない。

 「核兵器使用」の歴史的事実を、政治的・経済的・思想的に解明していくことだ。何のために原爆が開発されたのか、それが誰の利益になったのか、なんのために原爆が広島と長崎で使用されたのか、その結果世界がどう変わったのか、その変化は誰の利益になったのか、そしてその結果、われわれはどういう体制の中で暮らしているのか、これを科学的に事実に基づいて明らかにして行くとき「核兵器廃絶の思想」は完成し、その過程で、「戦争」や「武力闘争」、「平和」はともかくとして、核兵器は廃絶されるだろう。

 その過程では当然アメリカとその主要な政治家や軍事家、官僚は糾弾されるだろう。しかし、それはアメリカやその主要人物の糾弾自体が目的ではない。「核兵器廃絶」の過程であり、そのプロセスを解明していく中で当然発生する副産物である。

 アメリカの支配層が、原爆の投下以来一貫して恐れてきたのが、「核兵器廃絶の思想」の完成である。レオ・シラードが何故「原爆は残虐な都市絶滅」の手段と呼んだのか、その実態を明らかにされることを恐れてきたのである。だから今でも「ヒロシマ」「ナガサキ」は彼らの「アキレスの腱」である。


 ウソをついてきたアメリカ歴代政権

 そして、彼らがもっとも恐れているのは、広島や長崎からこの問題に追求の火の手があがることだ。なぜなら、「ヒロシマ」「ナガサキ」は地球市民に対してもっとも「説得力」を持つからだ。

 このため、アメリカは、原爆投下の当初から、特に広島に対して特別の手当てをしてきたのではではないか、と疑いを持つようになった。それは1945年9月、マンハッタン計画の軍事的責任者レスリー・グローブスの片腕、トーマス・F・ファレル(=当時准将)が急遽広島を訪れ、「広島には放射能はない。死ぬべきものは死に絶えた。」とデマ声明を発した時にすでに始まっている。

左の写真は、マンハッタン計画の軍部側総責任者レスリー・グローヴズ【左】とトーマス・ファレル【右】
1945年に撮影
英語Wiki【Thomas Farrell】からコピー

 「読書日記」氏は次のように書いている。
(<http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=593>)

なお「准将の服装をした科学者」とはマンハッタン管区調査団長の1人であるトーマス・F・ファレル准将である。この会議でファレル准将はバーチェツトが広島で見聞した原爆放射線の後障害をことごとく否定した。「スポークスマンは顔を青くして“君は日本の宣伝の犠牲になったのではないのかね”といって、腰をおろした。おきまりの“サンキュー”で会議は散会となった」とバーチェツトは記している。・・・

 ファレル准将は広島から東京に帰ったときの記者会見でも、残留放射能の存在をすべて否定した。私がたびたび引用した「ファレル准将覚え書き」がグローブス将軍に届けられ、この「覚え書き」がアメリカ政府の公式見解となっていくのである。』
(「第5章 見棄てられた被爆者たち」の「原爆はどのように報道されたのか」より。)

 アメリカは原爆の「反人類的犯罪性」が世界の市民の目に、特にアメリカ市民の目に明らかになることを極度に恐れた。そしてそのためアメリカの指導層が指弾されることを恐れた。


 「被爆者の悲惨」のみが原爆の実相か?

 それが、その後の中国新聞の論調とどう関わっていくのかは、今後具体的に調べて見ないとわからない。ただ事実として云えることは、中国新聞は、「原爆報道」を「被爆者の悲惨」にのみ限定していった。原爆について語るべきことは「被爆者の悲惨」以外にはないかのようだった。そうして最も肝心な問題、「核兵器開発とその使用(ヒロシマとナガサキ)で誰が一番利益を得たか?」そして「それが現在の核兵器が支配する世界とどう関わっているのか」という問題から広島市民の目をそらせていった。

 そうして事実として云えることは、現在は「オバマ賛美」である。それが根拠を持つものなら別として、たとえば最近の記事のように事実を枉げてまで、広島を「オバマ賛美」で塗りつぶそうとしている。(たとえば、「オバマ政権の側面援護を広島で担う中国新聞」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/01/01.htm>を参照の事。)

 オバマについて行けば、アメリカに無批判に追随していけば、「核兵器廃絶」は実現するという世論作りを広島で担っている。従って、オバマ政権の主張はほぼ無批判に受け入れ、事実関係の検証なしに垂れ流しをしている。

 それは65年前、ファレルの「広島には放射能はない。」という声明を無批判に掲載した中国新聞の記事となんら変わることはない。


 事実報道ではなく信念の披瀝

 冒頭ちょっと触れた『「核兵器はなくせる」そのB「イランの主張」「軍事利用 教義で禁止」』と題する記事もまた、こうした広島の世論作りのためのものだ、という他はない内容だ。

 この記事の主題は「イランの核疑惑」である。この記事の書き手、吉原圭介という記者は、先日も、

これに対しイランの研究者らは「大量破壊兵器の製造と使用はイスラム教の教えに反する」「核兵器使用をほのめかす(米国の)脅威こそ国際司法の場で裁かれるべきだ」などと主張した。
 イラン外務省によると会議には約60カ国の200人が参加した。意見交換に加わった一橋大の秋山信将准教授は「参加国数は多かったが、必ずしもイランを支援する立場ばかりではなかった。今回の会議は、自国を正当性化しようとする試みとしては成功とはいえない」と話していた。』

 とするテヘラン発の記事を書いた。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/iran/tehran_08.htm>)

 この記者は、「イランは核兵器開発を行っている。」と信じている。そしてイランがこの4月テヘランで「核軍縮・不拡散に関する国際会議」を開催した目的を、「自国を正当化すること。」だと信じている。

 それは、この記者の見解だから一向構わない。しかしそのためには、その見解を新聞を通じて披瀝するなら、少なくともその根拠を示さなければならない。しかし吉原は、その自分の根拠を最後の最後まで示すことができない。(一橋大学の秋山某の云ったことだから、は根拠にならない。)

 この記事は、2つの点で従来型の中国新聞の記事とはスタイルを変えている。つまり手が込んでいる。


 引用するなら最高指導者の言葉だろう

 1つは、実際に吉原がテヘランに行って現地取材をし、記事の信憑性を取り繕っていることだ。もう一つは「軍事利用教義で禁止」と、一見イランの言い分を取り上げ、一見公正を装っていることだ。

 「イランが大量破壊兵器を持たない理由がある。イスラム法のハラームの(禁止行為)だからだ。」・・・分科会でイランのシンクタンク研究者がとうとうと語った。』

 がこの記事の書き出しである。

 しかし、このシンクタンク研究者がどこの人物でなにを語ったかは知らないが、

 世界の社会は、核兵器は廃棄されなければならないという立場において一致している、と述べ、核兵器の使用はまたイスラムにおいては、「ハラーム」(haram)、すなわち禁止されている、と繰り返し述べた。』

 とは、イラン最高指導者アヤトラ・ホメイニーの上級側近、アリ・アクバル・ベラヤティがこの会議の冒頭代読した、他ならぬホメイニーのメッセージの一節である。しかもイラン・イスラム原理では、「核兵器を持つことは禁止されている。」というテーゼは、ホメイニーがこれまで再三再四、色々な場所で述べている。
(たとえば東京外語大学の「中東ニュース」を参照の事。
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/news_j.html>)


 イランのシンクタンク研究者がなにを云おうが、「核兵器保有は禁止事項」はイスラム・イランの国是なのだ。吉原もこの会議で取材していたのなら、このホメイニーのメッセージは聞いていたはずだ。

 なぜイランの最高指導者のテーゼを、シンクタンクの研究者の言葉として紹介するのか?それは「核兵器を持つことは禁止されている」というイスラム・イランの国是を軽く見せるためのものだ、という他はない。もし吉原が、このホメイニーのメッセージの存在そのものを知らなかった、というならお粗末という他はなく、現地から記事を送稿するのはやめにした方がいい。


 イランのウラン濃縮は不当なのか?

 この吉原の記事は次のように続く。

 会議のスローガンは「核エネルギーは皆のために、核兵器は誰のためでもなく」だった。その言葉からも国際社会からの疑惑の視線をよそに、平和利用だとして自国でのウラン濃縮にこだわるイラン政府のスタンスがうかがえる。』

 まるで支離滅裂な記述である。

 この会議のスローガンは「みんなのための原子力エネルギー、だれのためでもない核兵器」(“Nuclear Energy for All, Nuclear Weapon for No One”)だった。

 このスローガンは、明らかにNPTの3つの原則を念頭においている。NPTは、1995年・2000年の再検討会議を経て、「核兵器の完全軍縮」(すなわち廃絶)を目指すこと、「核不拡散」(すなわちNPT参加国は当面核兵器の完全軍縮が達成されるまで5つの核兵器保有国を除いて、核兵器を保有しないこと。不拡散義務は核兵器保有国にもある。)、「原子力エネルギー利用の権利」(原子力の平和利用は参加各国の奪い得ない権利として、その技術やインフラ整備を含めて取得にはIAEAは積極的に支援しなければならない。)、の3つの原則をスローガン化したものだ。
 (NPTの条文については、<http://www.gensuikin.org/data/npt.html>を参照の事。)

 このスローガンが、なぜ「自国でのウラン濃縮にこだわるイラン政府のスタンスがうかがえる。」ことになるのか?

 またイランがウラン濃縮をすることの不当性を吉原は全く示していない。あたかもそれは自明の理の如くである。アメリカのプロバガンダを丸呑みである。

 NPTの第4条第2項は、
 すべての締約国は、原子力の平和的利用のため設備、資材並びに科学的及び技術的情報を可能な最大限度まで交換することを容易にすることを約束し、また、その交換に参加する権利を有する。締約国は、また、可能なときは、単独で又は他の国若しくは国際機関と共同して、世界の開発途上にある地域の必要に妥当な考慮を払って、平和的目的のための原子力の応用、特に締約国である非核兵器の領域におけるその応用の一層の発展に貢献することに協力する。』

 とし、この条文に従えば、「イランのウラン濃縮」はイランの権利である。自国の権利にこだわるのはイランに限らず、どの国でも当然のことだろう。

 まず、イランに限らず、NPT参加国には自国でウラン濃縮をおこなう権利がある、これはNPTに定める参加国の権利だ、と言う点を読者の前に明らかにしなければ、中国新聞の読者は、アメリカのプロパガンダの方向に誘導されるだろう。


 日本も、ドイツも、オランダも不当なのか?

 濃縮率3.5−5%程度のウラン濃縮でも実は国家的大事業だ。自国でウラン濃縮をするか、他国から購入するかはそれぞれ参加国独自の判断だ。イランは自前でウラン濃縮する道を選択した。これは不当でもなんでもない。

 たとえば、日本はかつては人形峠で、今は青森県の六カ所村でウラン濃縮を行っている。これはNPT第4条の権利に基づいている。またNPT参加の非核兵器保有国の中でもドイツはグロナウで、オランダはアルメロでウラン濃縮を行っている。
(<http://www.jnfl.co.jp/business-cycle/1_nousyuku/
nousyuku_03/nousyuku_04/nousyuku_04_03.html
>)


 また、世界最大のウラン濃縮工場フランスのユーロディフには、イタリア、ベルギー、スペインなどが資本参加し国際事業となっている。
(<http://www.rist.or.jp/atomica/dic/dic_detail.php?Dic_Key=1652>)

 また、ブラジルも最近ウラン濃縮事業を開始すると発表した。
(<http://www.commondreams.org/headlines06/0509-01.htm>)


 これらはすべて、NPT第4条の規定に基づくものだ。

 イランだけが「ウラン濃縮にこだわっている」わけではない。すべてNPT枠内で認められた参加国の権利だ。日本やドイツやオランダが良くて、イランが不当だというなら、これは「アメリカの二重基準」そのままだ。
(吉原は別の記事で「アメリカの二重基準」という言葉を使って記事を書いているが、まるきりこの言葉の意味を理解していない。二重基準とは「論理矛盾」ということなのだ。論理のないところに二重基準もまたあり得ない。)


 大体アメリカ自体も「イランにウラン濃縮の権利はない。」とは云っていない。アメリカの主張は「イランはウラン濃縮をする必要がない。それでもウラン濃縮を行おうとするのは、核兵器開発の野心があるからだ。」
(いちいち出典を引用しない。たとえば「アメリカの二重基準に振り回される国際社会」
http://www.inaco.co.jp/isaac/back/016/016.htm>などを参照の事)という非難だ。


 アメリカの言い分を無批判に鵜呑み

 このアメリカの主張は恣意的で、自分勝手である。

 この吉原という中国新聞の記者は、「ウラン濃縮にこだわるイラン」と書くことで、アメリカの恣意的で自分勝手なプロバガンダを中国新聞の読者に取り次いでいるに過ぎない。

 この記事は次のように続く。
 質問が出た。「平和利用はハラームではないのか。パキスタンの核兵器保有はどうなるのか。』

 いともおかしな質問だ。これが研究者が集まった分科会で出た質問だというのだ。先ほどのスローガンが示すように、「平和利用」をイランのイスラム原理が禁止している筈がない。こんな質問をする研究者がいたとすれば、まるきり素人以下だ。またこの研究者は、同じイスラム国であるパキスタンは核兵器保有国ではないか、と尋ねたとこの吉原は書いている。

 もしこの質問が本当に出たとしたら、この研究者はイスラムについて何も知らない、まるきり研究者らしくない質問だ、という他はない。
(私は吉原のでっち上げか、あるいは聞きかじりではないか、と疑っている。)


 イスラムについて少しでも知っている人ならば、イスラムには数多くの宗派があり、それぞれがそれぞれの解釈を行っている、常識だ。それはキリスト教でも同じことだろう。いかなる理由であれ自分は戦争で人を殺すわけにはいかない、とするクエーカー教徒もいれば、ベトコンを殺すことは神の御心に適っている、と説教したベトナム戦争の従軍牧師もいる。

 少なくともホメイニーは、自分が最高指導者であり、自分がイスラム原理の解釈の最高責任を負っているイラン・イスラム原理について述べているのだ。聞く側も当然そうした理解を前提に聞いている。つまり、ホメイニーはイランのイスラム関する自分の解釈について述べているのであり、そのことは聞く側もわかっている。

 それを「じゃ、パキスタンはどうなんだ?」と聞く研究者がいるとすれば、それはおよそ社会科学者らしくない、ためにする質問だということになろう。

 要するに吉原の書く「質問」は、およそ研究者からでた質問とは思えない。私が怪しい、と考える理由だ。


 「核の威し」に怒りを感じない鈍感さ

 厳格なハラームに基づき核兵器開発はしていないと繰り返しても、疑惑はぬぐえないとする米国はイランと北朝鮮を核攻撃の照準に据え続ける。さらに中東では、事実上の核兵器保有国であるイスラエルが「自衛のため」を口実にした核開発競争を招きかねない構図が厳然とある。』

 と吉原は平然と書いている。

 私が唇が真っ青になるほど怒りを感じたのは、この箇所だ。この記事を書かねばならないと思い立ったのもこの箇所のせいである。核兵器を巡る国際情勢に全く無知で、アメリカのプロパガンダを鵜呑みにするこの吉原という記者が与太記事を飛ばしても、我慢はできる。しかしこの箇所はどうにも我慢ならない。

 「核兵器開発はしていないと繰り返しても、疑惑はぬぐえないとする米国はイランと北朝鮮を核攻撃の照準に据え続ける。」と吉原は平然と書いている。

 オバマ政権は2010年4月初旬、「核態勢見直し」を発表した。その中で公然とイランと北朝鮮を「核兵器攻撃の対象となる可能性」があると表明し、これをオバマ政権の正式政策とした。ブッシュ政権も核攻撃の権利を留保すると云ったが、相手国を名指しでは行わなかった。この点、オバマ政権の「威し」はドスがきいている。特にイランに対しては、「核の先制攻撃」どころではない。非核兵器国でありNPT加盟国に対して公然と「核兵器攻撃の威し」をかけた。
(「『核の威嚇』政策に沈黙を守るヒロシマ・ナガサキ」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/zatsukan/008/008.htm>に詳述したので多くは繰り返さない。)

 21世紀に公然と「核の威し」政策を掲げることは、それ自体が犯罪行為である。

 この犯罪行為に鈍感で、怒りを感じないなら、「核兵器はなくせる」などと云うタイトルの記事は書かない方がいい。

 吉原は「客観事実を書いたまでだ。」というかも知れない。しかしその客観事実に批判精神を持たないなら、新聞記者をやめてPRライターにでもなったがいい。

 「核兵器を使った威し政策」に対して批判精神をもたないなら、「核兵器の存在」をも批判できない。「核兵器を使った威し」を公然と掲げるオバマ政権を批判し、その批判精神を全世界の市民と共有することが、そしてそのために努力することが、「核兵器廃絶の精神」であり、その努力がやがて「核兵器廃絶の思想」に結実するのだから。

 次。「イランは核兵器を開発していない。」と繰り返しているだけではない。その事実はIAEAも確認している。(たとえば、2007年のIAEAの事務局報告やCIAの報告などを参照の事。)

 すると、「イランは核兵器開発をしている。」とアメリカが疑念をもつ根拠は一体何なのか?その疑念には正当性があるのか?

 正式にはオバマ政権は、「イランに核兵器開発の疑惑がある。」とは云っていない。彼らの言い方は「NPTの不拡散義務を遵守していない。」だ。「イランに核兵器開発の疑惑がある」と云っているのは、政権中枢から情報をリークされたアメリカの大手マスコミやジャーナリズム、シンクタンク、研究者、学者だ。

 そして西側の、特に日本の大手マスコミが一斉に「イラン核疑惑」を言い立てている。

 しかし、そのどれ一つとして、自らの根拠を示していない。同じデマがぐるぐる回っているだけだ。だから、吉原も「イランが核兵器開発をしている。」という根拠をたった一つでいいから、みずからの調査を基に明らかにすべきなのだ。

 「アメリカがそう言っている。」というのなら、アメリカの主張の正当性を論じるべきだ。


 「ウソも百遍云えばホントになる」

 「ウソも百遍云えばホントになる。」とは何もヒトラーの専売特許ではない。歴代アメリカ政権が取ってきた手法だ。

 「戦争を終結させるために原爆を使用した。」から始まって、「広島には残留放射能はない。」「放射能で死んだ被爆者はいない。」、ベトナム戦争では「トンキン湾の公海上のアメリカ艦船が北ベトナムに攻撃された。」(トンキン湾事件。これがジョンソン政権の北爆の理由とされた。当時日本の大手マスコミは裏付けも取らずに一斉にアメリカの発表を日本に垂れ流しにした。)、「アフガニスタンのタリバン政権はアルカイダを匿っている。」(これがアフガニスタン侵略の理由とされ未だにアメリカはアフガニスタンを占領している。)、「フセイン・イラクは大量破壊兵器を持っている。」(これが第二次イラク戦争の理由とされ、未だにアメリカはイラク占領を続けている。)

 全部ウソだった。

 そして今は「イランは核兵器開発を行っている。」だ。
(最近の外交問題評議会の論評や国防長官ゲイツのテレビ記者会見を見ると、これをイラン攻撃の理由としようとしているように見える。例えば「イラン核疑惑:外交問題評議会理事長リチャード・ハース、対イラン戦争を呼びかける」参照のこと。http://www.inaco.co.jp/isaac/back/028/028.htm


 原爆投下の責任を追及するのは「反米感情」ではない

 さらにこの記事は、イラン・イラク戦争でイランが、フセイン・イラクが使用した毒ガス兵器の被害にも触れ、「イランは中東でもとりわけ大量破壊兵器に対する嫌悪感が強いとされる。」と書いている。

 そして続けて、
 確かにイラン政府要人の多くは来日すると被爆地広島を訪れ、原爆の被害に触れる。
ただ、「投下国の米国を許してはならない」と反米感情をあらわにすることも少なくない。』

 と書いている。

 ここでも私はクビを傾げる。「ヒロシマ・ナガサキの責任」を問うことは、「反米感情」なのか?

 日中戦争(15年戦争)の責任を問う中国の人たちは「反日感情」の持ち主か?

 パレスティナに対するイスラエルの戦争犯罪を追求することは「反ユダヤ感情」のあらわれなのか?

 かつてイギリスからの独立を求めて闘ったインドの人たちは「反英感情」の持ち主か?

 いずれもそうではあるまい。

 ホメイニーは次のように云っている。

 世界の核犯罪国そして唯一の核犯罪国は今、不正にも核兵器の拡散と闘っていると主張するが、この問題に関して、間違いなくそのような動きをしてこなかったし、これからもそのような動きはしないだろう。』

 そして次のように続ける。

 核兵器を貯蔵すること、核兵器を使うこと、核兵器を使うと脅すこと、これらはすべて戦争犯罪となり、また地球の安全を危険に晒すことを犠牲にして、自らの安全保障のために核兵器を蓄積し続けるような国へと突き進むことも戦争犯罪である。
 しかしながら、一握りの諸国は、非核化に対する国際社会の要求をはねつけ、そのような兵器が欺瞞の安全保障以外のなにものももたらさないという事実を無視し続けている。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/iran/tehran_02.htm>)

 私の立場から云えば、「核兵器のない世界」を目指すといいながら、その実「核兵器廃絶のその日まで、アメリカは安定し信頼性に富んだ核戦力を維持します。」というオバマ政権の「欺瞞の安全保障」よりはるかに正しい見解だ。

 このホメイニーの表明に端的に示されているように、「ヒロシマ」「ナガサキ」は決して過去の出来事ではない。それは現在のアメリカの「核兵器政策」に脈々と受け継がれている。だからこそ、ヒロシマ・ナガサキの責任を追及する必要がある。その追及の過程(プロセス)が「核兵器廃絶の思想」の形成過程でもある。このことは冒頭にも述べたとおりだ。

 「核兵器廃絶の思想」を形成する上で、「ヒロシマ」「ナガサキ」の責任を明らかにすることは必然だ。だから、これは「反米感情」ではない。

 これを「反米感情」だという吉原の捉え方こそ、「20世紀の清算と歴史的和解」を妨げる無知と偏見の成せる技、ということになろう。


 オバマ政権との鋭い対決姿勢を見せた会議

 この短い記事を吉原は次のように締めくくる。

 国際会議開催を通じて平和利用に対する内外の賛同を得ようとしたイラン政府。だが軍事利用の疑惑が一掃できたとはいえない。』

 この国際会議が、「イランの核開発に国際的な理解と賛同を得ようとした会議」というのは、日本の大手マスコミの共通した見方だ。
(たとえば<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/iran/tehran_08.htm>)


 吉原も一貫してこの見方を崩していない。問題は何を根拠にして吉原がこの見方をしているのかが不明なことだ。吉原はこれを「自明のこと」として自らを全く疑っていない。しかし、にも関わらず、吉原はこの見方を支持する自分自身の根拠を一切示していない。

 もし私の想像通り、この見方が日本の外務省のブリーフィングに従ったものだとすれば、吉原は日本の外務省を通じてオバマ政権のプロパガンダを広島の地元に垂れ流していることになる。吉原が、自分で書いている見方の、自分自身の根拠をたった一つでいいから示せば、私の想像は外れていることになる。私はこの点、謝罪しなければならないだろう。

 私はといえば、この国際会議の目的は、4月18日(日)に出された12項目の最終声明に要約されていると思う。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/iran/tehran_07.htm>)

 すなわち、

1. 国際的軍縮と安全保障をめぐる複雑な現状、継続するWMD、特に核兵器の存在、そしてその使用、あるいはそのような兵器を使うとの威嚇などに深い憂慮を表明し、
2. 国際社会は、そのもっとも高い優先順位を核軍縮に置く。そしてそのような非人間的兵器の完全な廃絶の必要性に置く。核兵器不拡散条約、そして特に1995年及び2000年の再検討会議での最終合意文書に従って、核兵器に関する実際的軍縮の13の実際的段階の完結にその優先順位を置く。

 が中心目的であり、その中で、

5.  世界の各地で、特に中東地域で、非核兵器地帯実現のための手段を講ずることの必要性を強調。これは、国連の明確な決議に基づくこと、またそのような目標に到達するまでの間の最初の段階として、シオニスト体制(イスラエルのこと)が核不拡散条約に加盟すること、そしてIAEAの包括的安全保障条項に下にその核施設を置くことなどは、絶対必要なことである。

 と中東非核兵器地帯の設置を求めた上で、

7.  NPT参加国には、いかなる観点からも原子力エネルギーを使用する、奪い得ない権利(inalienable right)があることの確言。そしてNPT第4条に基づくNPTの一つの柱として、国際的な協力を促進する必要性を確言。

 と述べており、オバマ政権のNPT第4条の骨抜きの狙いと真っ向から対決することとなる。

 そして他の非同盟諸国は固唾を飲んでこの鋭い対立を見守っている。イランを内心応援しながら。それは彼らの立場とイランの立場が完全に一致しているからだ。もしイランが一歩も引く構えを見せなければ、2010年NPT再検討会議は「最終合意文書」を採択できないだろう。

 この会議の目的は、とても吉原のいう「イランの核開発に国際的な理解と賛同を得ようとした会議」などという皮相的なものではない。もっと根本的な鋭い、オバマ政権との対立を孕んでいる。

 「だが軍事利用の疑惑が一掃できたとはいえない。」と吉原はこの記事を結んでいる。しかし、吉原の記事はよく読むと「イランが核兵器開発をする筈がない。」と云う話ばかりが記述されていて、「イランは核兵器開発をしている。」という事実関係が一切書かれていない。

 「だが軍事利用の疑惑が一掃できたとはいえない。」とは、他の誰でもない吉原自身のコメントなのだ。ならば、吉原自身が「疑惑が一掃できたとはいえない。」根拠をたった一つでいいから示すべきなのだ。

 だから「疑惑が一掃できたとはいえない。」のは、一にかかって吉原の無知と偏見に基づく、と断ぜざるを得ない。

 今の問題は、アメリカのアキレス腱であり、歴代政権が最も恐れる「ヒロシマ」の地元新聞「中国新聞」が、アメリカと日本の外務省のプロバガンダを広島市民に垂れ流すことに汲々としていることだ。

 これではとても「核兵器はなくせ」ない。