No.23-10 平成21年3月27日

田母神論文に見る岸信介の亡霊
その10 近代国家建設を進める張学良政権と成果を簒奪した「満州国」
被害妄想史観学者のターゲット

 前回までで検討してきたことの中でうすうすわかってきたことの一つは、「田母神論文」なる雑文は、田母神が自身で研究してきた成果というよりも、田母神が誰かに教え込まれことを、粗雑に書き散らしたものだということだ。

 それでは誰が田母神にそうした「時代錯誤的な歴史」を教え込んだのかといえば、今見えているのは、「被害妄想史観」の学者・研究者グループだろうということだ。こうした学者・研究者は、マスコミの一部や出版界の一部を使って、「あの戦争は正当だった。」「日本は被害者だった。」というイデオロギーを社会に流すばかりではなく、日本語Wikipediaなども積極的に利用して、意外と広く社会に浸透しはじめている。

 ところが学術的には彼らの仕事は殆ど見当たらない。たとえば、国立情報学研究所の学術論文データバンク“CiNii”(サイニイ)<http://ci.nii.ac.jp/>で検索をかけても彼らの仕事は余り見ることができない。まっとうな歴史学者はわずかに、秦郁彦くらいか。

 つまり彼らがターゲットにしているのは、歴史学会や学術研究グループではない。雑誌や新聞では華々しく論争を展開している彼らは、学術研究グループの間では沈黙を守っているのだ。
一つには学術研究グループを相手に努力を費やしても金にならない、有名にもならないという点もあるのだろう。ちゃっかりした連中だ。)

 彼らは文部科学省や防衛省などとつながって仕事をすることによって十分メシが食っていける。有名にでもなろうものなら、雑誌からの執筆依頼、講演依頼で収入が期待できる。

 そうした彼らが、ずっとターゲットにしてきたのは、一体何だったかというと「日本の大衆」である。戦前世代が次第に減っていく社会構造の中で、「戦争」や「凶暴な天皇制ファシズム」を直接体験として記憶している世代は少なくなっていく。それではそうした「戦前」の記憶を今われわれが正しく継承しているかというと、そうでもない。
 
 今もしこれを読まれている戦後世代の人があれば、自分の中学・高校時代を思い出してみるといい。学校で歴史は習ったが、日本史で言えば「昭和史」はほとんど駆け足だった。戦後の歴史になると教師自体も及び腰でほとんどなにもやっていない。それに都合よく「受験の三学期」にぶち当たり、ここをすっ飛ばす口実もある。高校受験や大学受験では、日本の現代史は出題されないという事情もある。

 われわれ一般の日本市民は、日本の現代史に関する素養はないのだ。従ってわれわれは、「日本の現代史」については無知である。

 「被害妄想史観」の学者たちがターゲットにしているのは、こうした日本の現代史については基礎教養のない、「日本の一般市民」である。

 こうして見たとき、この「被害妄想史観」の学者たちにとって田母神は極めて都合のいい存在だ。彼が「現役航空幕僚長」だからであり、田母神というキャラクターと彼の単純幼稚さ加減が、「ちんどん屋」という役割にぴったりだったからである。

 考えても見て欲しい。彼が現役の「航空幕僚長」でなければ、あの雑文がこれほど社会の話題になりはしなかったろう。アパグループは最初から「田母神論文」を“第一席”に選ぶつもりだったのだ、という推測は恐らく間違ってはいないだろう。

 2つ疑問がある。田母神の背後のこうした学者グループのそのまた背後には、どんな勢力があるのか?そして彼らの狙いは一体何なのか?・・・・。


「北京議定書」は侵略の証拠

 田母神は次のように書いている。

 時間は遡るが、清国は1900年の義和団事件の事後処理を迫られ1901年に我が国を含む11カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は駐兵権を獲得し当初2600名の兵をおいた「蘆溝橋の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。また1915年には袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとかいう人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21ヶ条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどなどは日本の言い分を支持してくれたのである。「日本史から見た日本人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。』
(*句読点、カッコの使い方などはPDF原文のママ。)

 一体何を論証しようとしているのか不明な文章であるが、これも田母神が教え込まれたことを未消化のまま書いたせいだろう。

 例によっていくつか間違いもある。

 田母神は、「義和団事件」の結果としての北京議定書(田母神は義和団最終議定書、と書いているが1901年9月の議定書は北京議定書である。)に基づいて日本は駐兵権を得たのだから、これは「侵略」ではない、といいたいのかもしれない。

 『条約による駐兵は侵略ではない』

 これはこのシリーズの冒頭でも扱った「詭弁」である。
その2「道化者」田母神の「歴史認識」の危険性 
「条約によらない軍事駐留」と侵略を同義に置く粗雑な詭弁>の項参照のこと。http://www.inaco.co.jp/isaac/back/023-2/023-2.htm


 義和団運動(義和団事件)は、アヘン戦争以来侵略を受け続けてきた中国人の、反植民地運動だった。その半植民地運動が列強の軍事力の前に屈服させられ、結ばされた条約が「北京議定書」だった。「北京議定書」そのものが、侵略の結果なのだ。だから、その議定書の内容も中国にとっては屈辱的な内容だった。主な項目を取り出してみても、次のごとくである。

元利合計9億8000万両の賠償金。
(これは当時清国政府の年間歳入の10倍以上にあたる。)
関税・塩税など国家主権に属する課税権・徴税権の事実上の剥奪。
外交官特別区を設定して、治外法権地域を設定。
駐兵権の獲得。

 だから「北京議定書」があるから侵略ではない、なのではなく、北京議定書の内容自体が「侵略」だったことを立証している。


21ヶ条の要求の中身

 「21箇条の要求」に至ってはもっと非道い内容だ。

  これで田母神は何を言いたいのかというと、「21ヶ条の要求」は、列強が帝国主義的侵略を行っていた当時としてはさほど無理な要求ではなかった、中国とも話し合いの末合意した、これを侵略ということはできない、ということだろう。

 田母神が自身で「21ヶ条の要求」について研究したとは思えないし、恐らく誰かに教え込まれたことを中途半端に書いたのだろう。大体田母神自身は「21ヶ条の要求」自体を読んだこともないだろう。

 つまり彼はこの時日本が中国に対してなにを要求し、その結果がどうなったかが全くわかっていない。それは構わない。問題は田母神がラウド・スピーカー代わりに使われ、田母神自身も理解していない「歴史認識」が、その狙いと共に日本の社会にばらまかれ、それが澱のように沈殿していくことだ。

 インターネットで日本語全文の読めるサイトは今のところない。日本語Wikipediaでも「対華21ヶ条要求」の項http://ja.wikipedia.org/wiki/対華21ヶ条要求は非常にわかりにくい内容となっている。

 英語Wikipediaでは日本語Wikipediaよりもはるかに科学的な記述がなされている。項目名は「Twenty-One Demands」(http://en.wikipedia.org/wiki/Twenty-One_Demands ) また「First World War.com 」というサイトでは英文だがこの21ヶ条の要求そのものを英文全文テキストで読める。http://www.firstworldwar.com/source/21demands.htm

 私は、何度も引用している岩波新書「中国近現代史」のP76―P77から引用することにする。「21ヶ条の要求」は、5つのグループに分かれている。

第一号 山東権益。山東省における権益に関して日本とドイツが協定を結んだ場合中国政府はすべて承認すること。
第二号 南満州・東部内蒙古における日本の優先権。旅順・大連及び南満州鉄道の租借権期限の延長、日本人の居住・営業の自由、不動産取得権、鉱山採掘権を認めること。
第三号 漢冶萍公司の合弁、同公司を将来日中両国の合弁とすること。その資産及び採掘権を保全すること。』

 上記のうち山東省の権益は、第一次世界大戦が勃発するとすぐに、ドイツに対して宣戦を布告し、青島を始め、帝国主義日本がドイツから奪取したものである。また満州・東部内モンゴルの権益は、日露戦争の結果ロシアから得たものとその後ロシアとの密約で両国間で認め合ったものである。

 それに対して第三号の「漢冶萍公司」(かんやひょうこうし)とは一体何なのか。山東半島でもない、満州・東部内モンゴルでもない、漢冶萍公司がなぜここで出てくるのか?

 漢冶萍公司は現在の湖北省武漢市・漢陽にある製鉄会社である。同じく湖北省の大冶<たいや>の鉄鉱、江西省の萍郷<へいきょう>の石炭をそれぞれ原料とする一種の鉄鋼コンビナートだ。「漢冶萍」の名前は「漢陽」「大冶」「萍郷」の3つの地名をとってつけられたものだそうだ。<http://www.tabiken.com/history/doc/E/E108L100.HTM>

この製鉄会社は、清末に、清国の近代化事業の一環として設立された。日本が漢冶萍公司と関わりを持つようになったのは、辛亥革命の時、破壊された同社を日本の借款で復興させた時である。つまり日本はこの漢冶萍公司に復興資金を貸しただけの関係だ。もちろん将来は自分の傘下に収めようという意図があったわけだが、その意図が「21ヶ条の要求」の中の第三号として潜り込ませてあったというわけだ。

  『 第四号 領土不割譲。 中国沿岸の港湾を他国に譲渡・貸与しないこと。』

この項目も山東半島・「満蒙」に限る話ではない。中国全体に及ぶ話だ。ここまで一号から四号までが日本政府の言葉を借りれば「要求」事項で、次の第五号は、日本政府は「要求」ではなく「希望」だと称した。先ほどの「First World War.com 」の英語表現では、「要求」は「demand」、「希望」は「request」と訳してある。あとで見る日本政府の最後通牒でも言うように「要求」とは、認められなければ「戦争に訴える」という意味であり、「希望」とは「戦争まではしない」という意味であった。


中国の保護国化を狙う「希望条項」

 それではどんな項目が「希望」だったのか?6項目ある。

@ 中国政府は日本人の政治・財政・軍事顧問を雇うこと。
A 必要な地方の警察を日中合同とするか、警察に日本人を雇うこと。
B 兵器は日本に供給を仰ぐか、日中合弁の兵器工場をつくること。
C 華中・華南にも日本の鉄道敷設権を認めること。
D 福建省の運輸施設に対する日本資本の優先権。
E 日本人の布教権を承認すること。』

 ここで福建省が唐突に出てくるように見えるが、これは地図を思い描いてみるとわかりやすい。日本が日清戦争で清から奪った台湾のちょうど対岸が福建省だ。つまり台湾を足がかりにしても大陸に進出しようという露骨なまでの侵略意図である。

 特に五号「希望条項」は、もしこのまま話が通れば、事実上中国は日本の保護国となるに等しい。こんな「希望」が叶えられるはずがない。

 また同じ帝国主義侵略国である「列強」からしても、日露戦争でやっと南満州の一部権益を得たばかりで、第一次大戦中のどさくさに山東半島を攻略しただけの日本が、これだけの要求を出すのは行き過ぎだと感じた。

 後でも見るように第一次世界大戦後、日中戦争が始まるまで、アメリカ帝国主義主導の「ワシントン体制」は、満州における日本の特殊権益は承認するが、その他の「中国市場」は「門戸開放」「機会均等」、すなわちどこか特別な国の特殊権益はみとめませんよ、ということだった。

田母神は、
この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。』
と書いているが、これがおかしいと思う、思わないは田母神やその背後にいる「被害妄想史観」の学者グループの勝手なのであって、『列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして』もこれらの要求は過大で、「おかしかった」のである。つまりやり過ぎだったのである。

(* インターネットで読んでいると、時々ブログの中に、『この5号条項は、中国側に秘密条項にして欲しいという要望をしていたのに、これを袁世凱は列強に暴露するといった、不誠実な態度をとった。』と憤慨している記述にお目にかかる。これは当時日本の主流の現実認識だが、この当時の現実認識をそっくりそのまま、現在の自分の歴史認識にしている。

しかし、よく考えて欲しい。これは暴力団かテロリストの自分勝手な屁理屈ではないか?

 『 警察や世間には黙っていろ、といったのにお前はバラした。この落とし前はつけてやるぞ。』)

 特に第五号は、帝国主義列強にとっても重大問題である。このままでは中国全体が日本の保護国になってしまう・・・。

 従って五号「希望」条項は列強の猛反対にあった。従って日本も取り下げざるを得なかった。

 田母神は『中国の言い分もいれて』と書いているのは恐らくこのことだろう。といって田母神がここまで理解して書いているとは到底思えない。「中国側の言い分も入れた」という誰かの受け売りか、頭に刷り込まれたことを消化不良の理解のまま書いているのだと思う。


列強の反対は列強自身のため

 というのは、田母神の文章全体におかしな「トーン」があるからだ。たとえば、『袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。』という箇所である。

 「対華21箇条の要求について合意」とは、余りお目にかからない表現である。「中国は21ヶ条の一部を要求を受け入れた。」とか、「21ヶ条の要求に基づいて“「山東省に関する条約」”などが締結された。」とか書くはずである。

 1915年1月大隈重信内閣の「21ヶ条の要求」から5月の最後通牒、それから連続して起きる、一連の条約締結と両国公文交換、までをたどった人間なら、「対華21箇条の要求について合意」という表現には異和感を覚えると思う。

 これは私の全くの推測だが、田母神は「21ヶ条の要求」がそれぞれ部分的に手直しされて、最終的に中国と「合意」したと思いこんでいるのではないか。

 そうでなければ、上記の表現は生まれないと思う。

 確認しておきたいは、列強がこの第五号「希望」条項に猛反発したのは、決して中国や中国人民のためだったのではないことだ。あくまでそれぞれの帝国主義が中国を侵略するにあたって、この第五号「希望」条項が大きな障害になるからである。

 日本の大隈政府と中国の袁世凱政府の交渉は25回にも及んだという。<関連資料>21ヶ条の要求に対する日本政府の最後通牒を参照のこと。)
 
 この間両政府がお互いに譲歩し合ったのかというと、そうでもない。袁世凱政府はすくなくともアメリカなどとの列強とこの問題を相談し合った節があるし、両者の妥協点といえば、第五号「希望」条項を取り下げるという点だけだった。今からみれば、袁世凱政府は欧米帝国主義列強を背景にして、帝国主義日本と交渉をしていたわけだ。

 後にこの「21ヶ条の要求」を一つの重大な伏線として、『5・4運動』という一大民族主義運動が起きるわけだが、『5・4運動』における中国人民の怒りが、直接圧迫を加えてくる帝国主義日本に向けられていると同時に、この帝国主義日本に弱腰だった袁世凱政府にも向けられる。この中国人民の怒りをもう少し詳しく分析してみると、袁世凱政府に対する怒りは、欧米列強ばかりを頼りにする姿勢に対して、なぜもっと中国人民に依拠し、頼りにしなかったのかという怒りでもあったのではないかと思う。

 もともと帝政復辟を狙う袁世凱政権であってみれば、袁世凱政権に人民に依拠する姿勢を求めることは無理な相談ではあったが、袁世凱政府が、21ヶ条の要求を挟んで帝国主義日本に対決する際、中国人民の力を過小評価した点は、帝国主義日本も全く同様であった。

 帝国主義日本は、その後も、1945年の敗戦までのどの時期に置いても、歴史を動かす力としての「中国人民の力」を正当に評価したことは一度もなかった。それが彼らの一貫した「現状認識」であった。

この全く不当な「現状認識」が、彼ら帝国主義日本を惨めな敗北に導いていく重要な要素になるわけだが、戦後60年以上も経っている今日からみれば、この「現状認識」は、今日田母神やその背後に隠れている学者・研究者府ループの、現在における「歴史認識」ということになる。

 「田母神論文」を貫く一大特徴は、その「歴史認識」が、例えばこの「21ヶ条の要求」の時の、大隈政府、すなわち当時の帝国主義日本の「現状認識」とそっくりうり二つであると言う点だ。すなわち「歴史を動かす原動力」としての中国人民の力を全く見落としている。

 結局、この時の袁世凱政府も、大隈重信政府も、片眼で帝国主義列強の動向を睨みながら、また中国人民の力を全く見落としつつ、「交渉」は膠着状態にはいった。


先にじれた帝国主義日本

 先にじれたのは帝国主義日本である。帝国主義日本が、もともと要求している中国における権益が、第一次世界大戦のどさくさがあって初めて獲得できる性質のものである。ヨーロッパの戦乱が収まってしまえば「火事場泥棒」できなくなる。逆に袁世凱政府にとっては、「交渉」が長引けば長引くほど有利、ということでもある。

 こうして、1915年5月7日の最後通牒となるわけである。田母神が書いているように、「中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。」という成り行きではなかったのである。

 その帝国主義日本の焦りぶりは、5月7日の最後通牒の文面の中によく表れている。

 最後通牒<関連資料>21ヶ条の要求に対する日本政府の最後通牒を参照のこと。)は、

本年1月我提案を支那政府に申入れてより以来、今日に至るまで胸襟を披き支那政府と会議すること実に二十有五回を重ねたり。』

 と、一見日中両国が腹蔵なく話し合ってきたかのような印象を与えつつ、

帝国政府の修正案に対し、5月1日を以て支那政府の興へたる回答は全然帝国政府の豫期に反するものにして、啻(ただ)に該案に対し誠意ある研究を加えたるの痕を示さざるのみならず、膠州湾還附に関する帝国政府の苦哀と好意とに対しては殆ど一顧の労をも興へさるものなり。』

 と袁世凱政府に対して不満を述べる。特にドイツから奪った権益、「膠州湾」「山東半島」に関しては全く歩み寄らなかった。後のいきさつから見て、この袁世凱政府の姿勢には、当然列強の支持があったと見ることができ、これが袁世凱政府に強硬姿勢を取らせたと見ることができる。

 ここで日本政府がいっていることは、「ドイツから奪った権益についても、適当なときに、中国に返還する、というところまで譲歩してやったのに、その好意も全く評価していない。」ということだ。

 しかし袁世凱政府もその手には乗らない。いったん取り上げたものを強欲日本がやすやすと返還するわけはない。だから当然突っぱねる。
 
 それに対する、日本政府の言い分は恨みがましい上に、恩着せがましい。

元来膠州湾の地たる商業上軍事上実に東亜に於ける一要地にして、之を獲得するか為に日本帝国の費したる血と財との数少ならざることは言を俟たざるなり。而して既に一度之を我手に収めたる以上は敢て支那に還附するの義務毫も之なきに鉤らす、進て之を還附せむとするは誠に将来に於ける帝国国交の親善を思へはなり然るに支那政府の苦心を諒とせさるは実に帝国政府の遺憾禁する能はさる所なり。』

 「膠州湾は実に重要な地である。ここを日本帝国は自分の血と費用で獲得したのであって、本来中国に返す義務は全くない。それを親切に将来返す、とまでいってやっているのに、この親切心がわからないのか。」というくだりである。

 読んでいるこちらの頭がおかしくなりそうな文面である。なにか「膠州湾」は中国の外にあって、朝鮮かどこかにあって、それをドイツから取り戻してやったのか、と勘違いしそうな文面だ。

しかし大隈政府の誰がこんな文章を書いたのだろうか?恥さらしもいいところである。品性下劣という他はない。)


厚かましい「満蒙権益」に関する主張

翻って帝国政府の修正中、他の条項に対する支那政府の回答に就て考ふるも、素と南満州及東部内蒙古の地たる地理上政治上、将た商工業の利害上、帝国の特殊関係を有する地域たるは、中外の認むる所にして、此関係は実に帝国か前後2回の戦役を経たるによりて、特に深きを致したるものとす。』

 ここは南満洲及び東部内蒙古(内モンゴル)の権益に関するくだりである。

 南満州と内モンゴルで日本が特殊な権益を持っていることは、列強も中国もすでに認めている、と主張している箇所である。

 しかし、この時点で、帝国主義日本が、満蒙の権益に関して「帝国の特殊関係を有する地域たるは、中外の認むる所にして」というのは、いかに何でも厚かましくないか?

 というのは、この時日露戦争で認めさせたのはやっと南満州鉄道の経営権やその附属地の租借権、あるいは旅順・大連など遼東半島における租借権であって、これを満蒙全体に拡大し、その権益を列強、中国に認めさせようというのが、日露協商後の課題であった筈だし、その意味で列強も中国もまだ、満蒙びおける日本の特殊権益は認めていなかった筈だ。

 だからこそ、これを早く法的に認めさせようというのが、今回の21ヶ条要求の基本骨子である。それを、「中外の認むる所」というのは言い過ぎである。中国からすれば「夜郎自大」な言い分ということになる。

 しかし帝国主義日本は一刻も早く、この件を片づけたかった。だから次のような文章になるのである。

帝国政府は此勧告に対支那政府より来る5月9日午後6時迄に満足なる回答に接せむことを期待す。右期日迄に満足なる回答を受領せさるときは帝国政府は素の必要と認むる手段を執るべきことを併せて茲に聲明す。』

 これが最後通牒の結びである。要するにこれ以上時間をかけられない。5月9日午後6時までに最終提案に対して同意の回答を寄越せ、もしそうでなければ、『帝国政府は素の必要と認むる手段を執るべきことを併せて茲に聲明す。』と武力に訴えてでも、認めさせるぞ、と凄むのである。

 この帝国主義日本の強気、強硬姿勢と取る事もできるが、実はそうではない。、一刻も早く決着をつけたいとする、焦りである。

 袁世凱政府は、武力に訴えられては勝ち目はない、ヨーロッパ戦線で忙しい帝国主義列強もそこまでは肩入れしてくれない、万事休すで全面的に日本側の最終的な言い分に屈服するのである。

 しかし、「21ヶ条の要求」で帝国主義日本が、最終的に手に入れた成果は、「帝国主義的成果」としても、いかにも割りが悪かった。

 中国人民の「反帝国主義闘争」の矛先は、それまで主として、もっとも嫌らしく露骨な侵略を繰り返してきたイギリスに向かっていた。ところが、この21ヶ条の要求を挟んで、パリ講和会議が完全にウィルソンの14ヶ条の原則を裏切ると、中国人民の「反帝国主義闘争」の矛先は、はっきりイギリスよりも日本へと向かうのである。

 それは日本人民の立場でみても、帝国主義日本の立場で見ても、はかり知れない損失であった。

 しかし、中国人民の力を過小評価してきた帝国主義日本は、中国人民を敵に回すことが「計り知れない損失」であることを遂に認識しなかった。そしてその認識は1945年の敗戦まで続くのである。

 余談とはなるが、敗戦の後も、田母神を生み出した日本の支配層は、中国人民の歴史を動かす力を正当に評価してきたかというと、そうは言い難い。それは、戦後も対中国政策の数々の誤りの原因となり、現在も続いている。

田母神は、『また1915年には袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとかいう人がいるが、』と書いていたことをご記憶のことだろう。

最初、私は田母神が何を言っているのか分からなかった。「21ヶ条要求」が中国侵略の始まりだ、と言っている人はまともな歴史学者であれば、まずいないだろう。日清戦争で台湾を奪った時、あるいは日露戦争でロシアから中国における権益を譲り受けた時を侵略の始まりするのが、常識的なところだ。

しかし、田母神の知識や認識が誰かに教え込まれたことを、消化不良に彼が理解している、ということが分かった今、なぜ彼がこう書いたか説明ができる。

つまり、「21ヶ条の要求」後、帝国主義日本は、中国人民の反帝国主義運動の矢面に立つ。その後中国人民にとって「反帝」とは「反日」「抗日」と同義になる。田母神はこの話を何かで読むか、誰かに聞くかして、生半可な理解をした、それで「これを中国侵略の始まりとか言う人がいる」という記述になったのだ。田母神は日本が「中国侵略をはじめたこと」と「中国人民の矢面に立ったこと」を混同しているのだ。)


「21ヶ条の要求」の貧しい成果

 ともかく、「21ヶ条の要求」「最後通牒」を経て日本の帝国主義が手に入れた「成果」の中身を見てみよう。

 1915年(大正4年)5月7日の最後通告から、いろんな案件に関して日中間で、文書による合意が、遅くとも6月の初旬までにはできあがっていく。

(* なお満州は本来「満洲」と書くべきである。満洲は本来地名ではない。満洲は満洲族なり満洲人なり本来民族グループを指す言葉だ。しかし私は慣用的に「満州」と表記しており、この後もそうしている。)

 文書別に見ると次の13本である。(順序は外務省の公開文書順。番号は私が便宜のためにつけた。詳細は<関連資料> 21ヶ条条約 1915年5月を参照のこと。)

1. 「山東省に関する条約」
2. 「山東省に於ける都市開放に関する交換公文」
3. 「南満洲及東部内蒙古に関する条約」
4. 「旅順大連の租借期限並に南満洲鉄道及安奉鉄道の期限に関する交換公文」
5. 「東部内蒙古に於ける都市開放に関する交換公文」
6. 「南満洲における鉱山採掘件権に関する交換公文」
7. 「南満洲及東部内蒙古に於ける鉄道又は各種税課に対する借款に関する交換公文」
8. 「南満洲に於ける外国顧問教官に関する交換公文」
9. 「南満洲及東部内蒙古に関する条約第二条に規定する商租の解釈に関する交換公文」
10. 「南満洲及東部内蒙古に関する条約第五条に規定する日本国臣民の服従すべき察法令及税課の決定に関する交換公文」
11. 「漢冶萍公司に関する交換公文」
12. 「膠洲湾租借地に関する交換公文」
13. 「福建省に関する交換公文」

 以上の13本の中で、帝国主義日本にとってもっとも緊急かつ重要だったのが『3.「南満洲及東部内蒙古に関する条約」』だった。

 最後通牒の中で、「満蒙における日本の権益は誰しも認めるところ」と豪語した大隈政府だったが、その満蒙における既得権益も実は盤石ではなかった。

 南満州鉄道の経営権にしても、旅順・大連の租借権にしても、ロシアと清国の条約を引き継いだもので、そのロシアの租借期限は25カ年であり、日本のその租借期限ごと引き継いでいたから、上記の「特殊権益」の期限も実は25年だった。だからそのままほっておくと租借期限がまもなく切れて、南満州鉄道や旅順・大連も中国に返さなくてならなくなる。だから帝国主義日本はこの租借期限延長の機会をずっとうかがっていたのである。


末広重雄の安堵

 この問題を、京都帝国大学教授・末広重雄は、1915年(大正4年)5月14日・15日付けの大阪朝日新聞で、「南満洲及東部内蒙古に関する条約」が成立するのを見届けるようにして、次のように語っている。やや長くなるかも知れないが、引用する。

 
 日露戦争の結果南満洲は我が勢力範囲となったが、従来其実を挙ぐる事の障害となったものが二つあった。

 其一は南満洲に於て有する我が重大な権利、勢力範囲の根帯ともなる可き権利の薄弱なる事であった。関東州(*これは遼東半島の租借のこと)は日露講和条約第五条に依って、露国より租借権を譲受けたものである。露国は此地を・・・調印の日より二十五年を期限として、租借して居たものであって、我が国は露国の権利を其儘、継承したのであるから、千九百二十三年(*1923年)即ち大正十二年に租借期間が満了となる筈であった。

 南満洲に於ける我が最大の利益たる、南満洲鉄道及該鉄道に属し、又は其利益の為に経営せらるる一切の炭鉱は、日露講和条約第六条に依って露国より譲受けたもので、・・・該鉄道は運転開始の日より、・・・、三十六年の後支那政府が、代金を支払うて之を回収するの権利があり、八十年後には代金を支払う事を要せずして、支那の有に帰する事となって居た。・・・其権利丈は疑なく存して居った。

 更に日露戦争中我が国が、軍事上の目的の為安東県(*現在の丹東)奉天間に敷設した狭軌鉄道(*安奉線)は、・・・は工事完成の日より起算して十五年、即ち大正十五年(*1924年)に支那政府に売渡すべきものであった。

 以上説明するところに依って明かなる如く、関東州の租借期間は余すところ僅に八年、安奉鉄道は十一年、南満洲鉄道は二十四年後に期限が来るのである。 

 即ち関東州と之に附帯して二つの鉄道の期限は、何れも久しからずして到来することになって居たから、南満洲に於ける我が国の地位は甚だ不安のものであった。

 ・・・日露戦争という大戦争を為し、大犠牲を供して漸く獲得したる権利を、むざむざ返すことは国民の忍ぶ能わざるところ、好機会に乗じて租借継続の交渉を為すべき事は、関東州を得て以来我が当局者が寸時も注意を怠らなかったところである。

 関東州許りではない。同じく戦争の獲物である南満洲鉄道及安奉鉄道も失ってはならぬ。此れ亦何人も期間延長の必要を感じて居たのである。

 十年目にして待ち構えた機会は到来した。列強は今や未曾有の大戦争の為、到底極東を顧みるの暇がない、若し此の大戦争起らざりせば、或は我が国は関東州租借期間満了の時迄に、交渉の好機会を得なかったやも知れぬ、実に我が国は天佑なりと云わねばならぬ。

 ・・・是に於て我が国の南満洲に於ける地位は、極めて鞏固のものとなった。南満洲に対する我が国民の不安を省き、其発展に対する障害は除去された。』

<参考資料> 南満州における2つの障害 末広重雄談 1915年 大阪朝日新聞を参照のこと。)


 なんとも帝国主義的侵略イデオロギーむき出しの議論であるが、田母神的「被害妄想史観」学者・研究者の、「白を黒と言いくるめる」ような、詭弁論法よりも、率直なだけにまだましというべきであろう。

 末広のこの談話は、南満州の権益が何とか守られたことにホッとしている当時の、帝国主義日本の雰囲気をよく代表している。

 確かに軍事力で恫喝して無理矢理結ばせたこの条約(「南満洲及東部内蒙古に関する条約」)では次のように謳っている。

第一条 両締結国は旅順大連の租借期限並南満州鉄道及安奉鉄道に関する期限を何れも99箇年に延長すべきことを約す。
第二条 日本国臣民は南満州に於いて各種商工業上の建物を建設する為又は農業を経営する為必要なる土地を商租することを得。
(* 当時の言葉で借地権のことを商租権といったが、日本人が土地を借り、その地で営業行為や農業を営むことは、やがて治外法権、警察権、行政権の獲得につながり、商租権獲得は重要な第一歩であった。)
第三条 日本国臣民は南満州に於いて自由に居住往来し各種の商工業その他の業務に従事することを得。
第四条 日本国臣民が東部内蒙古に於いて支那国国民と合辯に依り農業及附随工業の経営を為さむとするときは支那国政府之を承認すべし。
第七条  支那国政府は従来支那国と各外国資本家との間に締結したる鉄道借款契約規定事項を標準と為し、速に吉長鉄道に関する諸協約並契約の根本的改訂を行うべきことを約す。
(* 吉長鉄道は、吉林と長春間の鉄道。毎日新聞1917年=大正6年5月の記事を読むと、吉長鉄道は商議がまとまったので、次は吉会鉄道だとしている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?
METAID=00099288&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
>帝国主義的野望はとどまることをしらない。)
将来支那国政府に於いて鉄道借款事項に関し外国資本に封し、現在の各鉄道借款契約に比し有利なる条件を附興したるときは日本国の希望により更に前記吉長鉄道借款契約の改訂を行ふべし。』

 まさにがんじがらめで、外国の勢力が一切入ってこられないような規定を設けたのである。


なんともいじましい交換公文

 ただ、第一条の租借権延長は、よほど心配だったと見えて別途に交換公文(「旅順大連の租借期限並に南満洲鉄道及安奉鉄道の期限に関する交換公文」)を交わし、解釈の余地を許さない形で念押しをしている。

 その交換公文では次のように言う。

旅順大連租借期限の延長は民国86年即西暦1997年に至り満期となり、南満州鉄道還附期限は民国91年即西暦2002年に至り満期と可相成。尚其の条約第12条に記載せる運輸開始の日より36年の後支那国政府に於いて買戻すを得るの一箇は之を無効とすべく又安奉鉄道の期限は民国96年即西暦2007年に至り満期と可相成候。』

 先の条約第一条で99カ年の延長、というだけでは不安でこの交換公文で、延長期限の確認を一つ一つ行っている。なんともいじましい限りである。

 この時、結ばれた条約或いは交換公文は合計13本だった。権益種類別にすると、「満州及び内モンゴル関連8本」「山東省関連3本」「その他2本」となる。

 「その他2本」のうち、漢冶萍公司に関する交換公文は、「もし将来的に、漢冶萍公司が日本の資本家との合弁事業になる時にはそれを承認すること。」と「日本以外の外国資本との合弁にしないこと。」だけが内容である。

 漢冶萍公司は現在の湖北省武漢市・漢陽にある製鉄会社。同じく湖北省の大冶<たいや>の鉄鉱、江西省の萍郷<へいきょう>の石炭をそれぞれ原料とする。「漢冶萍」の名前は「漢陽」「大冶」「萍郷」の3つの地名をとってつけられている。
 
場所も満州ではなく、湖北省だから“華中”とも言うべきで、この21ヶ条の要求の中にでてくるのは随分唐突な感じもする。逆にそれだけ帝国主義日本の執着も強く感じさせる。


漢冶萍公司に対する執着

 しかし、大阪朝日新聞の1916年(大正5年)1月16日・17日付け「社説」記事<関連資料> 漢冶萍公司について 大阪朝日新聞社説 1916年を読むと、その執着もわかるような気がする。

 漢冶萍公司の魅力は大冶の鉄鉱石にある。ほとんど無尽蔵とも思える埋蔵量に加えて、その鉄鉱石の純度の高さは65%と言われた。スエーデンが60%、アメリカでも55%、ドイツで50%、イギリスで40%、世界の平均が35%と言われていた中での「純度65%」である。

 この大冶鉱山に最初に目をつけたのがドイツ、その後ベルギーの資本、アメリカの資本など列強がこの鉱山に融資をしたがった。そうした列強を押しわけるようにして日本が融資に成功したのが、辛亥革命後である。

 この記事が書かれた大正5年(1916年)当時、興業銀行、横浜正金銀行、三井合名合わせて、3000万円に上り、しかも新たに1500万円の新規借款を実行しようと言うところだった。しかも年利6%から8%という好条件である。

 それだけではない。大冶の鉄鉱石は、大正4年(1915年)、日本の八幡製鉄所に25万トン、北海道の北海道輪西製鋼所に5万トン、計30万トンも輸出されていた。大冶から漢陽の製鉄所への出荷が年間30万トンだったから、日本がいかに大冶に依存していたかがわかる。

 先の大阪朝日新聞の社説は、「侵略的手段を弄して、中国との経済関係を結べば必ず中国人民の反発を受けるので下策である。漢冶萍公司への進出は、これまで相互互恵に基づいて実施してきた。だから日本への反発は少ない。それは華北や満州に較べると驚くほどである。こうした進出を遂げれば、必ず欧米帝国主義を排除して、日本が漢冶萍公司の重要なパートナーになるであろう。漢冶萍公司を失ってはならない。」と至極まっとうな主張を展開している。

 しかし、「21ヶ条の要求」で強圧的に「漢冶萍公司」の排他的権利を主張するようでは、相互互恵に基づく対等な経済関係は実現できるはずもない。その後の展開は、結局日本資本は、漢冶萍公司の重要なパートナーになることはできず、後に軍隊を進めて強奪することになるのである。


奇妙奇天烈な交換公文

 もう1本の交換公文は実に奇妙奇天烈である。短いので引用しよう。
聞く所によれば支那国政府は福建省沿岸地方に於いて外国に造船所軍用貯炭所海軍根拠地其の他一切の軍事上の施設を為すことを許し又支那自ら外資を借入れ前記各施設を行はむとするか如き意志ある趣なるか支那国政府に於いては果して斯かる意志を有せらるるや否や御回答を得度』

 要するに、
中国政府は、福建省沿岸で、日本以外の外国の軍隊の軍事基地を設置することを許すと聞いている。また中国が日本以外の外国から金を借りて中国自身の海軍軍事基地を設置するとも聞いている。これは事実かどうか確認したい。」
 というのが、この交換公文の内容だ。

 私はもちろん外交文書の専門家ではないから、こんな外交文書が一般的なのかどうかはわからない。が、「かくかくしかじかと聞いたが本当か?」という内容の外交文書はいかにも奇妙である。

 この内容は「21ヶ条要求」の第五号、いわゆる希望条項の一部、すなわち「D福建省の運輸施設に対する日本資本の優先権。」の承認の要求と重なっている。第五号条項は項目ごと、すっぱり引っ込めたはずだが、実はこうした形で交換公文に残したわけである。

 この「質問」に対して中国側は「事実無根」と回答を返しているが、大隈政府としては、福建省沿岸に日本以外の外国の軍事基地を設置しない、という言質をとったというところだろう。しかしあまり効力はなさそうだ。質問の時点での事実確認をしたのに対して、「その時点」では「事実無根」と回答しているだけで、その後話があった、といえばいくらでも理由がつくからである。

 大隈政府としては、「将来外国の海軍基地や外国から借款をしての中国海軍基地を設置しない。」という内容にしたかったのだろうが、それでは福建省における日本の優先権を認めることになり、五号条項撤回の趣旨に反し、後で欧米帝国主義列強の反発を招く。それは避けたい、しかし何らかの言質はとって置きたい、ということで先のような奇妙奇天烈な交換公文となったものと思われる。


山東省に関する権益も失う

 こうして見ていくと、満蒙関係以外で有効性のある内容をもっている条約は「山東省に関する条約」だけということになる。

 この条約の骨子は、山東省でドイツがもっていた権益はそのまま日本が引きつくが、中国はそれを承認すること、と言う点につきる。

 しかし、この山東省における帝国主義日本の権益も、その後のワシントン体制の中であっさりひっくりかえされる。

 すなわち1922年(大正11年)2月の「山東省懸案解決に関する条約」である。これは日本政府と中華民国政府が締結した条約で、同年6月に発効した。この条約で日本は山東省におけるドイツから奪った権益、及び2条でいう鉄道権益を中国側に返還せざるを得なかった。次の日本語Wikipediaが比較的正確な記述をしている。
<http://ja.wikipedia.org/wiki/山東懸案解決に関する条約>

 これは中国が、日本と独自に締結した条約ではあるが、背後には当然帝国主義列強の強い意向が働いていた。というよりも前年1921年(大正10年)11月ワシントン会議で決定された「第一次世界大戦後の世界の枠組み」構築に沿った決定であり、「山東半島還付条約」だったということができるであろう。

 ワシントン会議では、まず重要なことは、それが戦後世界の主導権を握ったアメリカ帝国主義主導の会議であり、帝国主義間の戦後体制の政治的枠組み・軍事的枠組みが決定されたということだ。

 田母神は「ベルサイユ会議」に言及して、

しかし(*21ヶ条の要求から)4年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21ヶ条の要求に対する不満を述べることになる。』

と書いているが、ベルサイユ会議の本質は、露骨なまでの「対独賠償会議」である。戦後の枠組みのことはほとんど何も決まっていない。この時中国が述べたことは、「21ヶ条の要求」だけにとどまらず、中国の民族自決権の主張だ。しかも民族自決権の主張をしたのは中国だけではない。当時帝国主義列強の植民地侵略主義に苦しむ各国がみな主張したのである。しかし列強はまったくこれに耳を貸さなかった。当時「ウイルソンの14ヶ条の原則」演説に大いに励まされた植民地・半植民地諸国は、このベルサイユ会議の決定に激しく失望した。したがって中国も「ベルサイユ条約」に調印していなかった。従ってアメリカが中国の後押しをした、という田母神の認識は根底から間違っている。


ワシントン体制の本質

 アメリカ帝国主義主導の戦後体制は、1921年(大正10年)11月のワシントン会議でようやく決定する。この時会議では、海軍軍縮条約で主力艦米英日=5:5:3の比率が決まった。しかしこのことよりももっと重要な決定は、「四カ国条約の締結=太平洋島嶼に関する領土権の尊重、日米英仏の協調」、「日英同盟の終了」、「中国関税条約=一律従価5%関税、付加税2.5−5%を認める。」、「9カ国条約の締結=アメリカの『門戸開放』の主張に沿って中国の主権尊重、領土保全、列強の機会均等」が決定されたことである。

 9カ国は日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国であるが、この条約の趣旨は、それまで、イギリス・日本の独占状態になりかけていた中国市場を、それまでの既得権益を尊重しつつ、全体的には『門戸開放』をしようということだった。

 これで有利になるには、中国には出遅れていた帝国主義アメリカである。

 日本について言えば、満蒙における権益は認めるが、それ以外の中国では、列強帝国主義各国の機会均等が決定された。山東半島の権益は「日本の既得権」とは認められなかったのである。このことを条約化したのが、ワシントン会議からわずか4ヶ月後、1922年2月に締結された「山東省懸案解決に関する条約」だったのである。

 「アメリカに後押しされた中国」だの「日本の言い分を支持してくれたイギリス、フランス」だのは、田母神的「被害妄想史観」学者の無知・無理解からする「たわごと」である。

 もし山東省の権益を返還したくなかったら、少なくとも帝国主義日本は、第一次世界大戦後の帝国主義列強の世界支配体制の枠組み、すなわちワシントン体制から飛び出すことを覚悟しなければならなかった。しかし大正時代の帝国主義日本には、まだそれだけの度胸はなかった。言い換えれば、列強帝国主義国として思慮分別はもっていたということが言える。

 しかしそれだけに、帝国主義日本の内面では、「被害者意識」は強まっていったものと思われる。

 現在の田母神的「被害妄想史観」の学者や研究者グループにはその「被害者意識」が潜在記憶のように遺伝しているのだといえよう。


高橋亀吉の喝破

 ここでもう一度、1915年(大正4年)の「21ヶ条の要求」を振り返ってみよう。

 帝国主義日本は、中国人民の反発と敵意、列強帝国主義国の警戒心を買いながら、愚かな「21ヶ条の要求」を中国に突きつけた。その結果得たものは何か?

 こうして見てみると南満州における権益だけだったのである。

 その結果失ったものは何か?中国人民の信頼と友情である。おまけに列強帝国主義各国の信用も失った。日英同盟は、ワシントン体制と共に終了し、それから徐々に、帝国主義アメリカとは敵対関係に入っていく。

 帝国主義国としてみても、日本にとっては、割に合わない損得勘定だといえるだろう。この時の帝国主義日本は余りにも愚かだと思えるのである。

 「21ヶ条の要求」は、帝国主義国としてもあまりに愚劣だった、という感想は何も私だけの感想ではない。

 この事件(1915年=大正4年)から12年後といえば、ちょうど大正から昭和への境目になる。この間、帝国主義日本の中国侵略は、「ワシントン体制」の枠組みの中で、がんじがらめになり思い切った処置が取ることができなくて、いわば竦んだ状態になる。
 
 一方中国では、国民党と共産党との間に第一次国共合作が成立し、中国は「民族独立統一国家建設」に向かって、大きな一歩を踏み出したし、また1917年成立した、まだ「健全なソビエト・ロシア」は、この近代国家中国を全面的に「民族自決主義」の立場から強力に後押しする。

 その間日本は、「第一次大戦」の好景気もあだ花に終わり、世界恐慌に入る前にすでに昭和恐慌に突入していた。

 この時期、昭和2年(=1927年。昭和2年といっても、昭和元年は年末の1週間しかなかったのだから、ちょうど大正から昭和への替わり目になる)、当時にエコノミスト高橋亀吉は、「改造」3月号に次のような一文参考資料:「軍縮提議の経済的解釈と日本の立場 高橋亀吉」を参照のこと。)を寄せている。ここは当時のアメリカ大統領クーリッジの『補助艦建造制限に関する軍縮交渉に関する提案』に関する記述だ。なおこの「補助艦建造制限交渉」は後に、フーバー政権で「ロンドン軍縮交渉」として実現する。

 しかし乍ら、その故に然らば、日本は此の際軍縮そのものに反対すべきかというとそうではない。一体、今日の世の中に於いて、今日の日本の実力を以て、英米仏の如きと競争して、領土の「拡張」を企図することが全然間違っている。このことは対支21ヶ条の強要、シベリア出征の大失敗等によって、已に試験済みのことである。』

 この論文の中で高橋は、次のことを主張している。
1. 世界の帝国主義は、揺籃期ではなく確立期である。
2. 確立期において、日本のような遅れてきた資本主義国が軍事で領土拡張をすべきではない。それは必ず失敗をする。
3. 日本は帝国主義を越えた新しい価値基準と世界秩序確立に貢献すべきで、そのため朝鮮、台湾、南満州の権益を放棄すべきである。
4. 昭和恐慌に代表される日本の経済的行き詰まりを打開するにはこの方法しかない。

 この論文の中で、それでは高橋亀吉は、帝国主義的世界秩序に変わるあらたな「価値体系」とはなにかについて明示していない。というよりまだ出来ていなかったと言うべきであろう。またこの高橋の主張は、取りようによっては「大東亜共栄圏」を理論的に準備したものと考えることも出来る。しかし、恐らくはそうではないであろう。それは、「軍国主義によらない世界秩序」の確立を主張していること、そのためには、朝鮮、台湾、南満州の権益の放棄を主張していることでもわかる。

(* 実際には高橋亀吉は、その後経済政策家として、軍国主義日本の国家総動員体制の中に自らを組み込んでいくことになるのだが・・・。)


高橋には愚劣に見えた「21ヶ条の要求」

 その高橋から見ると、大隈政権の「21ヶ条の強要」(高橋はこの論文の中で「21ヶ条の要求」ではなく「強要」と書いている)やシベリア出兵などは、下の下策としか見えなかった。

 ここで私はふと「自虐史観」という言葉を思い出した。私などはこの「自虐史観そのもの」ということになるかも知れない。

 ところが私は自分で全然「自虐」だと思っていない。「自虐」とは自分で自分を虐め、苛むことだ。そこまで考えてやっと自分で気がついた。私は「帝国主義日本」を自分のこととは全然考えていないのだ。

 私は日本人であるし、日本人であることに誇りを持ちたいと思う。その私からして「帝国国主義日本」は、同じ日本という言葉を使っていながら、私とは縁もゆかりもないものと考えている。つまり「帝国主義日本」は、私にとって「自分」の範疇に全く入らない概念なのだ。

 つまり私にとって、同じ日本という言葉を使っていながら、「帝国主義日本」と信頼と友情を基本とする「平和主義日本」とは全く別物、あるいは対立概念として考えていることに自分で気がついた。

 もちろん私は「平和主義日本」の一員であることを自認し、その一員であることに誇りを持っている。その私にとって「帝国主義日本」は、自分のことどころか、徹底的に批判し去るべき「正面の敵」なのだ。だから帝国主義日本を批判することは私にとっては「自虐」どころか、「正面の敵に対する攻撃」なのだ。「自虐史観」どころか「帝国主義日本サディズム史観」と呼んでもらってもいい。

 一方「自虐史観」という言葉を使う人たちのことを考えてみよう。彼らは、「帝国主義日本」を批判することを何故「自虐」だと感じるのか?もう言うまでもないだろう。

 彼らは「帝国主義日本」のことを、「自分の味方」であり、「自分はその陣営に属している」という帰属意識がある。だからこれを批判することは「自分で自分を虐め、苛む」ことだと感じるのだろう。

 ところが「帝国主義日本」は私にとっては「抹殺さるべき敵」なのだ。

 彼らと私の間には、絶対越えがたい深い深い溝があるようだ。


迷惑顔の幣原喜重郎

 さて田母神は冒頭に引用した文章に続いて次のように書いている。

また我が国は蒋介石国民党との間との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36年後の蘆溝橋事件の時でさえ5600名にしかなっていない。「蘆溝橋事件の研究(秦郁彦 東京大学出版会)」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。』(文中カッコ、句読点はママ)

 上記文章で田母神が言っていることは、要するに「大陸進出は侵略ではなかった。常に対中融和外交だった」ということだろう。

 いろいろ問題点を含んだ文章だが、対中融和外交の証として「幣原外交」まで飛び出してくるのには驚いた。この男の一知半解としか表現のしようがない。

 幣原外交の本質は、列強帝国主義と正面衝突を避けつつ、中国大陸を列強と共に侵略してゆこうという政策だった。一時的だが、彼の見識は列強帝国主義を主導して行こう、という局面すら見て取れるのである。

 別な言い方をすれば、幣原外交とは、中国における権益を欧米帝国主義と共有し、その意味では、日本の帝国主義を世界の帝国主義体制の中にすっぽりと組み入れ、その安全保障体制の中で、よりリスクの小さい侵略の道を歩もうというものであった。
http://www.inaco.co.jp/isaac/back/023-8/023-8.htm 「幣原外交の本質」の項参照のこと。)

 しかし、大恐慌の前から深刻な不況に陥っていた日本の資本主義は、暴力的に大陸にはけ口を見つける他はなかった。そうして「幣原外交」を「軟弱外交」として否定するのである。そして列強と対決してまで「中国侵略」を推し進めようとする凶暴な天皇制ファシズム軍国主義が台頭する。これは一部軍部の独走ではない。追い詰められた日本の資本主義の究極の選択だったのである。

 血筋から言えば、我が田母神クンは明らかに「凶暴な天皇制ファシズム軍国主義」に属している。その田母神クンが、自身の正当化の根拠として、当時の論敵だった「幣原軟弱外交」を持ち出してくるから可笑しいのである。

ジェントルマンの幣原は決して私のように田母神を罵ったりはしない。しかし、あの世で「田母神君、私は君とは相当考え方が違っていると思うのだがね。できれば私を持ち出さないで欲しいね。」とはいっているだろう。)

 もっとも田母神は、自身の遺伝子がどこに由来しているかを理解することも、それに必要な知識も持ち合わせてはいない。頭に刷り込まれたことを脈絡なく並べているに過ぎないから、私にこういわれても目をパチクリするだけだろう。


来年の今頃は「田母神」は愚か者の代名詞

 『また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。』の記述にまともにとり合うつもりはない。ただ、いかに幼稚な文章であろうが、肝心な部分では論旨を一貫させて欲しいとは思う。

 というのは、田母神は前半の、ある部分で『日本の近衛文麿内閣は、「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促すため、今や断乎たる措置をとる」という声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争にひきずり込まれた被害者なのである。』と書いているからだ。

 この「日中戦争にひきずり込まれた。」時は、当然軍を進めたろう。軍を進めた時には、その都度「蒋介石国民党との間でも合意を得」たのか?

 そんなバカな話はあるまい。戦争の当の相手に軍の配置について「合意を得」るなどと言うことはあり得ない。
 
 こういう愚かしいことを得々と書くから、みんなにバカにされるのだ。「被害妄想史観」の連中にからだって、バカにされている。

 田母神クンは、今は講演会の依頼で忙しいようだが、来年の今頃までには必ず「愚かもの」の代名詞になる。


張作霖爆殺後の満州

1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36年後の蘆溝橋事件の時でさえ5600名にしかなっていない。「蘆溝橋事件の研究(秦郁彦 東京大学出版会)」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。』

 このまるでわけのわからない記述は、実は田母神の背後に隠れている「被害妄想史観」の学者グループや研究者グループのメッセージでもある。わけがわからない記述になってしまったのは、ひとえに田母神の理解力不足、彼の頭の悪さの結果であって、それだけにこの記述に対して、歴史的事実に基づいて反証をあげていくのは、骨の折れる仕事だ。

 この目的のためには、一度「帝国主義日本」の中国侵略の歴史とその侵略に対する中国人民の戦いに戻って見なければならない。

 それには1928年(昭和3年)の張作霖爆殺事件後の中国にもどってみるのが適切だと思える。

 歴史の専門的研究者ではない私にはうまく説明のつかない現象なのだが、私にとっては「21ヶ条の要求」事件を一つの節目と考え、また次の節目を「張作霖爆殺事件」に置いた方が、その後の「帝国主義日本」の中国侵略の歴史とその侵略に対する中国人民の戦いがスムースに理解もでき、説明もつくのである。

 このシリーズで見たように張作霖爆殺事件は、帝国主義日本の一つの大きな分かれ目であった。<http://www.inaco.co.jp/isaac/back/023-7/023-7.htm>参照のこと。)

 張作霖爆殺事件そのものは巨視的にみれば、偶発事態だったが、この事件が起きる直前、帝国主義日本が、その最大の懸案「満蒙問題の解決」に対して、取り得る方策には、大きく3つの方向があったように思う。

1. 満蒙直接統治 日本が朝鮮・台湾同様、満蒙を直接統治下におく方向である。この場合は、当時帝国主義列強の国際談合体制である「ワシントン体制」(あるいは国際連盟)の枠を飛び出し、帝国主義列強と直接の対立関係を覚悟しなければならない。また当時帝国主義日本の支配層はさほど重要視しなかったものの、中国人民の民族独立闘争との直接対決も避けられなかった。また本来的には、一致点・妥協点も多かった蒋介石国民党とも対決することになったはずである。
2. 満蒙傀儡統治 満蒙に傀儡政権を樹立し、傀儡政権を通じて支配し、収奪する方向である。支配と収奪の強さは、誰を傀儡とし、またどんな傀儡体制にするかによる。従って帝国主義列強との対決、蒋介石国民党との対決の程度は、誰を傀儡とするかによって決まる。だから誰を傀儡とするかは決定的に重要な問題だった。
3. 満蒙共同支配 列強の支持と支援の下に満蒙を実質共同支配していく道。この場合列国協調主義の枠内に止まることは保障されるし、蒋介石南京政府との軋轢も列強の圧力で押さえ込むことができたであろう。もっともリスクの小さい道ではあったが、最大の欠点は、満蒙における帝国主義日本の最大利益が保障されないことだろう。

 恐らく「幣原外交」は2と3の間のどこかにあったのだろうし、「田中外交」は1と2の間にあった。「石原莞爾」は1と2の間で、恐らく「田中外交」より1寄りにあったのだろう。

 従ってどの案にしても、誰を傀儡とするかは大きな問題だった。その傀儡政権の第1候補は張作霖だった。

 その張作霖を関東軍は爆殺してしまうのである。先に引用した「河本手記」(文藝春秋 昭和29年12月号)を信じれば、張作霖爆殺は単に河本大作の独断とはいえず、少なくとも関東軍全体の意志だった、と見ることができるし、少なくともその後の河本の処遇を考えれば、陸軍参謀本部も黙認していたと考えることもできる。

 つまりこの時点で、「張作霖傀儡絶対論」をやめた田中義一内閣の方針から、一歩進んで「張作霖不要論」になったわけだ。

 確かに帝国主義日本にとって、あくまで北京に進出し全中国に号令をかけようとする張作霖の方針は、この時期極めて危険極まりないものと映った。

 「21ヶ条の要求」事件で極めてはっきりしたように、帝国主義列強が帝国主義日本に認めた特殊権益地域は、南満州・東部内蒙古である。帝政ロシアが倒れ、社会主義ソ連が成立した当時としても、精々満州全体である。

 だから、「満蒙切り離し論」が台頭する。すなわち、帝国主義日本にとって、「国際列強社会」に対して権益を明確に主張できない「中国本部」と「満蒙」を切り離し、権益を明確に主張できる「満蒙」における支配体制をまず確立しようというのが基本戦略だ。

 この帝国主義日本の基本戦略と全中国に覇権を立てようとする張作霖の方針とは根本的に相容れない。張作霖を傀儡の頭首としていつまでも考えていると、
「満蒙切り離し」が実現できないばかりか、基礎固めが肝心な満州(つまり治安維持第一)にまで戦乱が及びかねない。

 こうして、「張作霖切り捨て政策」を採用し、合わせてこの混乱に乗じて一挙に軍事侵攻を行おうというのが「張作霖爆殺計画」だった。この時の関東軍の戦略は満州の傀儡は誰でもいい、なければなくてもいいという極めて乱暴な方針で、その意味では先ほどの方向(選択肢)の中の、「1.満州直接統治」に限りなく近いものだったといえよう。


張学良政権の意外性

 ところが、「張作霖爆殺」は思いもかけぬ方向へ事態を一挙に進めてしまうのである。「思いもかけぬ方向」とは表現したが、それはあくまで「関東軍」なり、日本の軍部にとっての「思いもかけぬ方向」なのであって、あくまで彼らの主観的思いこみ、言い換えれば「独善」がいかに強かったかの証拠でもある。

 古屋哲夫は「日中戦争」という本(岩波新書 85年6月5日 第2刷)の中で次のように書いている。

河本(*大作。張作霖爆殺事件の直接責任者)は爆殺事件につづく次の具体策を用意していたわけではなく、・・・この事件は、満蒙独立政権の樹立という関東軍の目標にとって、直接にはマイナスの効果をもたらした事は確かであった。国民革命(*これは蒋介石国民党の中国統一政策のことだろう。)から満蒙を切り離そうとする点では関東軍と共通の立場に立っていた田中外相(*首相田中義一のこと。田中は外相を兼任していたので古屋はこう書いた。)、事件後、張作霖の息子の張学良に対して、国民政府と妥協しないように圧力をかけたが、それも張学良の態度決定を数ヶ月引き延ばすことが出来ただけであった。』

 古屋が言っていることは、以下のことである。
1. 河本になにか次の手があって、張作霖を爆殺したわけではない。
2. 田中義一も手法の若干の違いがあるものの、張作霖の存在は邪魔になっており、「満蒙の切り離し政策」という点では、河本や関東軍と一致していた。
3. 張作霖の後の傀儡は、誰でもよかったが、とりあえず田中義一や関東軍は、張作霖の息子の張学良を想定していた。
4. その張学良に圧迫を加えたが、張学良は結局、国民政府の側についた。

 どうしてこんな事態になったのか?

 河本や関東軍は「張作霖爆殺事件」を起こして、どうしようとしていたのか?


惨めな失敗に終わった「爆殺」

 河本は惨めな失敗に終わったこの謀略の意図やその後の計画について多くを語らない。

 引用の「手記」ではわずかに次のように語っているだけである。

そして万一、奉天軍(*張作霖の軍隊)が兵を起こせば、張景恵が我方に内応して、奉天独立の軍を起こして、その後の満州事変が一気に起こる手筈もあったのだが、奉天派には賢明な蔵式毅がおって、血迷った奉天軍の行動を阻止し、日本軍との衝突を未然に防いで終わった。』

文中の張景恵は、もともと清朝の武官出身者で、辛亥革命が起こると袁世凱政府に参加し、その後張作霖の麾下に入り、奉天軍閥の重鎮の一人になる。のちに満州事変がおこり「満州国」が成立すると、関東軍に応じて「満州国」に参加し、「満州国総理大臣」に就任する。
<http://ja.wikipedia.org/wiki/張景恵> 

 張景恵のその後の軌跡とこの河本の記述とを重ね合わせれば、張作霖爆殺事件の直後からすでに関東軍に乗り換えていた、という推測は十分成り立つ。

 蔵式毅は、やはり奉天軍閥の重要人物で、この時奉天省長であり、事件収拾の直接最高責任者だった。

 ここで、河本は「その後の満州事変が一気に起こる手筈もあった」と書き、またやや悔しさをにじませながら「日本軍との衝突を未然に防いで終わった。」としている通り、張作霖爆殺で奉天軍が軍事行動を起こし、その軍事行動を口実に関東軍が介入し、一気に満州事変に発展させる計画だった。つまりこの事件の3年後に起こる「柳条湖事件」のリハーサルのような事件だった。

 河本は「血迷った奉天軍の行動を阻止し」と書いているが「血迷った」のは河本や関東軍の方であって、奉天軍は少しも血迷ってはいなかった。

 「爆殺」の現場に奉天軍を率いて駆けつけたのは、奉天警備司令黄慕将軍だった。

 この後は「張学良の昭和史最後の証言」(角川文庫)という本に従って、見てみよう。

奉天警備司令黄慕将軍は実は日本人であった。彼は日本名を荒木五郎といい、もともとは陸士27期卒の軍人であったが、大陸への雄飛を夢見て張作霖の軍事顧問になったのである。・・・荒木には、この事件が日本軍の陰謀であるとすぐに分かった。そこで、「奉天省では何人といえども戦わしめてはいけない。日本軍はおそらく機会をねらっている」と、奉天軍に発砲を禁じたという。

事実、河本の計画では、駆けつけた奉天軍との間で武力衝突を引き起こし、一気に南満州の占領を謀る手はずであった。』

 ここで私の頭は若干混乱に陥る。荒木五郎は、河本の「手記」にも出てくるのである。

 ・・・ただ万一、この爆破をこちらの計画と知って、兵でも差し向けて来た場合は、我が兵力に依らず、これを防ぐために、荒木五郎の組織している、奉天軍中の「模範隊」を荒木が指揮してこれにあたることとし、場内を堅めさせ、関東軍司令部のあった東拓前の中央広場は軍の主力が警備していた。』 

 河本の「手記」にある荒木五郎と「張学良の昭和史最後の証言」で出てくる黄慕将軍荒木五郎は同一人物なのか?恐らくそう考えざるを得まい。

まったく同一の局面で、まったく同一のテーマで同姓同名の人物が登場することはある。1945年8月の原爆投下前後、同じニューヨーク・タイムスの、同じ科学部の記者で二人のウイリアム・ローレンス記者がいた。一人は原爆礼賛報道でピューリッツア賞をとったウイリアム・L・ローレンス記者で、もう一人は原爆投下後の広島に入り、送稿しようとしてマッカーサー司令部の検閲に引っかかり、送稿できなかったウイリアム・H・ローレンス記者である。私は長いことこの二人の人物を同一人物と思いこんでいたので、内容の矛盾のために大混乱に陥っていた、そして別人物であることを発見した時には、一人で、口をアングリと開け、それから大笑いをした。それからこの二人を「善玉ローレンス」、「悪玉ローレンス」と区別することにした。だからこの荒木五郎も警戒心をもって当然である。しかし間違いなく同一人物である。
<http://d.hatena.ne.jp/maroon_lance/20080408/1207663825>

 もし「河本手記」と「学良証言」の記述を矛盾なく説明しようとすれば、何通りもの推測が生まれようが、それは枝葉末節だろう。要は「奉天軍では、荒木を含む冷静で賢い人たちが指導しており、ミエミエの関東軍の挑発行為に乗らなかった。」ことを確認しておけば十分だろう。


張学良の冷静な捌き方

  ここで、日中戦争史全体を通じて最も魅力的なキャラクター、毛沢東よりも、あの周恩来よりも魅力的なキャラクター、張学良が初めて登場する。

 歴史では、各時代各所にそれぞれ魅力的なキャラクターが、まるで神様の悪戯のように、忽然とあらわれる。そして誰にも出来ない大仕事をして、さっと消える。ちょうど幕末の坂本龍馬のような、震いつきたいほど魅力的なキャラクターだ。張学良はちょうどそうしたキャラクターだ。張学良に入れ込むと大脱線しそうなので、話を前に進めよう。

張学良は、1901年張作霖の長男として生まれた。若い頃から軍人としての才能は誰しも認めるところだった。張作霖爆殺事件の時にはまだ27歳かそこらだったことになる。この後1936年の西安事件の時に、上司であり尊敬していた蒋介石を監禁してまで国共合作を迫り、翌年第二次国共合作が成立、民族統一抗日戦線ができあがる。学良自身は、西安事件の直後、自ら進んで蒋介石に同行しそのまま歴史の表舞台から姿を消す。蒋介石は冷酷無惨に同胞や政敵を殺した男だが、張学良は殺さなかった。殺せなかった。学良はその後ずっと軟禁状態に置かれる。蒋介石は台湾逃亡の際にも学良を連れて行き、台湾で軟禁する。軟禁が解かれるのは1990年、学良の90歳の誕生日をきっかけとした時だった。この時学良は、日本のNHKの取材班の求めに応じて、インタビューに応じる。この時の学良の言葉は『日本の若い人と話がしたかった。』だった。その後学良はハワイに行き、そこで100歳の生涯を閉じる。日本語Wkipediaは比較的冷静な描写をしている。<http://ja.wikipedia.org/wiki/張学良>

 張学良は、爆殺時に北京にいた。自身の誕生日のパーティに出ていた時に、作霖の遭難をしらされる。しかし、当初は作霖がすでに死亡していたとは知らなかった。

 「張学良の昭和史最後の証言」によると、

私は父が死んだことを1週間ほど知りませんでした。部下が隠して教えてくれなかったのです。その時はただ、父が怪我をしたことを知っているだけでした。ですから私は北京から河北省の?州(*らんしゅう)に行き、軍隊を撤退させる任務を遂行しました。その任務を完了したときに、部下がやっと父が死んだことを教えてくれたのです。』
事件が関東軍の仕業だということは誰でも知っていました。それは公然の秘密でした。当時南満州鉄道には日本の軍人の他に、一体誰が近づくことができたでしょうか。ですから私は日本の軍人は嫌いなのです。この事件を仕組むために、日本は事前に南満州鉄道を一時止めたのです。他に誰が汽車をとめられるでしょうか。』

 と張学良は語った。

 張作霖の死を知った学良は、突然姿を消した。以後奉天に戻るまでの張学良の行動は、長い間謎とされてきた。

山海関を過ぎると(*華北を離れ満州の地に入ると)、日本兵でいっぱいだということは分かっていました。日本兵に見つかれば殺されるかも知れないと思いました。そこで私は炊事兵に変装して汽車に乗り奉天に戻りました。』

 学良の話の途中だが、「河本手記」では、河本はここのところを次のように言っている。(後でも出てくる。)

秦、松井の両者から、張学良に対し何ら他意のないことを示して、すみやかに張(*学良)、楊両人の帰奉することを慫慂したので、ようやく学良も安心して、秘かに苦力(くーりー)に変装して奉天に帰ってきたのであった。』

 河本は、誰にも分からないと思って自分の主張に都合のいい話をでっち上げたのだろう。学良の話に戻ろう。

 誰も私だと気付きませんでした。奉天に帰って張帥府に私が姿を現しても、部下でさえ私と信じませんでした。・・・しかし私は父の字をそっくりまねて書くことができましたし、父の印鑑も残っていましたので、父の名で次々と命令を下しました。そして黒竜江や奉天の懸案事項がすべて解決してから、父の死を発表したのです。』

「張学良の昭和史最後の証言」では、張学良の側近だった芦広績へのインタビューも再三引用されている。その芦広績は次のように言っている。

我々は、事件が日本の関東軍によって仕組まれていたことを知っていましたので、張作霖の死を発表せずに隠すことにしました。我々は関東軍が張作霖が本当に死んだことが分かれば、この機会に乗じて兵を奉天に進めるのではないかと恐れたのです。我々が隠したことにより、日本軍は最後まで張作霖が死んだのか否か、はっきりした状況をつかむことはできませんでした。』
こうして事はうまく運びました。張学良が関内から無事戻ることにより、この難局が乗り切れたのです。東北の老将張作霖は、張学良を若い指導者として立派に育て上げていたのですね。張学良はある種の威信があり、彼の帰還後は奉天軍閥内部が非常に安定しました。こうして日本はチャンスを見つけられず、兵を動かすことはできませんでした。』

 ここでやはり問題になるのは、張作霖の後継者選びである。帝国主義日本にとっては、満州の傀儡の頭選びと言うことでもある。

何度も引用している河本手記(文芸春秋 昭和29年12月号)では、ここの事情はやや詳しい。

・・・日本側では今後の東三省(*満州)の首脳者には、誰を選ぶべきかについて種々の意見が行われ、奉天軍の軍事顧問であった松井七夫少将一派は楊宇霆(*よううてい)を推し、当時奉天特務機関にあった秦真次少将の一派は張学良を推し、その間に種々暗闘があった。』

 楊宇霆は、張作霖の長年の部下であり、張作霖なきあと張学良と並んで、奉天軍閥を掌握しうる人物であった。張学良と較べると、いかにも旧いタイプの軍閥軍人で、当時の奉天軍閥内の人望は張学良に集まっていた。また奉天軍閥に日本の軍事顧問がいた、というとなにか奇異に感じられるかも知れないが、例の「21ヶ条条約」の中の「南満州に於ける外国顧問教官に関する交換公文」に「支那国政府は将来南満州に於いて政治財政軍事警察に関する外国顧問教官を傭聘せむとするときは最先に日本人を傭聘すべし。」とあるのが実施されていたのである。
参考資料:「21ヶ条条約」1915年5月 参照のこと
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/china/21kajyo_191505.htm>

 また、特務機関は、日本語Wikipediaでは「主に軍隊または準軍事組織における特殊軍事組織をいい、諜報・宣撫工作・対反乱作戦などを占領地域、或いは作戦地域で行う組織である。広義にはそれらに類する特殊任務を遂行する組織も含まれる。」(特務機関<http://ja.wikipedia.org/wiki/特務機関>)と何のことかわからない説明をしているが、要するに軍事工作機関・軍事諜報機関である。この時期帝国主義日本が、アヘン密売、誘拐、殺人、煽動などを含む表沙汰に出来ないような汚い仕事を一手に引き受けた。満州における奉天特務機関、華北における天津特務機関が有名である。(特務機関は本来有名になってはいけないはずだが、これはどうなんだろうか?私にはわからない。)

 さて河本を続けよう。

・・・このまま奉天を空にして(*張学良も、楊宇霆も日本軍を警戒して奉天には戻らなかった)、主権者なしで置くことは、統治上面白くないので、秦、松井の両者から、張学良に対し何ら他意のないことを示して(*河本大作の演説中だが、親父を暗殺しておいて、何ら他意はない、もないものだ。)、すみやかに張、楊両人の帰奉することを慫慂したので、ようやく学良も安心して、秘かに苦力(くーりー)に変装して奉天に帰ってきたのであった。(*また遮って申し訳ない。河本のものいいがよくわからない。安心した人間が苦力に変装して奉天に帰ってくるものか。十分警戒したから、張学良はそうしたのだ。河本は自分がわかっていないことを、得々として解説している。こういう人物は問いに落ちないで語るに落ちるものだ。)

ちょうどその頃のことであった。前支那大使林権助氏が奉天へ来て、まだ何となく落ち着かぬ気持ちでいる張学良に逢った。』
   


田中義一政権の甘い見通し

 河本は何故こういう言い方をしたのか。或いは直接の執筆者である平野零児が聞き間違えたのか。林権助は、清国公使、支那駐在公使を歴任した中国問題専門家であり、なにより張作霖・張学良親子と極めて親密な関係にあった。

 とにかく、張学良を国民政府の側に追いやってはならないと考えた首相田中義一は、林権助を選んで、特命全権大使に任命し、張作霖の葬儀に出席させるとともに、張学良の説得に当たらせたのであった。外務省の外交資料館には、この時田中が林に与えた指示書「林大使ノ張学良ニ申入ルベキ趣旨」という文書が保存されている。(そうだ。私は直接読んでいない。)

 以下は、「張学良の昭和史最後の証言」(角川文庫 平成7年=1995年5月25日初版)からの引用である。

「満州ハ日本の外郭ナリー」という書き出しから始まるこの文書の中で田中首相は、張作霖との間で続いた日本との友好関係を引き続き張学良との間に維持し、協力して満州を「支那全土中最モ発達シタ土地ニシタイ」旨力説している。しかし、その主眼は、やはり国民政府との妥協に張学良が走らぬよう彼を引き止めることであった。「三民主義、青天白日旗(*国民政府の国旗)ノ採用ヲナンデモナイト云フモノガアルガ、自分(*田中義一のこと)ハコレヲ一葉落チテ知ルデ駄目デアルト考へル。南方勢力ノ侵入(*南方勢力は南京に首都を置く国民政府のこと)飽ク迄モ避ケネバ日本ノ意志ハ達成セヌト確信スル。」』
  

 同書によれば、林権助は、1928年(昭和3年)の8月8日、9日、12日と三回にわたって張学良と会談した。そして次のような合意に達した。

南北妥協ニ関シテハー兎ニ角三ヶ月間形勢観望ヲ為スコトニ決定シタ』

 同書は次のように解説する。

すなわち張学良は、国民政府との妥協を三ヶ月だけ待つということになったのである。・・・これは一応、林特使のメンツを立てたともいえるが、逆に言えば三ヶ月後には国民政府の傘下に入ることもありうることを日本側に認めさせたに等しかった。・・・しかし日本側は、このとき張学良が、すでに国民党の傘下に入り中国の統一という民族自決の道を歩もうと決意していたことまでは思い至らなかったのである。』(P59)

 さて河本はこの経緯をどう説明しているか?

林権助は学良に、日本外史中の関ヶ原戦後の豊臣、徳川の関係の一節を説いて、暗に学良を秀頼に、楊宇霆を家康に擬して、大いに学良を激励した。』

 河本大作は嗤うべしである。


「私は中国人だ」

 「張学良の昭和史最後の証言」という本は、張学良のインタビューを含んでいる。というより、90歳の誕生日を機会に台湾での軟禁状態が事実上解けた張学良に、NHKがインタビューしテレビ番組を作るのがもともとの目的であった。このテレビ番組はNHKスペシャル『「張学良はいま語る」―日中戦争への道―』と題されて1991年に放映された。そのときの取材材料とこれに伴う研究材料がまとまってこの本ができたのだから、張学良のインタビューがこの本の中に含まれていて当然である。

 この本は直接張学良にインタビューした歴史学者の臼井勝美と当時のNHKの特別主幹だった磯村という人物が表に出ているが、実際の執筆者は当時の番組ディレクターだった、長井曉と塩田純である。そう、あの長井曉である。こういう優秀な人物が、NHKの中心から遠ざけられ、NHKが「体制プロバガンダ」ジャーナリズムになっていくのは、残念である。

 ともかくこのインタビューで張学良は、林権助との会見をどう説明しているのかそれを見てみよう。

林権助さんは再三にわたって、私に国民政府と合作しないように働きかけてきました。私は最後まで明確な返答をしませんでした。避けていたのです。私は、彼が帰る時食事に招待し、お酒も飲みました。

その時、林さんはこう言いました。「あなたのお父さんと、私とは古くからの友人です。しかも、私は政府の命を受けてあなたのもとを訪れたのです。それにもかかわらず、あなたは終始明確な回答をしませんでしたね」

そこで私はこう答えたのです。「林先生。あなたが私の代わりになって考えてくださったことは、私自身が考えるよりも、もっとすばらしいものでした」

すると彼はとても喜びました。

「でも、ひとつだけ考えていらっしゃらなかったことがあります」と私が言うと、彼は怪訝な顔をして、「いったいそれはなんですか?」と尋ねたので、私は答えました。「それは私が中国人だということです」』

 張学良が南京政府との合同を考えていたのは、なにも日本軍に父張作霖を殺されたという理由ばかりではないようだ。

 第一次国共合作が成立して、南京政府が北伐を開始する。そして軍閥・北京政府の打倒を目指して怒濤の如く北上してくる。
その6「真性民主主義と我々市民の責任」
<http://www.inaco.co.jp/isaac/back/023-6/023-6.htm>
参照のこと)

張作霖はこの北伐に介入し、南京政府に対決姿勢を示すようになる。またこのことが、満蒙分離政策を推進し、張作霖には満州に閉じこもって温和しく傀儡でいて欲しかった帝国主義日本が、張作霖を見限る要因にもなったのだが、張学良は、帝国主義日本とは全く反対の立場から悩んでいた。

当時私は父のことで悩んでいました。私は父が行っている内戦に反対だったからです。ですから私は父に、「私たちが戦っているこの戦争に、どのような意味があるのですか?なぜ私たちは、こんな戦いをしているのですか?」と詰め寄りました。私は河南省で路頭に迷う多くの人を見て、とても可哀そうに思いました。私は涙を流しながら叫びました。「これは一体どういうことなんです?一体何のために?」あの時、あのように人々が苦しんでいたのは、すべて内戦のせいだったのです。』(「張学良の証言」前掲書)

 張学良のこの言葉に全くウソが混じっていなかったことは、後に起こる「西安事件」で立派に証明される・・・。

張学良に入れ込まないようにしようとしている。入れ込むと長くなる。こんな長いもの、一体誰が読んでくれる?・・・ええい、もう、どうともなれ!これは自分自身のために書いているのだ。)


東三省に翻る青天白日旗

 こうして、1928年(昭和3年)12月、張学良は林との約束を守った形で、青天白日旗を満州に掲げ、南京国民政府に合流することを表明し、ここに南京国民政府の北伐は終了し、全国統一は完成するのである。

 「青天白日旗を満州に掲げ」と書いたが、これは歴史家がこの出来事を形容する時の決まり文句である。だから私も歴史家の「文学的表現」として受け止めていた。つまり実際に青天白日旗が掲げられたのではなく(そりぁ、1本や2本は揚がったのかも知れないが)、張学良帰順の代名詞的表現だとおもっていた。

 ところが、「張学良の昭和史最後の証言」を読むと、そうではなく、実際に満州全土に青天白日旗が翻ったようなのだ。

以下同書P97の記述をそっくり引用しよう。

しかし、この頃すでに張学良は日本側の執拗は働きかけをはねつけ、奉天軍閥の一部にあった反対意見を抑えつける形で、国民政府の中国の統一を東北も受け入れることを決意していた。そして1928年12月28日に、東北全土の旗を、国民政府の青天白日旗に取り替える「易幟(えきし)」を断行した。これにより、日本との訣別の姿勢を鮮明にしたのである。
 
(* 以下インタビュアーの質問)
「この易幟は中国の統一という点から見て、歴史的に非常に重要な分岐点だと思いますが、この易幟の準備はどういうふうにしたのでしょうか」

(* 以下張学良の答え。原文には「」はない。)

 「私は命令してから3日間で用意させました。被服工場で青天白日旗を作らせたのです。当時、部下は私を非常に恐れていました。私は非常に厳しく、私の言ったことは必ずやらなければならなかったのです。できないと言うことは許されませんでした。当時日本人は自分たちが優れていると思っていたようですが、中国のことをまったく分かっていませんでした。あのとき私が国旗を青天白日旗に換えようとしていることを、日本人は気付きませんでした。1本の旗だけではなく、東北全土の旗を換える準備をしていたにもかかわらずです。日本の諜報活動は実にお粗末で、当時諜報活動のために注ぎ込んだ金は、全てごみ箱に捨てたも同然でした。」』
  

 この張学良の話に出てくる「奉天軍閥の一部にあった反対意見」というのは具体的には楊宇霆の反対である。

 従って張学良は楊宇霆との対決をさけることはできなかった。

 この確執のことは、「河本手記」にも出てくる。最初にそれを見よう。ただ、「河本手記」では、太閤秀吉なきあとの秀頼を張学良に擬し、楊宇霆を家康に擬すくらいのセンスだから、大して面白い分析ではない。しかし、当時の帝国主義日本・関東軍が、いかに独善的な主観論の立場から事態収拾を考えていたかを知るには格好の材料である。

学良の楊に対する猜疑はここにおいていよいよ深く、楊に対して学良はひそかに害意を懐くようになった。

張作霖爆死後の翌年(*1929年=昭和4年)4月、学良は、奉天督軍公署に楊宇霆を招いた。そしてかねて謀っておき、衛兵長の某をして、その場に楊をピストルで射殺させてしまった。

これを知ってかねて学良擁立を考えていた秦少将、奉天軍にはいっていた黄慕将軍(荒木五郎)等は、すかさずこの機会を捉えて、張学良を主権者に推し、学良を親日に導かんと画策した。しかし当時すでに学良周囲の若い要人達は、欧米に心酔して、自由主義的立場にあって、学良もまたこれらの者をブレインとして重く用いていたので、学良の恐日は、漸々と排日に変移し、ついには侮日とまで進んでいった。』

 この河本の認識は、すなわち河本がこの話を平野零児に書きとらせたのは、戦後である。その時点においても、河本や関東軍は28年12月の張学良の易幟を、明確な意思表示として認識していなかった。またその4ヶ月後、学良が、親日派であり南京政府への合流に頑強に反対していた楊宇霆を謀殺したことも明確な意思表示と捉えていなかった。関東軍もまた同様である。

 河本は自他共に許す「中国通」である。しかし、この頃の「ロシア通」や「中国通」が全く対象について何も分かっていなかったということはしばしばお目にかかる。いわば木を見て森を見ない、とか「一知半解」とかいう表現がよく当てはまる現象である。まことに張学良が「日本人は中国のことが全く分かっていなかった」と言うとおりである。

 次に河本ばかりではなく、この時代の多くの軍人、政治家、ジャーナリスト、学者についてもいえるのだが、日本を取り巻く国際情勢の分析を、河本がここで使っている言葉、「恐日」(これは余りおめにかからないけれど)、「排日」「侮日」という言葉に代表されるように、「日本に対する態度・姿勢」で判断する極めて粗雑な認識も大きな特徴としてあげられる。


楊宇霆謀殺事件

 この「楊宇霆謀殺事件」を張学良の側から眺めてみるとどうなるのか?

 前掲書「張学良の昭和史最後の証言」では当然この事件のことも出てくる。国民政府との合体、中国統一を目指す張学良にとって、進んで日本の傀儡になることによって個人的な政治的野望を実現しようとする楊宇霆は、まことに危険な存在になるからだ。

 張作霖なきあとの「満州の支配者」は、日本のジャーナリズムが「アヘン中毒患者」だのとかき立てていたにもかかわらず(実際張学良はアヘン吸引者だった。)、事情をよく知るものの中では、張学良、と衆目は一致していたようだ。色々な人物がそれぞれの思惑をもって学良に接近していた様子が描かれている。大川周明、床次竹二朗、土肥原賢二などの名前が挙がっている。この時期の土肥原は、奉天軍の軍事顧問であったが、張学良に満州帝国の皇帝になれ、と奨めたという。後に天津から愛新覚羅溥儀を担ぎ出して「満州帝国」の皇帝に据える画策をした中心人物が土肥原であることを考えると、この学良に対する土肥原の「勧奨」は極めて興味深い。

 すでに学良は、「中国人」として、もっとも大事なことは中国の統一であり、この中国の統一のためにはすべてのもの(自分自身の命を含めて)を捧げ尽くす決意を深く固めていたから、恐らくはこの土肥原の、およそ時代錯誤の「勧奨」など笑止千万だったことは想像に難くない。

 さて楊宇霆のことである。楊宇霆が、蒋介石国民政府の下に降ることを潔しとしなかったのは、ある意味当然でもある。

 先述の学良の側近だった芦広績は、この時のNHK取材チームに次のように語っている。

張学良には愛国心があり、同時に日本に対峙するには東北地方だけでは力不足で、全国的な力が必要だと考えていました。そこで青天白日旗を掲げることで、国民政府の支配下に入ったのです。我々にとってそれは大変なことでした。

私たちの奉天軍には30万の兵力があり、海軍に飛行機も持っていたのです。当時蒋介石の軍隊は20万に過ぎず、海軍も飛行機もありませんでした。ですから数字的に見れば私たちの勢力の方が大きかったのです。もし張作霖が生きていたら、決して国民政府に服従することすることはなかたでしょう。しかし、張学良は国内の統一のため、学国に対峙するためには中国を統一することが必要であると考え、毅然として青天白日旗を掲げたのです。』

 これを楊宇霆の立場から眺めてみれば、極めて誘惑的な状況であったはずだ。

 当時、楊宇霆ともうひとり有力な人物が奉天軍閥の中にいた。常蔭槐(じょういんかい)<http://ja.wikipedia.org/wiki/常蔭槐>である。常蔭槐は、軍人だが、奉天軍閥の運輸族である。1928年(昭和3年)4月の中外商業新報の「喧ましくなって来た満洲の鉄道問題」<http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00102154
&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA>
と題する連載記事の中にも登場してくる。

 当時常蔭槐は、東清鉄道をソ連から買収して、奉天軍閥の中に加えようと言う計画をもっていた。もちろん奉天軍閥・満州の経済力のためには、当然の計画だし、北満州からソ連の影響力を排除するにも好都合だ。しかしそれは常蔭槐の権力を強化することでもあった。張学良はこの計画に賛成しなかった。

 「張学良の昭和史最後の証言」から、張学良の秘書だった劉鳴九(りゅうめいきゅう)の話を引用すると、

楊宇霆と常蔭槐は、当時ソ連が権益をもっていた中東鉄道(*東清鉄道のこと。清は消滅しているのだから、この時代東清鉄道はやはりおかしいわけで、中東鉄道とか中東鉄路の方が正しい言い方だとは思う。)の権益を回収するように張学良に求めました。当時常蔭槐は東北交通員会の副委員長をしており、中東鉄道を彼の手中に収めたかったのです。しかし張学良はそれに同意しませんでした。常蔭槐は鉄道監督署という機構を手に入れようともしました。しかし張学良はやはり同意しませんでした。すると楊宇霆が便箋に「常蔭槐を鉄道監督署の監督として派遣する」と書き、張学良に署名を強要しようとしました。
こうした楊宇霆と常蔭槐のやり方は酷いものでした。・・・そこで張学良はふたりを粛清することを決意したのだと思います。』

 張学良自身はインタビューに答えて次のように言っている。

・・・当時私は、楊宇霆と常蔭槐の企てに気がついていました。彼らは武器と弾薬を盗んで反乱を起こそうとしていたのです。私はたとえばお前たちが反乱を起こしても必ず片付けてみせると思っていました。しかし後で考え直し、やはりそうすべきではない、と思うようになりました。他の人から残酷でひどい人間だと思われるべきではない、と思うようになりました。しかしこのまま手をこまねいていて反乱を起こさせたら、また郭松齢のときのように、民衆や部下が苦しむことになるでしょう。それならば反乱を起こす前に、処刑すべきだと考えたのです。たとえ他人に罵られ、残酷だと思われようと、このようにしなければならない、と決心したのです。』

 なお「張学良の昭和史最後の証言」の執筆者は楊宇霆や常蔭槐らの事を『奉天軍閥の親日派の重鎮』という形容をしているが、私はこの二人を「親日派」だとは思わない。楊宇霆や常蔭槐は日本の帝国主義の後ろ盾を期待して、個人的な栄達を望んだに過ぎない。また張学良は自分一個の利益や立場を完全に捨てて、「中国統一」をのみ望んだ、という明確な違いがある。

 また張学良に対しては、日本の国内に根強い批判があることも事実である。たとえば、私もしばしば引用している「第一次世界大戦」というサイトでは、同じ本の同じ箇所を引用した後、次のように論評している。

これは、あさましい弁解であろう。楊宇霆はともかく常蔭槐が反乱を企てる理由は全くない。常蔭槐はたまたま麻雀をやるための面子をつくるため同道したのである。古くからある陰謀反撃論をいいたてているにすぎない。後段の「民衆保護論」など笑止といわねばならないだろう。満州の権力を握るため殺害したと正直にいえない学良の二代目根性が出ている。

ただ張学良が決心したのは、大川周明(1886〜1957)から頼山陽の『日本外史』をおくられたときだったという説がある。その『日本外史』には、徳川家康と豊臣秀頼に丸が描かれていたという。大川がなぜ楊宇霆殺害を示唆したかといえば、「できるならば張氏を助けて東三省に王道政治を実現されたいと親身に考えるようになったのであります」(原田幸吉『大川周明博士の生涯』)と本人が説明している。』

 ただこのサイトの執筆者(多くのサイトでは、せっかく面白い議論を展開しているのに名前を名乗ってくれない。売名行為と取られるのを嫌う、あるいは名を知られるのが憚られる事情等々は理解できるが、それでは折角議論ができない。このサイト氏もそうした一人である。)を、田母神などと一緒にすべきではない。このサイト氏は自分なりに研究をし、その上で結論を出している。もちろん私とは見解が違うが、自らを深く韜晦して、田母神などというおっちょこちょいを使って世論を誘導しようとする学者・研究者グループとは明らかに違っている。

 単に同じ歴史を見、同じ事実を見ても見解がちがっているだけだ。だからこうした人たちとわれわれが、市民同士で真剣な議論をして行くことが大切なのだと思う。


近代中国建設を目指した学良

 とまれ、こうして、張学良の「易幟」は、張作霖爆殺事件よりもエポックメイキングな事件として記憶しておかねばならないだろう。この時、まがりなりにも国民政府は中国を統一したのだ。

 1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)9月柳条湖事件が発生し、満州事変が起こるまでのわずか2年あまりだが、満州は中国人にとって戦前最高の黄金期を迎えるのである。

 学良は、作霖存命中の1927年(昭和2年)6月、奉天軍内で陸軍大将に任ぜられており、事実上のナンバーツーだったといっていい。28年(昭和3年)6月作霖が爆殺されると、同じ月に「奉天督弁」に就任し事実上のナンバーワンになる。その同じ月6月には、蒋介石が北京に入城し、孫文の墓の前で「北伐」の完成を報告する。これは実質はともかく孫文の作った国民政府が中国を統一した形を取ることになる。

 東北三省の覇者、張学良が蒋介石に叛旗でも翻さない限り、帝国主義日本はこの「中国統一」に関して、介入する口実は全くない。「張作霖爆殺」を契機に奉天軍閥を挑発し、これを口実に一挙に軍事行動に出て、満州全体を占領しようという計画もまったく空振りに終わった。

 帝国主義日本はまったく表面、指を加えて見ている他はなかったのである。

(* ただし、日本の支配層は、当時事態をさほど深刻に考えていなかった。詳細な論証は省くが、大きくは3つの見方があったのだと思う。
1. 張学良政権そのものに対する過小評価。
2. 蒋介石国民政府に対する過小評価。
3. 帝国主義日本の軍事力に対する自信。)

 そして28年12月の「易幟」のあと、国民政府からは、東北辺防軍司令長官に任命され、形の上では国民政府の中に組み入れられることになる。

 『形の上では』、としたのは、国民政府自体が軍閥連合体であり、この時期決して中国人民の利益を代表した政府ではなかったからだ。従って、張学良政権も東北地方の「軍閥」として、自分の勢力範囲の拡張に精力を注がざるを得ないし、またそれがもっとも賢明な道でもあった。

 ただ、『軍閥』としての張学良政権は、ほかの軍閥とは著しい違いがあった。中国人民のための政治をおこなったことだ。一つには、張学良自身の理想主義もあったろうし、満州が新しい「経済範囲」であったため、北からのソ連、東からの日本を除くと、他の軍閥のように地域内に、決定的に大きい既成既得権保持勢力(たとえば浙江財閥のような)が存在しなかったという要素も大きいのかもしれない。

 コロンビア大学図書館の所蔵する「張学良文書」が一般に公開されたのは、つい2008年だから、ここから何か新しい切り口も出てくるのかも知れない。

 われわれ日本人の頭の中には、「満州は日本が開拓し、近代的な工業地域にしたのだ。」という見方があり、それはそれで一定程度事実だし、もともと満州開発を行って、そこから帝国主義的収奪を行うのが目的だったのだから、否定すべきでないが、そのため張作霖・張学良時代に行われた「満州の近代化」の側面を見落としがちになっているのではないかと思う。

 たとえば、張作霖・張学良時代に推進した鉄道敷設事業である。


鉄道建設と港湾建設

 1927年には打通線(打虎―通遼間)、29年には吉海線(吉林―海竜)を開通させ、東西の京奉線を完成させた。この2つの鉄道建設は、先ほど引用した中外商業新報の記事<http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00102154&
TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA>
によるとドイツ資本にたいして発注したとのことだ。さらに30年にはドイツ資本からの借款によって錦州(遼寧省の都市。遼寧省は当時奉天省と呼ばれた。)の南にある葫蘆島に大規模な港湾設備を建設しようとした。これが完成すれば、黒竜江省や吉林省の農産物・資源は南満州鉄道や日本資本の施設に依らず、海外に輸出できることになる。

 これは、日本側から批難を浴びることになった。というのは、中国側は南満州鉄道との鉄道平行線を作らないという約束があったからである。「京奉線は南満州鉄道との平行線で約束違反だ。」というのがその批難の論拠である。これは当時日本の論壇で、張作霖・張学良を批難する材料として使われた。
(* そして驚くべくことに今でも、この鉄道敷設問題が、張政権批判の根拠の一つとして使われている。)

 しかしこの批難の根拠となっている「南満州鉄道に対して平行線を敷設しない」という約束は、どこに由来するかというと、1905年日露戦争後に結ばれた「ポーツマス条約に基づく日清条約」(日清間満州に関する条約)なのである。ところが、この約束は「満鉄平行線」の定義を行っていない。

 ついでに言えば、この条約では満鉄附属地の租借も取り決められているが、「満鉄附属地」の定義も行っていない。定義をしないのは、定義をするとその定義に縛られるからであった。別な言い方をすれば、「定義」は拡大解釈の余地を奪ってしまうのである。

 この条項は、中国側が満州にどんな鉄道線を敷いても、「それは満鉄の平行線だ」という主張の余地を残すものであった。しかし強みはそのまま弱点ともなる。「平行線」に対する定義がないのだから、「平行線ではない」と主張すれば、これはそのまま主張の論拠となりうる。そして張学良はそうした。水掛論にしたのである。帝国主義日本は張学良を見くびっていた。中国を独立国としたいとする彼の思いは本物だったのである。

 何度も引用する「張学良の証言」で、張学良は次のように述べている。

 私は後に打虎山から黒竜江へ行く鉄道を敷設しました。当時東北の主要な産物は大豆でした。私たちは黒竜江の大豆を運ぶ時に南満州鉄道(満鉄)を自由に使えませんでした。また南満州鉄道は私たちの輸送を常に妨害しました。また南満州を経由すると全て大連の方へ行ってしまいます。ですから私たちは自分たちの鉄道を敷設することにしたのです。

しかしこの鉄道は南満州鉄道と並行しているといわれ、日本との間で大きな問題となりました。しかし私は並行しているとは思っていませんでした。』

 次にこの本のインタビュアーは実に馬鹿げた質問をしているのだが、それを飛ばして、

・・・私は、日本の満鉄と競争しようとしてのではありません。もし、自分の鉄道がなければ、満鉄を使わなければならないで、自分の鉄道を建設したに過ぎません。ただし私の鉄道によって満鉄が影響を受けたことは認めます。
(* これは認める、認めないの問題ではなく、事実の問題である。独占事業体に競争者が現れたのだから影響がないはずがない。しかも当時は恐慌の真っ最中であり、人とものの動きは極端に落ち込んでいた。)

私はなるべく日本人と協力したかったのです。たとえば、鉄道の建設にしても、父の代からはじめており、私が独自にはじめたことではありません。

ところが、日本には、協力しようという誠意がありませんでした。協力するには、お互いが歩み寄ることが必要です。それなのに日本は、我々をコントロールしようとばかりしていました。これではどうしようもありません。』

 葫蘆島の港を建設したことも問題になりました。当時私たちは東北で採れる大豆を海外に輸出していました。そのためには自分たちの港が必要だったのです。大連では日本の制限を受けましたので、私たちは自分の港を持ちたかったのです。日本人は東北の経済力を手中に収めておきたいと思ったようですが、私たちも当然、私たち自身の経済を発展させようと思ったのです。日本人は完全に不平等な立場にたった見方をしていました。中国をあたかも植民地のように扱っていたのです。』


訂正を要する事変前の満州イメージ

 ここで張学良が言っているように、奉天政権は独自に経済界開発も行おうとした。詳しい研究成果をまだ入手していないが興安地方の開発などが一例であろう。また教育制度の充実に力を入れようとしたことも特徴である。奉天に東北大学を設立したのも張学良政権だし、満州(東北)各地に中学校を建設したのも張政権だ。

 奉天政権が海軍をもっていた数少ない軍閥だったことは先にも見たが、自前の空軍ももった。海軍や空軍を整備するということは、単に航空機や軍艦を買い込むと言うことではない。それを操作維持する人材や整備する技術や人材、施設を持つと言うことでもある。当然のように満州(東北)の工業近代化をすすめなかればならなかった筈だ。

 田母神が論文の中で、「農業以外にはほとんど産業のなかった満州の荒野は、(*1932年の満州国建国以後だとすると13年間だが)わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。」と書いているのは、まったく根拠のないデタラメだとしても、今でも「満州を開発したのは日本だった。」と漠然とイメージしている人は多いのではないか。

 確かに、鞍山製鉄(その後昭和製鋼所、満州製鉄と名前を変えるが)のように日本人が開発した工業もあるにはある。しかし全体として満州の近代経済を整備したのは奉天軍閥だったのではないか、日本はそれを乗っ取る形で「満州国」を建国したのでないかと私は考えている。

 「満州張政権による近代化」といったテーマでの学術研究が余り見当たらないので、私の見方はまだ想像に過ぎないが、それは日本の研究者がこのテーマに大きな関心を持っていなかったためであって、実際には奉天軍閥は相当な満州の経済近代化をおこなったのではないかと思う。

 私の全くあてずっぽというわけではなく、そのことをうかがわせる傍証はいくつかある。

 一つには奉天軍閥の軍事力である。30万の軍隊、しかも陸海空軍を整備するには、経済力とそれを支える工業力があったはずだという推測。

 それと人口の増加である。前回『中国人にとっては「地獄の満州国」』
<http://www.inaco.co.jp/isaac/back/023-9/023-9-1.htm>
<http://www.inaco.co.jp/isaac/back/023-9/023-9-2.htm>
<http://www.inaco.co.jp/isaac/back/023-9/023-9-3.htm>で詳しくみたように、満州の人口は1911年から1928年の間にもっとも増えている。大ざっぱにいって1500万人から3000万人だ。それではこれがすべて、満州事変前、日本の支配していた満鉄附属地で増えたのかというとそうでもない。満州日日新聞・1937年1月16日付けの記事を見ても、前年10月末現在満州主要都市人口は248万人に過ぎない。従って前述の人口増加は、満鉄附属地以外で発生しているとみなければならない。

 田母神は「(*満州帝国は)成立当初の1932年1月には3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。」と書いていたが、これは大うそであることは先の『中国人にとっては「地獄の満州国」』の中で詳しく見た。

 しかし実際に100万人近く増えた年がなかったかというとそうでもない。確認できるところでいうと1927年(昭和2年)中国人労働者の入満数は、1,043,772人、離満数281,295人で差し引き762,477人増加、翌28年はそれぞれ967,154人、342,979人で差し引き624,175人の増加、29年はそれぞれ941,661人、541,254人で差し引き400,407人の増加である。「満州国」成立の1932年(昭和6年)は、416,825の入満数に対して402,809人の離満者であり差し引き14,016人しか増加していない。「満州国成立後」は、「満州国」が中国人の入国制限をしたためもあって、満州の中国人人口は減り始めている。1939年以降はまた中国人労働者の入満数は100万人レベルに戻るのだが、これは前回見たように、自然増なのではなく、「満州国」が予算を組んで「労働者狩りを」を行った結果であった。そのため離満者の数も夥しく実質増では、ついに張作霖・張学良時代には及ばなかった。<関連資料> 中国人労働者入離満数の年度別統計<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/china/roudousya.htm>参照のこと。)

 私は26年以前の数字は持っていないが、想像するに毎年50万人以上のレベルで増え続けたに違いない。

 要するに満州の人口増は張作霖・張学良政権時代にそのピークを迎えるのであり、「満州国成立後」は、増勢ははっきり衰えているのである。


中央銀行接収を真っ先におこなった日本軍

 さらに、奉天軍閥による満州経営、経済の近代化が整備されていたのではないかという傍証としてあげたいのが、満州事変直後の日本軍の動きである。

 柳条湖事件を口実として、日本軍は一斉に軍事行動を起こし、満州全土を占領するのだが、あとで詳しく見るように、最強の軍事力をもった奉天軍は軍事的抵抗をまったく見せなかった。

 それだけに日本軍の動きから、その占領計画とその意図が窺いやすい。

 以降は、古屋哲夫の『満州国の研究』第1部「満州国」の成立第2章「満州国」の創出、と題する論文に沿って見ていくことにする。

古屋の主要な論文は、実は、ほとんど彼のWebサイトから自由に無料で読むことができる。<http://www.furuyatetuo.com/>

「ご挨拶」<http://www.furuyatetuo.com/goaisatsu.htm>を見てみると、「私、古屋哲夫は、2006年12月2日午後2時2分、この世を去りました。」と随分人を食った書き出しではじまっている。

自分の人生は、自分の能力からすれば出来すぎだ。
日本人として、初めて敗戦を経験する事も出来て満足している。
神様がもう一度初めから人間をやらせてやると言われても、御断りして、その分長生きさせてくれるよう御願いしたい。
今、死と言うこの世の運命を受け入れ、あの世の新しい運命と取り組みます。」

 しかし、
昭和6年3月21日、私は、この世に生まれた。
 この頃はアメリカから始まった世界大恐慌の波が日本にも押し寄せてきており、世の中は不況のさなかであった。そしてその背後では、軍部は戦争への道に歩み出そうとしていた。私の生まれる前日には、未遂に終ったとはいえ、軍部内閣をつくるためのクーデターが予定されていた。後に『三月事件』と呼ばれるようになったこのクーデター計画は、極秘のうちにもみ消されてしまったが、然しそれは、『満蒙侵略』についての暗黙の了解が、軍中枢部に成立した事を意味していた。・・・」

 読んでいるうちに古屋の思いが伝わってきて目頭が熱くなる。古屋の「あの世の新しい運命」とは何か?私には分からない。確実に云えることは、インターネット時代という新たな時代を利用して、古屋は自分の研究を広く市民に公開し、これらを我々市民が読んで考え研究することで、そこから我々市民が学び、権力に騙されない、自分の頭でものを考えることのできる真性民主主義社会の市民を一人でも多く作りたかったに違いない、ということだ。私も古屋の好意にすがってこれら貴重な労作を活用させてもらっている。

これから先は著作・論文で又会いましょう。活用して頂ければ本望です。
では、さようなら…。」
と古屋は結んでいる。)

 古屋論文の引用からはじめよう。

 1931年(*昭和6年)9月18日午後10時30分、柳条湖付近の満鉄線が爆破されると、日本軍は奉天北大営の中国軍への攻撃を開始、翌19日午前6時30分これを完全に占領しているが、この純軍事行動についてはすでに明らかにされているといってよいだろう。』(同論文 1満州建国の形成@出発点としての奉天軍政)
  
 ところが、古屋によれば、参謀本部編「満州事変作戦経過の概要」(厳南堂書店復刻、1972年)に

午前5時30分頃ヨリ前進ヲ開始シ殆ト抵抗ヲ受クルコトナク午前6時頃マテニ内城(*首都奉天城のこと)東側城壁ノ線ニ進出シ一部ヲ以テ主要ナル官衙、銀行等ヲ占領』

 とあるという。

 つまり、関東軍は、満州事変の初動軍事行動は、奉天政権の首都奉天における軍事拠点(北大営)を占拠する計画と同時に、「主要ナル官衙、銀行等」を占領目標とし、ほぼ同じ時刻にその目的を達成したというのだ。

 古屋は、「特に重要な意味を持っているのは、東三省官銀号などの金融機関の掌握であったと思われる。」と述べている。

 東三省官銀号は、奉天政権の中央銀行のような存在で、吉林永衡官銀銭号(吉林省)、辺業銀行(奉天)、黒竜江官銀号(黒竜江省)のそれぞれの発券銀行であった。


満州中央銀行の実態とは

 「満州国」が成立するのは、1932年3月1日であるが、満州中央銀行は早くもその4ヶ月後の7月1日には開業する。しかも張学良時代東三省官銀号永衡官銀銭号、辺業銀行、黒竜江官銀号の施設、組織をそっくり引き継いで成立するのである。
(<参考資料>満州金融界の今昔 1932年11月 東京朝日新聞)

 しかもこの満州中央銀行総裁・栄厚寄稿によるこの記事は、張学良時代の銀行金融システムがいかに乱脈で、人民から嫌われていたかをいいながら、突然次のように言うのである。

中央銀行の資金は元来、国幣三千万元であるが合併成立後は、実に資金八千余万元を算し、政府公布の法律によれば銀行が紙幣を発行するには、三分の一以上の正貨準備を必要とするが、この八千余万元の準備金に対して、一億四千六百余万元の旧紙幣発行額を見ているから、その準備金は既に法律所定の準備額の二倍以上に達している。
かくの如く資金の充実せるは単に東三省において未曾有のことに属するのみならず支那各地の銀行においてもまれに見るところである。』

 ここで“国弊3000万元”といっているのは、満州中央銀行創設の際に日本が実施した資本金である。

 満州中央銀行は、政府と独立した機関ではないため、満州中央銀行券は厳密には中央銀行券ではなく、“国券”である。このためこの記事では「国弊」と表現している。

 しかし準備金としての“国弊3000万元”は、私の資料の読み間違いでなければ、日本本国から金塊や銀塊あるいは外国通貨などで調達されたものではなく、朝鮮銀行との相互保証で調達されたものだ。

 つまり満州中央銀行発足時、信頼のおける準備金は5000万元だった。ということになる。この5000万元は、張学良政権時代の銀行資産を接収して調達したものだ。この5000万元を準備金としてみれば、総発行額1億4600万元の総紙幣発行額は極めて健全な状態だったことが分かる。

 つまり怪しい出所の3000万元を加えない方が、よかったのである。さらに、独立した機関でない満州中央銀行より、政府とは独立した中央銀行であった張学良政権時代の方が金融システムとしてははるかに健全だったといえよう。  

 この時期は、まだ満州中央銀行の準備金の中に、金塊、純金、天津銀、鎮平銀などを保有していたが、段々とこの後時間が経つにつれて、準備金の中身は日本国債、日本銀行券、満州国国債、商業手形などが大半を占めるようになり、これが満州国の超インフレの原因になっていく。(前掲参考資料参照のこと)

 また中国の他の軍閥政権では、中央銀行などないも同然であったり、南京の国民政府ですら、裏付けのない発券をおこなったため、インフレによって人民が搾取・収奪されたことを考えれば、奉天軍閥は極めて抑制的かつ健全な金融政策を実施したということができるのではないか。


健全な金融システムを乗っ取った「満州国」

 ここに、満州事変当初から関東軍が、張学良体制の中央銀行をいち早く接収しようとした秘密があるように思われる。逆に言えば、「満州国」は、健全な張学良政権の金融システムをそのまま乗っ取り、最後にはこれを破滅させたという言い方も可能であろう。

先ほど引用した古屋哲夫の論文にも、

・・・従って(*日本軍)による金融資産の保護とは、その資産を張学良政権より切り離して、軍政の安定化のために利用できる状態に置くことに他ならなかった。そしてそのことはまた、張学良政権の一定の安定度を、貨幣を通じて吸収しようとすることを意味した。

張作霖時代の末期、1925年の郭松齢事件を直接のきっかけとし、以後の張作霖軍の関内進出、国民革命軍(*北伐軍)への敗北という事態の中で、「奉天票の暴落」現象が深刻化していったが、張作霖爆殺事件後満州を掌握した張学良は・・・この混乱を収拾して相当程度の幣制の安定を実現していたと見られる。この問題については、西村成雄の最近の研究に詳しいが、当時矢内原忠雄は次のように指摘していた。』

 西村成雄は元大阪外語大学の教授で中国研究の権威である。<http://read.jst.go.jp/public/cs_ksh_012EventAction.do?action4=event&lang
_act4=J&judge_act4=2&code_act4=1000031855>
また古屋が参考にした研究は『張学良政権下の幣制改革-「現大洋票」の政治的含意-』(東洋史研究 50巻4号 1992年)の事である。

 また矢内原忠雄は元東大総長で経済学者の矢内原忠雄<http://ja.wikipedia.org/wiki/矢内原忠雄>のことであり、古屋が引用している論文は『満州日報 1931年9月24付け寄稿論文』のことである。

 古屋は矢内原を次のように引用する。

 (張学良)政府は1929年(昭和4年)5月、東三省官銀号、辺業銀行、並に中国・交通両奉天支店を以て遼寧4行号発行準備庫を組織せしめ・・・聯合準備制度の下に現大洋兌換券を発行し、同年6月現大洋一元に対し奉票60元の公定相場を定めた。これにより奉天票は現大洋票の補助貨となり、新通貨たる現大洋票の下に貨幣価値は一応安定を恢復したのであった。』

 これら一連の記述は、さきに引用した東京朝日新聞のプロバガンダ臭い記事とは相当趣を異にする。

 前期の記述に続けて、古屋は次のように言う。

のちの満州国の幣制統一が、こうした現大洋票の安定性を基礎とスるものであったことは、32年満州中央銀行の発足にあたって、東三省官銀号の現大洋券に「満州中央銀行」の朱印を押して暫定的な満州国通貨としたことを見ても明らかであった。』(32年7月1日付け 満州中央銀行公告。なお、前掲東京朝日新聞の記事ではこの事実に全く触れていない。)

「満州国」は、張学良政権の財産を乗っ取ってスタートしたという徴候は他にもある。


健全な社会自体を乗っ取った?

 それはリットン調査団報告書にもあるように、日本軍は、
(*1931年)9月19日奉天占拠の直後、支那銀行(*これは先にも見た張学良政権下の各発券銀行のこと)、鉄道事務所、公共事業事務所、鉱山管理事務所等の内部又は門前に護衛を置き、然る後、これら事業の財政的又は一般的状況の調査行われたり。』
(外務省仮訳『リットン報告書全文』朝日新聞社 1932年)
とあるように、既存の主な官庁・事務所を制圧し、そこに日本人官吏を送り込んで、既存のシステムを再開させるだけでこと足りたからである。

 こうして見てくると、「田母神論文」に示された「満州は無住の荒野であり、1932年満州国成立によって初めて開発に着手され、わずかの間に近代工業国家に生まれ変わった。」という認識は大いに怪しくなってくる。

 この認識は何も「田母神論文」やその背後で田母神を操作している「被害妄想史観」の学者・研究者だけの認識ではないのではないか。相当多くの日本人が、「満州」に対して抱いているイメージではないだろうか?

 これまで見てきたように、張作霖・張学良政権下で満州は、相当な経済開発と、民生の安定を実現していたということが云える。

 帝国主義日本は、こうした安定した満州をほぼ無傷で乗っ取り、いわば「張政権」の遺産の上に、「満州国」という傀儡国家を打ち立て、さらに戦時体制下の、極めていびつな近代工業化を進め、収奪と搾取を強化しながら、最終的には、「満州」をその根底から破壊してしまったのだと思える。

 もし私が正しいとするなら、何故多くの日本人は、「満州を工業化したのは日本」という誤った認識を戦前から戦後一貫して持ち続けたのか・・・。

 「田母神論文」などよりもその方が、遙かに基本的な問題だと思えてならない・・・。


(以下次回)